平家物語 九 （第五本）
Ｂ２１８５
Ｐ３００１（一オ）
一 院ノ拝礼并殿下ノ拝礼無事 二 平家八嶋ニテ年ヲ経ル事
三 義仲為（二）平家追討（一）欲（レ）下（二）西国（一）事 四 義仲可（レ）為（二）征夷将軍（一）宣下事
五 樋口次郎河内国ニテ行家ト合戦事 六 梶原与佐々木馬所望事
七 兵衛佐ノ軍兵等付（二）宇治勢田（一）事 八 義経院御所ヘ参事
九 義仲都落ル事付義仲被討事 十 樋口次郎成（二）降人（一）事
十一 師家摂政ヲ被（レ）止給事 十二 義仲等頸渡事
十三 義経鞍馬ヘ参ル事 十四 義経可（レ）征（二）伐平家（一）之由被（レ）仰事
十五 平家一谷ニ構（二）城郭一事 十六 能登守四国者共討平ル事
十七 平家福原ニテ行（二）仏事（一）事付除目行事 十八 梶原摂津国勝尾寺焼払事
十九 法皇為（二）平家追討御祈（一）被（レ）作（二）始毘沙門（一）事 二十 源氏三草山并一谷追落事
Ｐ３００２（一ウ）
廿一 越中前司盛俊被（レ）討事 廿二 薩摩守忠度被（レ）討給事
廿三 本三位中将被（二）生取（一）給事 廿四 新中納言落給事付武蔵守被討給事
廿五 敦盛被（レ）討給事付敦盛頸八嶋ヘ送事 廿六 備中守沈（レ）海給事
廿七 越前三位通盛被（レ）討給事 廿八 大夫業盛被（レ）討給事
廿九 平家ノ人々ノ頸共取懸ル事 三十 通盛北方ニ合初ル事付同北方ノ身投給事
卅一 平氏頸共大路ヲ被（レ）渡事 卅二 維盛ノ北方平家ノ頸見セニ遣ル事
Ｐ３００３（二オ）
平家物語第五本
一〔院ノ拝礼并殿下ノ拝礼無事〕 元暦元年甲辰正月一日、院ハ去年十二月十日、五条内裏ヨリ大膳大
夫業忠ガ六条西洞院ノ家ヘ渡セ給。世間モ未ルダ落居一セ上ヘ、御所ノ躰、
礼儀可被行一所ニモアラネバ、拝礼モナシ。院ノ拝礼無リケレバ、殿下ノ拝
礼モ不被行一。内裏ニハ主上渡セ給ヘドモ、例年寅ノ一点ニ被行、四方
拝モナシ。清涼殿ノ御簾モ上ラレズ。解陣トテ南殿ノ御格子
三間計ゾ上ラレタリケル。
〔二〕〔平家八嶋ニテ年ヲ経ル事〕 平家ハ讃岐国屋嶋ノ礒ニ春ヲ迎テ、年ノ始ナリケレドモ、元日元三ノ
儀式コソ事宜シカラネ。先帝マシマセバ主上ト仰奉ドモ、四方モ
ナシ。節会モ行ハレズ。氷ノタメシモ奉ラズ。〓［魚＋寅］モ奏セズ。世乱タリシ
Ｐ３００４（二ウ）
カドモ、都ニテハサスガニカクハナカリシ物ヲト、恋シクゾ思食レシ。青
陽ノ春モ来ドモ、浦吹風モ和ニ、日影モノドカニナリユケドモ、平家ノ
人々ハ寒苦鳥ニコトナラズ。イツトナク氷ニトヂコメラレタル心地ス。東
岸西岸ノ柳、遅速不同。南枝北枝ノ梅、開落既異ナリ。花ノ朝、
月ノ夜、詩ヲ作リ歌ヲヨミ、鞠、小弓、扇、サマ＜”ノ興アリシ事
共モ思出テ、語合テ、長キ日ヲイトヾクラシカネ給ヘルゾ哀ナル。
〔三〕〔義仲為平家追討欲下西国事〕 十日、伊与守義仲、平家追討ノ為ニ、西国ヘ可下向之由奏聞シケリ。
被仰ケルハ、「我朝ニ神代ヨリ伝ハリタル三種ノ宝物アリ。即、神璽、
宝剣、内侍所、是也。無事故一都ヘ返シ入奉レ」ト被仰下ケレバ、畏テ
罷出ヌ。已ニ今日門出スト聞シホドニ、東国ヨリ前兵衛佐頼朝、義
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仲追討ノ為、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義経大将トシテ、数
万騎ノ軍兵ヲ差上ル由聞ケリ。其故者、義仲朝恩ニ誇テ上皇ヲ
取奉リ、五条内裏ニ押籠進テ、除目ヲ行ヒ、摂禄ヲ改奉リ、人々ヲ
解官シテ、平家ノ悪行ニ劣ラズ、朝威ヲ忽緒シ奉ル由、頼朝
被聞テ、「義仲ヲ差上セシ事ハ、仏神ヲモ崇奉リ、王法ヲモ全シ、
天下ヲモ鎮メ、君ヲモ守奉ルベシトテコソ上セシニ、イツシカサヤウノ狼
籍奇怪也。既ニ朝敵トナリヌ」トテ、怒ヲナシ、勢ヲ差シ上セラル。其
勢スデニ先陣ハ美乃国不破関ニ着ヌ、後陣尾張国鳴海
潟マデツヾイタル由シ聞ケレバ、義仲是ヲ聞テ、宇治、勢多二ノ
道ヲ打塞ムガ為ニ、親類郎従等ヲ分テ遣ス。平家ハ又福原
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マデ責上ルトノヽシル。
四〔義仲可為征夷将軍宣下事〕 十一日、義仲再三申請ニヨリテ、ナマシヰニ征夷ノ大将軍タル
ベキ宣下セラル。
五〔樋口次郎河内国ニテ行家ト合戦事〕 同十七日ニ、備前守行家河内国ニ住シテ有叛心之由聞ヘケレバ、
義仲彼ノ行家ヲ追討ノ為ニ、樋口兼光ヲ差遣ス。其勢五百余
騎ナリ。同十九日ニ、石河ノ城ニ寄テ合戦。蔵人判官家光、為兼光一
被射取ニケリ。行家軍敗テ、逃落テ、高野ニゾ籠ケル。生虜
三十人、頸切懸ラルヽ者七十人トゾ聞へシ。
六〔梶原与佐々木馬所望事〕 去十日、木曽冠者義仲ヲ追討ノ為ニ可キ上洛一東国ノ臥士、若宮権
現ノ鳥居ノ前、由伊ノ浜ニテ勢ゾロヘアリ。其中ニ梶原源太景季、鎌
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倉殿ニ参テ申ケルハ、「御秘蔵ノ御馬トハ知マイラセテ候ヘドモ、生喰ヲ給ハ（ッ）
テ京マデ引セ候バヤト存ジ候。アレヨリツヨキ馬ハ多ク持テ候ヘドモ、河ヲコキ
オヨギ候事、生喰程ノ事ハヨモ候ハジ。相構テ宇治河ニテ先陣ヲワ
タシテ、高名ヲ後代ニ伝へ候バヤト存候」ト、高ラカニゾ言上シタリ
ケル。鎌倉殿御心中ニ、「ニクヒケシタル者ノ声ヤウケシキ哉」トゾ思食
レケル。サテ仰ノ有ケルハ、「一ノ御厩ニ立タル馬ヲ人ニノスル事ナシ。淵瀬ヲ
ワタル器量ノ馬ハウスヾミモヨモ劣ジ。ウスヾミヲ給ハリ候ヘ」トテ、第二ノ
御馬ウスヾミヲゾ給ハリタリケル。アヲサギナリケルヲ、二位殿御
覧ジテ、「アヲサギハウスヾミニコソニタリケレ」ト被仰タリケルニ
ヨ（ッ）テ、ウスヾミトゾ申ケル。梶原源太、「我ニ過タル御気色ヨシハナキ
Ｐ３００８（四ウ）
物ヲ」ト思テ申タリケルニ、「声ヤウ皃ケシキニクヒケシタル者哉」ト御覧
ジタリケルコソ、案タガヒテハ覚ユレ。天ニヲセクヾマリ地ニヌキアシコトハ、此躰ノ
事ナルベシ。人更ニ身ヲバ憑マジキ事也。本意ナキ事限ナケレドモ、ウスヾミヲ
給テ罷出ニケリ。其後兵共面々ニ参テ暇申ケル中ニ、平山武者所季
重見参ニ入テ罷出ケル処ニ、西御門ニテ上総介ニ行相タリ。ミレバ、年
来ホシク思タリケル目糟毛ト云名馬ヲ前ニヒカセタリ。平山、「今所望セデ
ハイツヲ可期ゾ。無心ヲハヾカラズ所望シテミム」ト思テ、「年来日比アノ目糟
毛ヲホシク思候ヒツレドモ、『且ハ御秘蔵ノ御馬也。且ハ過分ノ所望恐アリ』ト存
候テ、未ダ言ニモ出サズ候ツレドモ、『合戦ノ道ニ罷出ル習ハ再帰ルベキニアラズ。只
今コソ最後』ト存候ヘバ、心中ノ妄念ヲ懺悔シ候」トゾ申ケル。上総介思ケルハ、
Ｐ３００９（五オ）
「命ニカヘテ思フ馬也。親ニモ子ニモ主君ニモ、手ヲ放ツベシトハ思ハネドモ、『合戦ノ
道ニ罷出習ハ再帰ルベキニアラズ。只今コソ最後ト存ジ候ヘバ、心中ノ忘念ヲ
懺悔シ候』ト云ツル志ノ面白サヨ。且ハ門出ノ所望也。且ハ平山ヲバ鎌倉殿
侍大将軍ニ思食シタリ。旁以思ニ、龍馬龍象ナリトモ惜ベキニ非ズ」ト
思テ、「イカニ平山殿、年来日比思食ケル事ヲ今マデ仰ハ候ハザリケルゾ。
銀金ノ馬ナリトモ、イカヾ御辺ニハオシミ奉ルベキ」トテ、鐙フ（ン）バリ立アガリ
テ、「平山殿ノ御殿人ヤ、アノ目糟毛請取候ヘ」ト云ケレバ、平山馬ヨリ飛
落ルマヽニ、右ノ手ヲモ（ッ）テ目糟毛ガクツバミヲトリ、左ノ手ヲ以テハ馬ノ頭ヲカ
キナデ＜シテ、「本望成就ス。穴ウレシ＜」ト云テ、下部ニ請取セテ、馬ニ乗
テケリ。上総介ハ馬ニ乗ナガラ打立テ、「面目無極シ＜」トゾアヒシラ
Ｐ３０１０（五ウ）
ヒケル。黒糟毛ナル馬ノ七寸ニアマリタリケルガ、折ヲシリ、ケハレヲフルマヒ、
事人ニハナラマサリタリケリ。目糟毛ト名タル事ハ、左ノ目ノ程ニカヽ
リテ白キ星ノ有ケル故ナリ。乗尻ノ程ヲ計ラ〔ヒ〕、臥木ヲモコヘ、江堀ヲ
モ飛ケル馬也。サテ平山申ケルハ、「ツク＜”世間ノ相ヲミルニ、直ヒ代リハナ
ケレドモ、大事ノ空ヲユヅルハ父母二親ニシクハナシ。上総介殿ノ芳恩コ
ソ父母二親ニモスグレ給ヒタレ。自今以後ハ若党共、上総殿ニ無礼バ
シ仕ルナ」トゾ悦ケル。今度ノ上洛ノ大将二人ノ内、一人ハ蒲御曹司範
頼、一人ハ九郎御曹司義経也。蒲御曹司ハ足柄ニカヽリ、九郎御曹司ハ
箱根ニゾカヽリ給ケル。九郎御曹司ハ昔ヨリ箱根権現ニ参詣ノ志オハシ
ケルアヒダ、沐浴潔斎シテ社壇入堂シ給ヘリ。兵庫鎖ノ大刀一振、別当
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シテ御宝前ニ捧グ。「南無帰命頂礼箱根権現、和光同塵ノ光ニクモ
リナク、義経ガ所願ヲ成就セシメ給ヘ。通夜御神楽ヲモシテマヒラセタク候
ヘドモ、範頼定テ早ク打過候覧ト存候ヘバ」トテ、馬ニ鞭ヲ打給ケレバ、
伊豆府ニテ蒲御曹司ニ行相給ヘリ。府ヨリハ打ツレテ、多勢ニテゾ上給
ケル。佐々木四郎隆綱、鎌倉殿ニ参タリ。「イカニ今マデ遅カリツルゾ」ト
宣へバ、「老少不定ノ堺ニテ候シ上、合戦ノ道ニ向キ候事、再ビ故郷ニ帰ル
ベシトモ存ゼズ候アヒダ、父ニテ候シ者ノ墓所ニ暇乞候ツル次ニ、十三年ノ
追善ヲ引コシテ仕リ候ツル間、遅参仕テ候。ヤガテアレヨリコソ打出べク
候ツレドモ、親ノ孝養ヲ引コシ候程ニ、無常ヲ観ジ候ナガラ、争カ今一
度ミモマヒラセ、ミヘモマヒラセ候ハデハ候ベキト存候テ、参テ候」トテ、
Ｐ３０１２（六ウ）
フシメニゾナリタリケル。鎌倉殿モ御覧ジテ、御目ニ涙ヲウケサセ給ケリ。
サテ仰ニ、「合戦ノ庭ニテ身命ヲスツベキ趣キスデニ顕レテ、神妙ニコソ覚
ユレ。和殿モ日比ホシゲニ思タリツル生喰ヲ、曳出物ニセバヤト思ガ、梶原
源太ガ所望シツルニ、オシク思テ、ウスヾミヲトラセタリツルアヒダ、路ニテ和殿
ヲ恨ミムズラムト覚ユルハ、イカヾスべキ」トゾ被仰ケル。佐々木畏申ケルハ、
「梶原ガ千万ノ恨ハサモ候ハヾ候ヘ。一疋ノ生喰ヲ給テコソ、生前ノ名誉ヲ
末代ニ伝ヘ、後生ノ面目ヲ閻王ノ庁庭ニモホドコシ候ハムズレ。其上臥士
トナリ候テ、梶原ガ恨ヲナドカ一往陳ジ開カデハ候ベキ。一切クルシカルマ
ジク候」ト言上ス。「サラバトラスル」トテ、生喰ヲゾ給ハリタリケル。此馬ヲ「生喰」
ト申ケル事ハ、二三才ノ比アドナカリケル時、ニクシト思フ者ヲクヒフセテ、
Ｐ３０１３（七オ）
サスガニクヰハコロサズ、生ナガラ足手ナドヲクヰカキケルアヒダ、「生喰」ト
名タリ。又ハ奥州ニ能ノ海トテ、メグリ〓里ノ池アリ。日本国ノ鷲ノ集
ル池ナリ。大地獄トテ又大池アリ。其間ニ名誉アル人ノシヌレバ、必ズ
魂〓定テ此ノ池ニ没ストイヘリ。カクノゴトキラノ池ハ多ト云ドモ、魚ノ
ミア（ッ）テ船ハナシ。コレニヨ（ッ）テ、池ノ辺ノ魚捕等、一丈計ナル棹ニ細ヲハリテ、
此馬ニ乗テ池上ノ水ニヲヨガセテ、魚ヲスキケルニヨ（ッ）テ、「池ズキ」ト名
タリトモイヘリ。鹿毛ナリケルガ、長八寸ノ馬ナリケリ。イトヲシキ者、ニク
キ者、ミシリタリケル馬也。狩場ノ時、鹿ナドニ相ツキテ、岸礒ヲクダリニ
馳ル時、乗主ダニモ落ヌレバ、馬モソコニ留リテ、草モクハデ主ヲ訪フ
馬ナリキ。此程ノ大事ノ御馬ナリケレドモ、「父ガ墓ニ暇乞ツヽ、十三年ノ
Ｐ３０１４（七ウ）
追善ヲモ引コシ、最後ノ見参ニモ参テ候」ト泣々申タリツル情
ヲモ、神妙也ト被思食ケル御感ノアマリニ、サシモ秘蔵シタマヒタル
生喰ヲ給ハリタリケル、佐々木四郎ガ心ノ内コソユヽシケレ。何計カウ
レシト思ケム、
トヘカシナナサケハ人ノタメナラズウキワレトテモコヽロヤハナキ
ト云古歌ノ風情思アハセラレテ哀也。千万ノ軍兵ノ中ニ、父ガ墓所
ニテ暇ヲ乞、十三年ノ追善ヲ引コシテ仕ル情ケ、親ノ為トコソ思
ケメドモ、天神地祇アハレミ給フユヘニ、鎌倉殿ヨリ生喰ヲ給ハリヌル
事、情ハゲニ人ノ為ニハアラザリケリ。コレモ又、佐々木源三秀能ガ
平治合戦之時、六波羅へ寄タリケルガ、叶ハズシテ引ケルニ、左馬
Ｐ３０１５（八オ）
頭義朝ヲノバサムトテ、五十余騎ニテ五条河原四条橋辺
マデニ返合＜戦ケレドモ叶ハズ。平家ノ軍兵多ク責来ケ
レバ、兄弟五騎ニナリテ、義朝ノ引ツル方ヘト志テ北山ヘ向ケルガ、
「我引方ヘゾ敵モオハムズラム。猶義朝ヲノバサム」ト思テ、引カヘシ
粟田口ヘ向ヒケル程ニ、伊藤武者景綱ニ行相テ、一人モノコラズ
打レニケリ。其時鎌倉殿モ十二才ニテ父ノ御共ニオハシケレバ、
「此等ノ事共ヲ思食忘レ給ハズシテ、今生喰ヲ給ハリケルカ」トゾ
申ケル。佐々木四郎究竟ノ馬ニハ乗タリケリ、生喰ヲバ引セテ
鞭鐙ヲアワセテ打ケル程ニ、一夜半日ガ程ニ駿河国浮嶋原
ニテ追付タリ。其後梶原、前後ノ勢ヲ見知バヤト思テ、馬ヲ一
Ｐ３０１６（八ウ）
段計打ノケテ、ウマズメノ松ト云松下ニ鐙フムバリ立アガリテ、通ル勢
共ヲミル処ニ、「二三百疋モヤ過ヌラム。サレドモウスヾミ程ノ馬コソナカリ
ケレ。理ヤ、鎌倉殿ノ御秘蔵ノ御馬ナレバ、争カ此ニハナラブ馬アルベキ」ト
思処ニ、誰トハ不知、アキヨゲナル武者一騎、乗替四五騎、馬三疋引セテ、
鞭ヲ揚テ出来タリ。誰ナルラムト目ヲ懸タル処ニ、師子ヤ大象モカクヤ
有ラム、麒麟八疋ノ駒モ此ニハスギジト覚ヘタル馬、マ（ッ）先ニ引セテ出来タリ。
ミレバ佐々木ノ四郎隆綱也。引セタル馬三疋ノ内ニ生喰アリ。梶原ト
申ハ大悪心ノ腹悪也、死生不知ノ切通ニテ侍ケルアヒダ、生喰ト云
ツルヨリシテ、身ヨリ猛火ヲ燃ケル。「弓矢取ノ習ハ、必シモ親ノ敵、宿
世ノ敵ヲノミ敵ト云カ。当座ノ恥コソ親ノ敵ニモマサリタレ。コレ程主ニ
Ｐ３０１７（九オ）
ニクマレ奉タル景季ガ命イキテハナニカハスべキ。口惜事シ給ツル
鎌倉殿哉。是ミヨカシ」ト思ガホニテ、「マ（ッ）先ニ引セタル佐々木ニ過タル目ノ
敵ハ有ベカラズ。木曽ノ冠者ヲ打ムヨリハ佐々木ヲ打ム」ト思テゾ、「アノ
馬ヲバ隆綱ニハ給ツラム。只一矢ニ射落シテ、生喰ヲバコヽニテコソ給ラメ」ト
思テ、矢タバネトキテ押クツログ、モトハズスヘハズシメオホセテ、郎等
八騎有ケルニ用意セサセテ待懸タリ。梶原ハ諸人ニニクマレケル間、
用心スル事ヒマモナシ。サレバ、人ハキザリケレドモ、冑ヲゾキタリケル。火威冑ニ
紅ノホロヲゾ懸タリケル。廿四差タル黒ホロノ矢ニ滋藤ノ弓絃打シテ、
サビツキゲナル馬ノ呈シキニ、白伏輪ノ鞍ヲ置テ乗タリケリ。郎等
八騎、馬ノ鼻ヲ並ベテ引ヘタリケルガ、佐々木追付ケレバ、同ジサマニ
Ｐ３０１８（九ウ）
打出テ対面シタリケリ。「イカニ佐々木殿、ヲクレヲバシ給ゾ。アレハ生
喰トミ候ハイカニ」。「サム候」ト答フ。「景季ガ所望申テ候ニタビ候ハヌニ、
佐々木殿ノ給ハラセ給条、何躰ナル子細ニテ侯ゾヤ。遺恨ノ次第
哉」トイヘリ。佐々木思ケルハ、「ニクヒ梶原ガ言カナ。何ナル子細ニテモ
アレ、ソレニ〓［糸＋寄］ベカラズ。子息兄弟所従眷属バシニ物ヲ云様ニ、放逸
ナル者ノヽ言ヤウカナ。シヤ喉ブエ射貫テ、只一矢ニ射落サバヤ」ト
ゾ思ケル。已ニ矢ヌカムト思ケル処ニ、シバシア（ッ）テ、「アレハ冑キタリ。我
身ハ腹巻ヲダニモキズ。サゲ針ノ上手モ定ノ矢ツボヲ射ソムズル事。
其上鎌倉殿ノ仰ニ、『梶原ガ恨ミム時ハイカヾセムズル』ト御心苦ゲニ御
定有シヲ、『トモカクモ陳ジ開候ベシ』ト、物タノモシク申シタリツル甲斐モナ〔シ〕。
Ｐ３０１９（一〇オ）
イツシカコヽニテ人ヲモ失ヒ我モ失ム事、不覚ノ次第ナルベシ。一往陳ジ
テミム」ト思テ、「ヤ、殿、梶原殿、キヽ給ヘ。殿ハ今度コソ所望申サセ給タリ
ツラメ。隆綱ガ去年ノ春ヨリ、御気色任テ折々ゴトニ申侍シガ、
終ニ給ハラズ。一昨日親ノタメニ最後ノ仏事仕シ間、昨日ノ由伊浜ノ兵
具ゾロヘニハヅレ候テ、遅参シテ候キ。サテ怱ギ追付マヒラセムト心計ハ
スヽメドモ、貧ハ諸道ノ妨ニテ、甲斐＜シキ馬ハ候ハズ。サリトテハト思テ、
御厩ノ小平次ニ酒ヲノマセテ候ヘバ、下居ノシルシノ哀サハ、ヤガテ酔テ
ネ入テ候シ時、盗取テ、アレニノリテヨモスガラ馳テコソ、此程早ハ追付キ
マヒラセテハ候ヘ。全ク君ヨリ給タル事候ハズ。人ニハ名聞ナレバ給ハリタル
ヨシヲ申サムズル也。心得給へ。今度ノ合戦ニ若シ存命シテ候トモ、御
Ｐ３０２０（一〇ウ）
勘当ヲ蒙ルベキ身ニテ候へバ、アヂキナク覚候。サヤウニ御勘当候ハム
時、誰カ申ユルシテ給ベシトモ覚ヘズ候」トテ、歎ク色ヲゾシタリケル。
梶原思ケルハ、「ゲニ我モヌスムべカリケル事ヲヤ。ツヤ／＼思ヨラズシテ、
佐々木ニハヤヌスマレニケリ。アタラ馬ヲ終ニソラシヌル事コソ念ナケレ。
穴口惜／＼」トゾ思ケル。サテ申ケルハ、「弓矢取ノ郎従ノ、主ノ馬ヲヌス
ミテ主ノ敵討ニ趣ム事、何条ノ御勘当カ候ベキ。馬盗人ヲバ頸ヲ
キリ、ハ（ッ）ツケナドニスル事也。マシテ同僚ニハシタガラヌ事ナレドモ、佐々
木殿ノ盗ハアエ物ニモシタシ、男子生タラム産所ニハ請ジ入レマヒラセテ、
引目ヲモ射サセマヒラセ、元服袴着ノ時ハ横座ニスヘマヒラスべキ程ノ
盗哉」トテ、打ツレテゾ咲ケル。「抑、『御勘当カブリタリトモ申ユルスべキ
Ｐ３０２１（一一オ）
人モナシ』ト仰ラレツルハ、景季ガ聞耳ト覚候。八幡モ御知見候ヘ。勲
功ノ賞ニモ申カヘ候ハムズル也。日比ハコレ程ハ思奉ラザリツレドモ、馬ヲ盗
給ニ取テ、アハレ同僚ヤト思奉故ニ、実ノセニハ必ズカハラバヤト存ズ。憑
ベヨ」。「憑マレ奉ラム」トゾ契タリケル。
〔七〕〔兵衛佐ノ軍兵等付宇治勢田事〕 同廿日辰剋ニ、東国軍兵六万余騎二手ニ作テ、宇治勢多両方ヨリ
都ヘ入ル。勢多手ニハ蒲冠者大将軍トシテ、同相従輩ハ、
武田太郎信義、加々見太郎遠光、同次郎長清、一条次郎忠頼、
板垣三郎兼信、侍大将軍ニハ、稲毛三郎重成、飯谷四郎重朝、
土肥次郎実平、小山四郎朝政、同中治五郎宗政、猪俣小平六則綱、
小山、宇津宮、山名、里見ノ者共ヲ始トシテ、三万五千余騎ニハ過ザリケリ。
Ｐ３０２２（一一ウ）
宇治ノ手ニハ九郎冠者ヲ大将軍トシテ、相従人々、安田三郎義定、
大内太郎惟義、侍大将軍ニハ、畠山庄司次郎重忠、舎弟長野
三郎重清、三浦十郎義連、梶原平三景時、嫡子源太景季、
熊谷次郎直実、同子息小次郎直家、佐々木四郎高綱、渋
谷馬允重助、糟屋藤太有季、サヽヲノ三郎義高、平山武者
所季重ヲ始トシテ二万五千余騎、二手ノ勢六万余騎ニハ過リ
ケリ。木曽ガ方ニハ折節都ニ勢ゾナカリケル。乳母子樋口次郎
兼光、五百余騎ニテ十郎蔵人行家ヲ責ムトテ、河内国石河ト
云所ヘ差遣ス。今井四郎兼平、五百余騎ノ勢ヲ相具テ、勢
多ヲ固ニ差遣ス。方等三郎先生義広、仁科、高梨、小田次郎等、
Ｐ３０２３（一二オ）
三百余騎ニテ宇治ヲ固ニ向ケリ。京ニハ力者廿余人ヲ支度シテ、
若ノ事有バ、院ヲ奉取テ西国ヘ御幸ナシ奉ムト用意シテ、上野国住
人那波太郎弘澄ヲ始トシテ、義仲ガ勢百騎ニハ過リケリ。今井
四郎兼平、方等三郎先生義広等、宇治勢多両方ノ橋ヲバ
引テ、向ノ岸ニハ乱杭ヲ打、大綱ハヘ、逆向木ヲツナギテ、流カケテ相待
処ニ、九郎義経ハ雲霞ノ勢ヲ聳テ、「木曽冠者、都ニテハ叶ハジトテ、
平等院ニ立籠タリ」ト申者有ケルアヒダ、サラバトテ、伊賀国へメグリ
テ、平等院ニ押寄タリケレドモ、空事ナリケル間、サテハトテ入洛セム
トスル処ニ、宇治橋ヲミレバ橋モナシ。オリシモ水カサマサリテ底ミヘズ。橋ヲ
引タルノミナラズ、逆向木ヒマモナク、大縄小縄引ハヘテ、鴦鴨ナム
Ｐ３０２４（一二ウ）
ドノ水鳥モ輙ク〓［木＋舌］通ルベシトハミヘザリケリ。ユヽシキ大事ト立タリケル
アヒダ、二万五千騎ノ軍兵クツバミヲナラベテ引ヘタリ。河ノハタ分内
セバクシテ、打ノゾミタル者四五千騎ニハスギズ。二万余騎ハヨリツクベ
キ所ナキ故、只イタヅラニ引ヘタリ。河ノ景気ヲダニミザレバ、渡ス
ベキ僉議評定モセズ。橋ノ落タル事ヲモ未ダシラザル者ノミ多アリ。
此ニヨ（ッ）テ、水練ノ者共多クアルラメドモ、河ノ面ヲミザル故ニ、河ヘ入ラムト
スル者モナカリケリ。其時ニ九郎御曹司、雑色、歩行走ノ者共ヲ
召寄テ、「家々ノ資財雑具一々ニ取出サセテ、河鰭ノ在家ヲ皆
焼払ベシ。分内ヲ広シテ、二万余騎ヲ皆河鰭ニ臨マセヨ」トゾ下知シ
給ケル。歩行走ノ者共、家々ニ走リ廻テ此由ヲ披露スル処ニ、人一人モ
Ｐ３０２５（一三オ）
ナカリケリ。サラバトテ、手々ニ続松ヲ捧テ家々ヲ焼払フ事、三百
余家也。馬牛ナムドヲバ取出スニ及バズ、ヤド＜ニ置タリケレバ、皆
死ニケリ。其外モ、老タル親ノ行歩ニモ叶ハヌ、タヽミノ下ニカクシ、板ノ
下、壷瓶ノ底ニ有ケルモ、皆焼死ニケリ。或ハ逃隠ルベキ力モ無リケル
ヤサシキ女房姫君ナムドヤ、或ハ病床ニ臥タル浅猿ゲナル者、小者
共ニ至マデ、刹那ノ間ニ〓燼トゾナリニケル。「風吹バ木ヤスカラズ」トハ、
此躰ノ事ナルベシ。広々ト焼払タリケレバ、二万五千余騎ノコル者モ
ナク河鰭ニ打ノゾミタリ。九郎御曹司、河ノ辺近ク高矢倉ヲ作ラ
セテ、上リ給テ、四方ヲ下知シ給ケリ。ヤタテ硯ヲ取寄テ、「宇治河ノ
先陣ト甲者ト次第ヲアキラカニ注テ、鎌倉殿ノ見参ニ入ベシ」ト、
Ｐ３０２６（一三ウ）
ヌカムトゾ色メキ合タリケル。御曹司矢倉ノ上ヨリ様々ノ事ヲ下知シ
給ケレドモ、カシカマシクテ人更ニ聞ズ。其時平等院ヨリ大鼓ヲ取
寄テ打セラレケレバ、二万五千余騎皆シヅマリテ、御曹司ニ目ヲ
懸ザル者ハ一人モナカリケリ。其時九郎御曹司大音声ヲ揚テ、
「今此ノ二万五千余騎ノ中ニ、水練、河立、潜ノ上手共ハ其数多カルラム。
カヽル処ニテコソ群ニヌケタル高名モスレ。トク＜我ト思ワム輩ハ、物具
ヲヌギ置テ、セブミヲシテ、河ノ案内ヲ心ミ給フベシ。又彼ノ岸ヲミルニ、矢
ハズヲ取タル者四五百騎計アリ。セブミセム者ヲ散々ニ射ムズラムト覚ゾ。
甲ノ座ニツカムト思ワム人々ハ、馬ヲバステヽ、橋桁ヲ渡シテ、敵ノ軍兵ヲ
追散シテ、水練ノ輩ヲ思サマニ振舞セヨ」トゾ下知シ給ケル。此ヲ聞、平
Ｐ３０２７（一四オ）
山武者所、馬ヨリ飛テ落ルマヽニ、橋桁ノ上ニ飛上ル。弓枝ヲツキ、扇ヲ
ハラ＜トツカヒテ申ケルハ、「二万五千騎ノ軍兵ノ中ニ橋桁渡ル先陣ハ、
平山武者所季重ト申小冠者也。抑当河ノ為躰一、深淵潭々トシテ、
大海ニ浮ベルガ如シ。下流万々トシテ急々ナル事、滝水ニ似タリ。橋桁幽
々トシテホソク高キ事、碧天ニ聳ク虹カトモ疑ツベシ。玄弉三蔵ノ渡
給ケム葱嶺ノ石橋モ、此ニハ争カ過候ベキ。落入ム事決定也。没シテ
而モ失ム事疑アルベカラズ。若ハ猿猴、若ハ鼠猫ナムド、サラデハ平カニ渡ル
ベシトハ存候ハネドモ、大将軍ノ仰ヲ背バ身命ヲ惜ニ似タリ。シカレバ、命ヲバ
只今九郎御曹司ニマヒラセ候。屍ヲバ速ニ宇治河ノ淵瀬ノ浪ニ濯キ
侍ベシ」トテ、只一人渡ル処ニ、佐々木太郎定綱、渋屋馬允重助、熊谷
Ｐ３０２８（一四ウ）
次郎直実、同子息小次郎直宗等、已上五人ゾツヾキテ渡リケル。矢比
近クナリケレバ、彼ノ岸ノ軍兵等、弓ヲアクマデ引ムガ為ニ甲ヲバキズ。数百
騎ノ者共ヒキトリ／＼放ケル矢カズ、天ヨリ飛キタル事ナレバ、入江ノ葦
苅ガアシヲタバネテツクガゴトシ。身ニキタリテ中ル事、玄冬素雪ノ
晩ノ時雨、玉チル霰ノフルニゾ似タリケル。サレドモ究竟ノ甲冑共ナレバ、
ウラカク矢モナカリケリ。熊谷橋桁ヲ渡ムトスル時、子息小次郎、
父ノ御共申ベシトテツヾキケルヲ、父熊谷、「汝ハ今年十六才也。心ハイカニ武ク
思トモ、真ハ未ダカタマラジ。直実ダニモ平ニ渡リツカム事有ガタシ。況ヤ
汝ハ叶マジキゾ。大勢ノワタサム時渡ルベシ」ト云ケレバ、小次郎、「千字文ニ申タル
李、杏、梅ナムドニコソ、真ノカタマルカタマラヌト申事ハ候ヘ。十才以後ノ人ノ
Ｐ３０２９（一五オ）
身ニ真ノカタマラヌ事ヤハ候ベキ。若カタマラザラムニツケ〔テ〕モ、父ヲハナシマヒ
ラセムトハ存候ハズ。父コソ常ニハ風気トテ、『目ノマウゾ、膝ノフルウゾ』トハ仰
候ヘ。此程ノ大河、高橋ノホソゲタヲ渡リ給ハム事アヤウク覚候。直家ガ
マ（ッ）先ニワタラセ給ヘ。若御目マハセ給ハム時ハトラヘマヒラセム」トゾ申ケル。父コレヲ
キヽ、「ゲニヤワレ小次郎、イカナル時ヤラム目モマヒ膝モフルウ事ノアル。我身ナレバ
サモ有ベシ」トテ、オヘル子ニ教ラレテ、熊谷ハ十六才ノ小次郎ガ先ニゾ渡リ
ケル。実ノ瀬ニハ子ニ過タル宝コソナカリケレ。死出山、三途河ヲ渡時モ、子
ヨリ外ニハ誰カ後世ヲバ助ベキ。親子ノ情ケ憑クゾ覚ル。橋桁已ニナカラ
バカリ渡リタリケル時ヨリハ、五人ナガラ皆目舞膝フルヰテ、水ハサカ
サマニ流ルヽヤウニゾ覚ケル。叶ハジトヤ思ケム、各弓ヲバ手ニカケテ匍、
Ｐ３０３０（一五ウ）
カレ「サム候／＼」ト問へバ、答＜シテ、肝ヲツブシハテヽゾ皆渡リタリケル。熊谷
ガ初発心ノ道心ハ、此橋桁ヨリゾ発リ始メタリケル。我若落バ、小次郎
定テ取留ムトシテ、共ニ落ム事ノ心ウク思ケル時、他力往生来迎引
接ノ阿弥陀如来ヲ念ジ初メ奉リタリケリ。摂取不捨ノ本願、只
今コソゲニタノモシクハ覚侍レ。云ニ甲斐ナキ小次郎ダニコソ、落ム
所ヲバ取助ムトテ、後ニハツヾキタレ。マシテ三尊来迎シテ、生死ノ苦海
ニ沈マム所ヲ来迎引接シ給ハム事、憑テモナヲタノムべカリケリ。平
山、佐々木、渋屋、熊谷親子、「南無阿弥陀仏＜」ト申テゾ、西ノ岸ニハワ
タリツキタリケル。合戦以後、世シヅマリテ後、熊谷次郎ハ法然上人ニ
参テ、念仏ノ法文ヨク聴聞シ、三身具足ノ行者トナリスマシテ、
Ｐ３０３１（一六オ）
木〓子ノズヾヲ頸ニカケテ、毎日千返申ケレバ、終ニ引摂シ給テ、九品蓮
台ニゾ往生ノ素懐ヲ遂タリケル。サレバ菩提心ノ発ル事モ縁ヨリ発ル
事ニテゾ侍ケル。サテ五人ノ者共渡リハツレバ、片手矢ハゲテ敵ニ向フ。
熊谷次郎扇ハラ＜ト仕テ申ケルハ、「汝等ハ抑木曽殿ノ郎従ニテハ
ヨモアラジ。一旦ノ駈武者共ニテゾ有ラム。生アル者ハ皆命ヲ惜ム習ナリ。
無詮一合戦シテ、大事命ヲ失ハムトスルコソ不便ナレ。落バハヤ落ヨカシ」
トテ、兵ド射タリケレバ、木曽郎等ニ藤太左衛門兼助ト云者、マ（ッ）サカサマニ
射ヲトサレニケリ。此ヲ始トシテ多ノ郎等共討レニケリ。シカルアヒダ、河ノ
面々ニ目ヲカケテ、水練ノ者ヲ射殺ムトスル者一人モナシ。其ノヒマニ佐々
木郎等ニ鹿嶋与一ト云者、天下一ノ潜ノ上手ナリケルアヒダ、冑ヌギヲ
Ｐ３０３２（一六ウ）
キ裕カクマヽニ、腰ニハ鎌ヲサシ、手ニハ熊手ヲ以テ、河ノ底入ニケリ。良
久水ノソコニテ、ラムグヒ、サカモギ引ヲトシ、大縄小縄キリ落ス。アハレ機
量ヤトゾミヘタリケル。九郎御曹司此ヲ御覧ジテ、「ヤヽ佐々木殿、ワ殿ノ
郎従鹿嶋ノ与一ハ甲ノ座ノ一番ニ付ベシ。別功アラムズルゾ。其由ヲ披露
シ給へ。今日ヨリ改名シテ、与一トハ云ベカラズ。日本一ト呼ベシ」トゾ宣ケル。カヽ
リケレドモ、スヽミイデヽ渡サムトスル者一人モナシ。「イカヾスベキ。水ノ落足ヲ
ヤ待ベキ」ナムド申処ニ、畠山ノ庄司次郎重忠、生年廿一ニナリケル
ガ、紅ノ直垂ニ赤威冑ニ、大中黒ノ矢ニ塗込藤ノ弓取ナヲシテ、
黒キ馬ニ黄伏輪ノ鞍置テゾ乗タリケル。河ノハタニ打臨テ、遙ノ岸ヲ
ニラマヘ申ケルハ、「鎌倉殿モ定テ宇治勢多ノ橋ハ引ムズラムト、御沙
Ｐ３０３３（一七オ）
汰アリシ所ゾカシ。知食ヌ海河ガ俄ニ出来タラバコソ、引ヘテ評定モ候ハメ。
水上ハ近江ノ水海ナレバ、比良ノ高根ノ雪ゲノ水、マツトモ＜ヨモ尽ジ。上野
国ニ大河二アリ。北山ヨリ流タルハ利根河ト名ケ、西山ヨリ流レタルハ安加
妻河ト名タリ。渋河ト云所ヨリ二ノ河一ニナリテ、下野国ヘ流レタリ。昔
在中将ノムレヰテ、『イザコトヽハムミヤコドリ』トナムヨミタリケル角田河ト申ハ、
此河ノ事也。坂東太郎トテ関東第一ノ大河也。サレドモ去治承元年
三月ノ比、春雨幽々トシテ、山ノ雪水〓々ト有ケルニ、宇治河ヲ足利又
太郎俊綱ハ生年十七才ニテ先陣ヲワタシタリキ。十七才ノ小冠
ダニモ渡シタリケルゾカシ。又太郎トテモ鬼神ニテハヨモアラジ。凡夫ニテ
コソ有ラメト思テ、重忠モ大洪水ノ時、タビ＜彼ノ角田河ヲ渡タルコト
Ｐ３０３４（一七ウ）
侍キ。況ヤ此河ヲミルニ、彼角田河ホドハヨモアラジ。水ノ心見ワタスニ、馬ノ
足タヽヌ所五反計ニハヨモスギジ。ラムグヰ、逆向木ハ切落シヌ。水上水中サ
ハリ有ベシ。熊谷、平山フセキ矢射ルメリ。今何ノ恐カ有ベキ。臆心更ニ
有ベカラズ。渡セヤ殿原」トテ、河ノハタヘゾ打ノゾミタリケル。伴沢六郎成
清、本田次郎近経以下ノ郎等五百余騎、クツバミヲナラべテスヽミケリ。
其時二万五千余騎ノ軍兵我モ＜トスヽミケル中ニ、梶原源太景
季ト佐々木四郎高綱ト相互ニキミアヘル者共ニテ、我サキニ渡サムト
打ノゾミケル処ニ、佐々木、「誠ヤ、生喰ヲバコヽニノラムトテコソ引セタリツルニ、
忘テムゲル事ノ口惜サヨ」ト思テ、乗移ケルマニ、源太三反計スヽミテ
ケリ。「穴ユヽシノ事ヤ。生喰ヲ給ハリナガラ、後陣ハタシタラム事ノ面
Ｐ３０３５（一八オ）
面目ナサヨ。イカヾスべキ」ト思テ、「ヤ、梶原殿、宇治河ハ上ハノロクテソコハヤシ。
底ニ縄ナムドモ有ラムト、馬ノ腹帯ノ以外ニノビテミヘ候ゾ。モシソコツナニモカヽ
リ、石ニモケツマヅカム時、鞍フミカヘシテ、河中ニテ不覚シ給フテ、人ニ咲レ
給ナ。引テミ給ヘ」トゾ云タリケル。梶原誠ニサモ有ラムト思テ、左右ノ鐙ヲ
フミスカシテ引テミレバ、ハルカニノビタリケリ。梶原悦テ思ケレバ、「京都ハシラ
ズ、関東ノ武士ハ人ニ不覚ヲセサセ、我ハ甲ワザヲセムトコソスルニ、今ノ佐々木殿ガ
芳恩コソ謝シガタクハ覚レ」トテ、ハルビヲトヰテゾシメリケル。手縄ヲユガミ
ニステラレテ、馬ハツキアシニコソナリニケレ。佐々木ハ、コヽコソヨキヒマヨトハセ
ヌケテ、ツト先立タリ。近江国住人ニテ河ノ案内ハヨク知タリ。関東
第一ノ名馬、生喰ニハ乗タリケリ。畠山ニモ梶原ニモスヽムデ、マ（ッ）先ニゾ
Ｐ３０３６（一八ウ）
渡シタリケル。梶原此ヲミテ、「キタナシ。ワギミニハダシヌカルマジキモノヲ」
トテ、サト河ヘゾ打入レケル。此ヲ初トシテ二万五千余騎、我モ＜ト打
入タリ。馬筏ゾツクリテ渡シケレバ、河ノ水ナガレモヤラズ、ウハテハ更ニ
大海トゾ変ジケル。佐々木四郎先陣係テ申ケルハ、「人ヲバシラズ、高綱ガ
郎従等能々心ニ用意セヨ。事モナノメニ思テ不覚スナ。ツヨキ馬ヲバヲモテニ
立ヨ。ヨハキ馬ヲバシタニナセ。敵ハイルトモ、河中ニテ答ノ矢イムトテ不覚スナ。
射向ノ袖ヲ顔ニアテヽ、シコロヲチトカタムケヨ。イタク傾ケテ凹反イサスナ。
若者共、鞍ノ後ニノリサガ（ッ）テ、馬ノ頸ヲ軽クセヨ。逸物ナレバトテ、馬ニ心ユル
シテ、常ニハ鞭ノカケヲシテ、馬ヲキビシク驚カセ。遠クハ弓ヲサシチガヘ、
近ハタガヘニ手ヲ取テ、馬ニ力ヲ加フべシ。人ノ馬シヅミゲナラバ、其尾ヲ取テ引アゲヨ。
Ｐ３０３７（一九オ）
大石アラバシタテヲメグレ。ウハテニカヽ（ッ）テ馬タヲスナ。底ツナアラバ馬ノ
頸ヲ下リニムケヨ。ラムグヰアラバ逆向木アリト思ベシ。波ニハノラムト手
綱ヲスクヘ。イタクスクヒテ引カヅクナ。渡セヤ＜。ツヨクノレ。鐙フム
バレ。立アガレ」トテ、マ十文字ニサツト打ワタシタリ。渡シハテケレバ、
箙ノホウ〔ダ〕テ打タヽキ、紅ノ扇ヒラキ仕テ、「音ニモ聞ラム、目ニモミヨ。佐々
木ノ四郎高綱、宇治河先陣渡シタリヤ」トゾ名乗ケル。生喰ハ
河ノ深クナルマヽニ、スヽミ出ル事一ハヤシ。水ハ鐙モ未ダヌラサヾルニ、コノ白浪ハ
マリアガリテ、ムナガヒシホデヽカヽリケリ。況ヤミドコニナリテヲヨギ
ケルトキハ、鵝鴨鴛鴦ニコトナラズ。鞍爪マデモシヅマザリケレバ、舟
棹ス心地シテ、袴ノクヽリモヌラサヾリケリ。六反計先立テ、向ノ岸ニ
Ｐ３０３８（一九ウ）
サトノボル。ツヾク郎従一人モナガレザリケリ。佐々木ハ独言ニ、「穴イカメシヤ」トゾ
云タリケル。石岸ノ上、高キ処ニ打アガ（ッ）テ、二万五千余騎我モ＜
トヲヨガセケルヲ、「アヽ面白」トテ、扇ハラ＜トツカヒ、ハル＜”トミクダシテ居
タリケル。畠山ハ、先陣ヤカクルト思テ、先一番ニ打出タリケルガ、二万
余騎ノ軍兵ニ力ヲ加ヘ、意趣ヲ起サシメムタメ、「此ヨリ遙ニ大ナル坂東太
郎角田河ヲダニモ渡シタリシゾカシ。況ヤ此程ノ小河ヲ誰ノ輩カ渡
サヾルベキ」ナド、人ニ心ヲツケムトシケル程ニ、佐々木四郎ニゾ渡レニケル。
畠山同ク渡シケリ。二万五千騎ノ兵共ニセカレテ、シタテヲワタシケル
雑人ハ、股膝ニゾ水ハ立ケル。自ラハヅルヽ水ニハ、ナニモタマラズヲシ流サレケリ。
木曽ガ手ニ山田次郎ガ郎等、黒皮威ノ腹巻キテ、三枚甲ニ左右ノ小
Ｐ３０３９（二〇オ）
手二大太刀ハキテ、中黒ノ征矢負タルガ、面ニ立テ能引テ放矢、河中ニテ
畠山ガ馬ノ額ニ立ニケリ。射ラレテ馬ヨハリテミヘケレバ、鐙ヲ越テ下立
タリ。水ハ甲ノ星ヲ洗テ通リケル。水モ早ク鎧モ重ケレド、畠山スコシモタユ
マズ渡テ行ク。爰ニ武蔵国住人、大櫛彦次郎季次ト云兵アリ。畠
山ヨリ五反計上手ヲ渡シケルガ、馬ヨハリテ、河中ヨリ馬ニハナレテ流レケル
ガ、弓長計ヨリ下ニ、甲ノ鉢ヨリ見タリケレバ、大櫛、畠山ニハ兼テヨリ目ヲ
係タリケルガ、水中ニナリテ見失テ有ケルガ、只今見付テ怱ギ流ヨリテ、
甲ノ鉢ニゾ取付タリケル。畠山是ヲモ不知シテ渡ケルガ、「ナドヤラム、甲ノ
重ハ。水カサノ増ル歟、我身ノヨハルカ」ト、振リ仰テ見タリケレバ、褐衣ノ直垂ニ
洗革ノ鎧キテ、黒ツバノ矢負タル兵ナリ。其時畠山、「甲ニ取付タルハ何ナル
Ｐ３０４０（二〇ウ）
者ゾ」。「取アヘズ大櫛次郎季次ニテ候」。畠山、「イシクモ取付タリ」ト宣ケレバ、
季次、「スデニ河尻ヲコソ見テ候ツレ」。畠山向ノハタ近ク成テ、乱杭ニ上リテ
申ケルハ、「ヤウレ大櫛、今ハ三弓長計ゾ有ラム。水ノシタ二丈計ニハヨモ
スギジ。是ヨリ向ヘハ投コサムハ何ニ」。大櫛、「トモカクモ御計ニテコソ候ハメ」ト
申ケレバ、畠山、大櫛ヲ弓手ノカヒナニノセテ投越タリ。大櫛足ヲカヾメ
テ、弓杖ヲツキテゾ立タリケル。大櫛甲ノ緒ヲシメ弓取ナヲシテ、奇
怪ノ言ヲゾツカヒケル。「河ヘ打入ルヽ事ハ畠山一番也。向ノ岸ヘ着事ハ、武蔵
国ノ住人大櫛彦次郎季次マ（ッ）先也」トゾ名乗ケル。此ヲ聞テ敵モ御
方モ一同ニハトゾ咲ケル。「弓矢取者ノ心ヅカヒハカフコソ有ベケレ」トゾ各申シ
ケル。向ノ方ヨリ三百余騎、矢サキヲ調テ引取／＼射サセケレドモ、二万五
Ｐ３０４１（二一オ）
千余騎ノ大勢責カヽリケレバ、宇治ノ手破レテ都ノ方ヘゾ落行ケル。九
郎義経ハ敵ノ跡ヲ目ニツケテ、都ノ方ヘゾ責入ケル。勢多ヲバ稲毛三郎、
榛谷四郎ガ計ニテ、タナカミノ貢御ヲ渡テ追落ス。サテ今井四郎兼平、
三郎先生等防戦ケレドモ、無勢ナリケレバ、散／＼ニ係チラサレテ、同ク京ヘ
帰行ク。サテ宇治勢多渡タル日記、鎌倉ヘ進セタリケレバ、「宇治河ノ
先陣ハ近江国住人佐々木四郎高綱」トゾ被付タリケル。義経ハ馬次
第ニ京ヘ入ル。木曽ハ宿所ニ帰リテ、松殿ノ姫君ヲ取テ置タリケル、別ヲ
惜テ、振捨ガタサニ不打出一ケレバ、木曽ガ仕ケル今参、越後中太家光ガ
申ケルハ、「雲霞ノ如ク大勢已ニ近付タリ。イカニカクテオハシマスゾ」トイヘ
ドモ打立ズ。義仲ヲトモセザリケレバ、家光、「世中今ハカフトテ、終ニ遁ルべキ
Ｐ３０４２（二一ウ）
ニ非ズ」トテ、腹カキ切テ臥ニケリ。木曽是ヲミテ、「義仲勧メムトテ、家光
イシウモ自害シタル物哉」トテ、ヤガテ打出ニケリ。義仲先使者ヲ院御
所ヘ奉テ申ケルハ、「東国ノ凶徒已ニ責来ル。怱醍醐ノ辺ヘ可有御
幸一」ト申タリケレバ、「更ニ此御所ヲバ不可有御出一」ト被仰遣ケリ。爰ニ
義仲、赤地錦ノ直垂ニ紅ノ衣ヲ重ネテ、石打ノ胡－〓ニ紫威冑ヲ
着テ、随兵六十余騎ヲ卒テ、院ノ御所ヘ馳参ル。剣ヲヌキカケ目ヲ
瞋テ、砌ノ下ニ立リ。御輿ヲ寄ス。可有臨幸一之由ヲ申ス。上下色ヲ失ヒ、
貴賤魂ヲケス。公卿ニハ、花山院大納言兼雅、民部卿成範、修理
大夫親信、宰相中将定能、殿上人ニハ、実教、成経、家俊、家長、祇候
シタリケルガ、各皆藁沓ヲ着シテ、御共ニ参ゼムトテ、庭上ニ被下立タリ。
Ｐ３０４３（二二オ）
人＜涙ニ咽テ、東西ヲ失給ヘリ。叡慮只ヲシハカリ奉ルベシ。義仲ガ郎
等一人馳来テ申ケルハ、「敵已ニ最勝光院、柳原マデ近付」ト申ケレバ、指
テ申旨モ無キ臨幸ノ事ヲ抛テ、門下ニシテ騎馬ス。東ヲ差テ馳
行テ、河原ニ出ヅ。六条河原ニシテ、根井行親、楯六郎親忠二百余
騎ニテ義仲ニ行逢ヌ。院中ノ上下手ヲニギリ、立テヌ願モナカリケルシ
ルシニヤ、其後怱ギ門々ヲサヽレケリ。河原ヲミレバ、東国ノ武士ヒマヲ諍ヒ
テ充満タリ。義仲申ケルハ、「合戦今日ヲ限トス。身ヲモ顧ミ命ヲ惜マ
ム人＜ハ、コヽニテ落ベシ。戦場ニ臨テ逃走テ、東国輩ニ被欺一ム事、生
前ノ恥也」ト申セバ、行親、親忠等ヲ始トシテ申ケルハ、「人生テ誰ハ死ヲ遁ム。
老テ死ヌルハ兵ハ恨也。就中、其恩ヲ食テ其死ヲ不去一ハ、又兵ノ法也」ト云テ、退ク
Ｐ３０４４（二二ウ）
者ナシ。畠山次郎重忠五百余騎ニテ引ヘタリ。義仲馬ノ頭ヲ八文字ニ
立テヨセテ、声ヲ揚テ鞭ヲ打テ係入レバ、重忠ガ随兵中ヲアケテ、入
組入チガヘ、弓手ニアヒ、メテニアヒ戦フ。義仲ウラヘトヲレバ、二河ノ左衛門
尉頼致ヲ始トシテ、三十六騎被打取一。河越小太郎重房三百
余騎ニテ引ヘタリ。義仲馬ノ頭ヲ雁行ミダサズ立下シ係入レバ、
重房ガ兵ノ外ヲカコミ、内ヲツヽムデ、ヲリフサゲテ戦フ。義仲ウラヘ
係通レバ、楯六郎親忠ヲ始トシテ、十六騎ハ被討一ヌ。佐々木四郎
高綱二百余騎ニテ引ヘタリ。義仲馬足ヲ一面ニ立並テ、敵ヲ
弓手ニ係背ケテ、前輪ニカヽリ、甲ヲヒラメ、馬ヲ馳並テウラヘ
ヌクレバ、高梨ノ兵衛忠直ヲ始トシテ、十八騎被打取一ヌ。梶原平
Ｐ３０４５（二三オ）
三景時三百余騎ニテ引ヘタリ。義仲馬ノ足ヲ一所ニ立重テ、敵ヲサ
キニ係アマシテウラヘ係トヲレバ、淡路ノ冠者宗弘ヲ始トシテ、十五騎
被打取一ヌ。渋屋庄司重国二百余騎ニテ引ヘタリ。義仲馬足ヲ
立乱シテ思々ニ係入ル。重国ガ随兵ヲシカコミテ、ヒマヲ諍ヒツメヨセテ、
ヲリカケ＜戦フ。義仲ウラヘトヲレバ、根井行親ヲ始トシテ、廿三騎ハ
被打取一ヌ。爰ニ源九郎義経此ヲ見テ、三百余騎馬ノ足ヲツメナ
ラべカサナリ入レバ、敵両方ヘアヒワレケルヲ、四方ニ懸乱リ駈立テ、矢前ヲ
トヽノヘテ射取ケレバ、義仲ガ軍忽ニ敗テ、六条ヨリ西ヲ指テ馳行ク。義
仲忽威（二）三軍之士（一）、雖（レ）敗（二）万囲之陣（一）、義経又廻（二）必勝之術（一）、退（二）強
太之兵（一）。義仲左右ノ眉ノ上ヲ共ニ鉢付ノ板ニ被射付一テ、矢二筋相
Ｐ３０４６（二三ウ）
係テ、院御所ヘ帰参セムトシケルヲ、少将成経門ヲ閉テ鎖ヲ指シタリ
ケレバ、再ビ三ビ門ヲ押ケルヲ、源九郎義経、梶原平三景時、渋屋ノ
庄司重国已下十一騎、鞭ヲ打テ轡ヲナラベ、矢前ヲソロヘテ
射ケレバ、義仲不堪シテ落ニケリ。義経ハ木曽ト見テケレバ、
「義仲モラスナ、若党。木曽ニガスナ、者共」ト下知シテ、院ノ御所ヘ
馳参ル。義経ガ郎等馳ツヾキテ義仲ヲ追ケリ。
八〔義経院御所ヘ参事〕 大膳大夫業忠ガ、御所ノ東ノ築垣ニ上テ四方ヲ見マハシテ居タルニ、
六条西洞院ヨリ、武士御所ヲサシテ馳参ル由申ケレバ、法皇大ニ
サワガセオハシマス。「義仲ガ又帰参ルニコソ。今度ゾ君モ世ノ
失ハテヨ」トテ肝心モウセ、「コハイカヾセム」ト怖アヘル処ニ、業忠ヨク／＼
Ｐ３０４７（二四オ）
見給テ、「義仲ガ余党ニテハ候ハザリケリ。笠ジルシ替テ見ヘ候。只今
馳参テ候ナルハ、東国ノ兵ト覚候」ト申程ニ、義経門ノキハ近打ヨリテ、
馬ヨリ飛下テ、業忠ニ向テ申ケルハ、「鎌倉右兵衛頼朝ガ舎弟、
九郎義経ト申者コソ参テ候ヘ。見参ニ入サセ給ヘ」ト申ケレバ、
業忠余ノウレシサニ、築垣ヨリ怱ギ下ケルガ、腰ヲゾツキ損ジ
タリケル。イタサハウレシサニマギレテ、匍々参テ奏聞シ
ケレバ、御安堵シテゾ思召サレケル。上下大ニ悦テ、怱ギ門ヲゾ
被開ケル。九郎義経ハ、赤地ノ錦ノ直垂ニ、紅スソゴノ鎧ニ、鍬
形打タル甲ヲバ持セテ不着一、石打ノ征矢ヲヒ、金作ノ大刀ヲゾ
ハイタリケル。紙ヲ弘サ一寸計ニキリテ、弓ノトリ打所ニ、「南無崇
Ｐ３０４８（二四ウ）
廟八幡大菩薩」ト書テ、左巻ニゾマヒタリケル。此ゾ今度ノ大将軍ノシ
ルシニテ有ケル。義経ヲ始トシテ六人ゾ有ケル。残五人之内、
一人ハ武蔵国住人、秩父末葉、畠山庄司次郎重忠。白
唐綾ノ鎧直垂ニ、射向ノ袖ニハ紺地ノ錦ヲイロヘタルニ、紫
スソゴノ鎧ニ、大中黒ノ征矢焼絵シタルヲ負タリケリ。一人ハ
同国住人河越太郎重頼。重目結ノ鎧直垂ニ、射向ノ袖ニ赤
地ノ錦ヲイロヘタルニ、黒糸威ノ鎧ニ、大切ウノ征矢ノ、ウハヤニ安摩ノ
面ハギタルヲ負タリケリ。一人ハ相模国住人渋谷庄司重国。
褐衣ノ鎧直垂ノ菊トヂシタルニ、大荒目ノ洗皮ノ鎧ニ、香摺尾ノ
征矢負タリ。一人ハ相模国住人梶原源太景季。蝶
Ｐ３０４９（二五オ）
目結ノ鎧直垂ニ、薄紅ノ鎧キテ、ツマ白ノ征矢負タリ。一人ハ近
江国住人佐々木四郎高綱。萌黄ニホヒノ鎧直垂ニ、赤威ノ鎧ニ
金作ノ大刀、小中黒ノ征矢負タリ。重忠ヨリ始テ次第ニ名乗申
ケリ。六人兵皆甲ヲバ郎等ニモタセテ、直垂モ思々色々ニカハリ
タリケレドモ、弓ハ皆塗ゴメ藤ニテゾ有ケル。五人ハ中門ノ外、御車
宿ノ前ニ立ナラビタリ。義経ハ中門ノ大床ヘ打ヨセテ立タリ。公卿
殿上人、大床ニ立出テ目ヲスマサル。法皇御感ノ余ニ、中門ノ連子ヨリ
叡覧アリテ、「ユヽシゲナル奴原カナ」トゾ仰アリケル。大膳大夫業
忠仰ヲ承テ、軍ノ次第ヲ召問ハル。義経申ケルハ、「義仲謀反之
由、頼朝承候テ、大ニ驚テ、舎弟蒲冠者範頼、并義経ヲ
Ｐ３０５０（二五ウ）
始トシテ、宗トノ侍三十人ヲ差上セ候。其勢六万余騎、二手ニ
分テ宇治瀬多両方ヨリ罷入候。範頼ハ勢多ヨリ参候ガ、
未見候。義経ハ宇治ノ手ヲ追落シテ怱ギ馳参テ候。義仲ハ
河原ヲ上リニ落候ツルヲ、郎等共アマタ追セ候ツレバ、今ハ定テ
討候ヌラム」ト、事モナゲニゾ申ケル。被仰下一ケルハ、「義仲ガ余
党ナムド参テ狼籍仕ル事モコソアレ。義経ハカクテ御所ノ
守護ヨク＜仕」ト被仰下ケレバ、「畏テ承候」トテ、門々ヲ固メケリ。
兵共馳参テ一万騎計ニ成ニケリ。六条殿ノ四方ニ打開ミテ
候ケルアヒダ、法皇タノモシクゾ被思食一ケル。人々モ安堵シテ
ケリ。其後三十騎計馳来リテ、六条河原ノ東ノ河バタニ引ヘ
Ｐ３０５１（二六オ）
タリ。其中ニ武者二騎スヽミケリ。一人ハ塩屋五郎是弘、勅旨
河原権三郎有則也。塩屋申ケルハ、「後陣ノ勢ヲヤ待ベキ」。勅旨
河原申ケルハ、「一陣破ヌレバ、残党不全一。只係ヨ」トゾ申ケル。サルホドニ、
ヲ（ッ）ツキ＜ノ勢、三万騎ノ大勢、都ヘ乱レ入リヌ。
九〔義仲都落ル事付義仲被討事〕 木曽ハ、「若ノ事アラバ、院取進テ西国ヘ御幸成シ進ム」ト、力者廿余
人ソロヘテ置タリケレドモ、院ノ御所ニハ九郎義経参籠テ守護シ
進セケレバ、可奉取一様モナカリケリ。義仲、今ハカウト思切テ、数万騎ノ勢ノ
中ヘヲメイテ係入テ戦ヒケリ。被打ナムトスル事度々ニ及リト云ドモ、
係破リ＜トホリケリ。「カヽルベシトダニ知タリセバ、今井ヲ勢多ヘヤラ
ザラマシ物ヲ。幼少竹馬ノ昔ヨリ、『若ノ事アラバ、手ヲ取クミテ
Ｐ３０５２（二六ウ）
一所ニテ死ム』トコソ契シ物ヲ。所々ニ臥ム事コソ口惜カルべケレ。今井ガ
ユクヘヲ見バヤ」トテ、河原ヲ上ニ係ルホドニ、大勢追テカヽレバ、六条川
原ト三条川原トノ間ニテ、取返＜五六度マデ係靡シテ、
終ニ三条川原ヲ係破テ、東国方ヘゾ落ニケル。去年ノ秋、北国ノ
大将軍トシテ上リシニハ、五万余騎ナリシカドモ、今粟〔田〕口ニ打出ノ
関山ヘカヽリシカバ、其勢僅ニ主従七騎ニ成ニケリ。マシテ中有ノ
旅ノ空思遣レテ哀也。七騎ガ中ノ一騎ハ鞆絵ト云ヘル美女也。紫
皮ノケチヤウノヒタヽレニ、萌黄ノ腹巻ニ、重藤ノ弓ニウスベウノ矢ヲ負、
白葦毛ナル馬ノ太ク呈シキニ、小舳絵スリタル貝鞍置テゾ
乗リタリケル。木曽ハ幼少ヨリ同様ニソダチテ、ウデヲシ頸引
Ｐ３０５３（二七オ）
ナムド云力態係組テシケルニ、少モ劣ラザリケル。カヽリシカバ、木曽
身近ツカハレケリ。爰ニ誰トハ不知一、武者二人追カヽル。鞆絵馬引ヘテ
待処ニ、左右ヨリツトヨル。其時左右ノ手ヲ差出シテ、二人ガ鎧ノ
ワタガミヲ取テ、左右ノ脇ニカヒハサミテ一シメ＜テ捨テタリケレバ、
二人ナガラ頭ヲモジケテ死ニケリ。女ナレドモ、究竟ノ甲者、強弓
精兵、矢ツギ早ノ手キヽナリ。軍ゴトニ身ヲ不放一具ラレケリ。
齢三十計也。童部ヲ仕様ニ朝夕仕ケリ。木曽ハ龍花ヲ越テ
北国ヘ趣クトモ聞ケリ。又、中坂ニカヽリテ丹波国ヘ落ツルトモ云
ケルガ、サハナクテ、乳母子ノ今井ガ行ヘヲ尋ムトテ、勢多ノ方ヘ
行ケルガ、打出ノ浜ニテ行合ヌ。今井ハ五百余騎ノ勢ニテ有ケルガ、
Ｐ３０５４（二七ウ）
勢多ニテ皆係散サレテ、幡ヲ巻セテ三十騎ニテ京ヘ入ケルガ、
木曽、今井ノ四郎ト見テケレバ、互ニ一町計リヨリ、ソレト目ヲカケテ、
小馬ヲ早メテヨリ合ヌ。轡ヲ並テ、木曽ト今井ト手ヲ取クミテ
悦ケリ。木曽宣ヒケルハ、「去年栗柄ガ谷ヲ落シテヨリ以降、
敵ニ後ヲミセズ。兵衛佐ノ思ワム事モアリ、都ニテ九郎ト打死セム
ト思ツルガ、汝ト一所ニテトモカウモ成ナムト思テ、是マデキツル也」ト云バ、
今井ハ涙ヲ流シテ申ケルハ、「如仰一敵ニ後ヲ可見一ニハ候ワズ。勢多ニテ
何ニモ成ベキニテ候ツルガ、御行エノオボツカナサニ是マデ参テ候也。
主従ノ契クチセズ候ナリ」トテ、涙ヲ流シテ悦ケリ。木曽ガ旗
指ハ射殺サレテナカリケリ。木曽宣ヒケルハ、「汝ガ旗指上テミヨ。若
Ｐ３０５５（二八オ）
勢ヤツク」ト宣ヒケレバ、今井高所ニ打上テ、今井ガ幡ヲ指上タリケレバ、
勢多ヨリ落ツル者ト、京ヨリ落者トモナク、五百余騎ゾ馳参ル。
木曽是ヲミテ悦テ、「此ノ勢ニテナドカマ一度火出ホドノ軍セザルべキ。
哀レ、死ヌトモ吉ラム敵ニ打向テ死バヤ」トゾ宣ヒケル。サルホドニ、「爰ニ出来
タルハ誰ガ勢ヤラム」ト宣へバ、「アレハ甲斐ノ一条殿ノ手トコソ承ワレ」。「勢
イカホド有覧」ト問給へバ、「六千余騎トコソ承ワレ」ト申ケレバ、「敵モヨシ、
勢モ多シ。イザヤ係ム」トテ、木曽ハ赤地ノ錦ノ直垂ニ、ウス金ト云唐綾
ヲドシノ鎧ニ、白星ノ甲キテ、廿四指タル切文ノ矢ニ、塗ゴメ藤ノ弓ニ、
金作ノ大刀ハイテ、白葦毛馬ニ黄伏輪ノ鞍置テ、厚ブサノ
鞦カケテゾ乗リタリケル。マ（ッ）先ニ歩セ向テ名乗ケルハ、「清和天皇
Ｐ３０５６（二八ウ）
十代ノ末葉、六条判官為義孫、帯刀先生義賢次男、木曽
冠者、今ハ左馬頭兼伊与守、朝日ノ将軍源ノ義仲。アレハ甲斐ノ
一条ノ次郎殿トコソ聞。義仲打取テ頼朝ニ見セテ悦バセヨヤ」
トテ、ヲメイテ中ヘ係入テ、十文〔字〕ニゾ戦ケル。一条次郎是ヲ聞テ、
「名乗ル敵ヲ打ヤ者ドモ、クメヤ若党」トテ、六千余騎ガ中ニ
取籠テ一時計ゾ戦ケル。木曽散々ニ係散シテ、敵キアマタ
打取テイデタレバ、其勢三百余騎ニゾ成ニケル。鞆絵ガ見ヘ
ザリケレバ、「被打ニケルニコソ。穴無慚ヤナ」ト沙汰スル処ニ、鞆絵出来
タリ。近付ヲ見レバ、矢二三射残シテ、大刀ウチユガミ、血ウチ付テ、ウ
チカヅキテ出来リ。「イカニ」ト人々問ケレバ、「敵アマタ打タリ。打死セムト
Ｐ３０５７（二九オ）
思ツルガ、君ノ是ニ渡セ御坐由シ承テ、打破テ怱ギ馳参テ候」トゾ
申ケル。木曽是ヲ聞テ、「イシクモシツル物哉」トテ、返々ホメラレケリ。
サテ勢多ノ方ヘ行ホドニ、「相模国住人本馬ノ五郎」ト名乗テ、追テ
係ル。取テ返テヨクヒイテ兵ド射タリ。本馬ガ馬ノムナガヒヅクシニ
羽ブサマデゾ射コミタル。馬逆ニマロビケリ。本馬ハ落立テ大刀ヲ抜ク。
木曽、「馬ガツマヅイテ射損ジヌル。ヤスカラズ」トゾ宣ケル。勢多ノ方ヘ行
ホドニ、土肥次郎実平三百余騎ニテ行合タリ。中ニ取籠ラレテ
半時計タヽカヒテ、サツト破テイデタレバ、百余騎ニゾ成ニケル。ナヲ勢多ノ
方ヘ行ホドニ、佐原十郎義連五百余騎ニテ行合タリ。係入テ散々ニ
戦テ、サト破テ出タレバ、五十余騎ニ成ニケリ。其後、十騎、二十騎、五十
Ｐ３０５８（二九ウ）
騎、百騎、所々ニテ行合／＼戦ホドニ、粟津辺ニ成ニケレバ、主従五騎ニゾ
成ニケル。手塚別当、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡
次郎家包也。鞆絵ハ落ヤシヌラム、被打シヌラム、行方ヲ不知一ナリニ
ケリ。猶勢多ヘ行ホドニ、手塚ノ太郎ハ落ニケリ。手塚ノ別当ハ
被打ヌ。多胡ノ次郎家包ハ係イデヽ、「上野国住人多胡次郎家
包ト云者ゾ。ヨキ敵ゾヤ。家包打テ勲〔功〕ノ賞ニ預レ」ト申テ、散々ニ係
ケレバ、「鎌倉殿ノ被仰一ルヽ家包ゴサムナレ。『木曽義仲ガ手ニ、上野国
住人、多胡次郎家包ト云者付タリ。相構テ生取ニセヨ』ト被仰タルゾ。
誠ニ多胡次郎家包ナラバ、軍ヲ止メ給へ。助奉ラム」ト申ケルヲ、「何条
サル事ノ有ベキゾ」ト申テ、今ハカウト戦ケレドモ、終ニハ生取ニケリ。今
Ｐ３０５９（三〇オ）
井ト主従二騎ニゾ成ニケル。木曽、今井ニ押並テ、「去年北国ノ軍ニ
向テ栗柄ガ城ヲ出シヲリニハ五万余騎ニテ有シ物ヲ、今ハ只二騎ニ
ナレル事ノ哀レサヨ。マシテ中有ノ旅ノ空思遣レテ哀也。南無阿
ミダ仏／＼」ト申テ、勢多ノ方ヘゾアユマセケル。「サテイカニ、例ナラズ義
仲ガ鎧ノ重クナルハ。イカヾセム」。今井涙ヲ流シテ、「如仰一誠ニ哀ニ覚ル。未ダ
御身モツカレテモ見サセ給ワズ。御馬モ未ダヨワリ候ハズ。何故ニカ今始テ
一両ノ御キセナガヲバ重ハ被思召候ベキ。只御方ニ勢ノ候ワヌ時ニ、憶
シテバシゾ被思食候ラム。兼平一人ヲバ余武者千騎ト思召セ。アノ
松原、五町計ニハヨモスギ候ジ。松原ヘ入セオワシマセ。矢七八射残テ候ヘバ、
シバラク防矢仕テ、御自害ナリトモ心閑ニセサセ進テ、御共仕ラム」トテ、
Ｐ３０６０（三〇ウ）
大津ノ東ノ川原、粟津ノ松ヲサシテゾ馳ケル。大勢未追付一。勢多ノ
方ヨリ荒手ノ者共卅騎計ニテ出来タリ。今井申ケルハ、「君ハ松ノ
中ヘ入セ給ヘ。兼平ハ此敵ニ打向テ、シナバシニ、シナズハ返リ参ラム。兼平ガ
行ヘヲ御覧ジハテヽニ、御自害セサセ給ヘ」トゾ申ケル。木曽宣ヒケルハ、
「都ニテ打死スベカリツルニ、爰マデキツルハ、汝ト一所ニテ死ムト思テナリ。纔ニ
二騎ニ成テ、所々ニ臥ム事コソ口惜カルベケレ」トテ、馬ノ鼻ヲ並テ同係
ラムトシ給ケレバ、木曽ガ馬ノ轡ニ取付テ申ケルハ、「［Ｍ 木曽ガ馬］年来
日来何ナル高名ヲシツレドモ、最後時ニ不覚シツレバ、長キ代ノ疵ニテ候ゾ。
人ノ乗替、云甲斐ナキ奴原ニ被打落一テ、『木曽殿ハ某ガ下人ニ被打
給』ナド、イワレサセ給ワム事コソ口惜ケレ。只松ノ中ヘトク＜入給ヘ」ト
Ｐ３０６１（三一オ）
申ケレバ、理トヤ思給ケム。彼松ノ下ト申ケルハ、道ヨリ南ヘ三町計入タル
所也。其ヲ守テ後合ニ馳行。爰ニ相模国住人、石田小太郎為久ト
云者追係奉テ、「大将軍トコソ見奉候ヘ。マサナシヤ。源氏ノ名ヲリニ
返シ給ヘ」ト云ケレバ、木曽射残タル矢ノ一アルヲ取テツガヒテ、ヲシモチ
リテ、馬ノ三ツシノ上ヨリ兵ドイル。石田ガ馬ノ太腹ヲノズクナニ射タテ
タリケレバ、石田マ（ッ）逆ニ落ニケリ。木曽ハカウト思テ馳行。比ハ正月廿一日ノ
事ナレバ、粟津ノ下ノ横ナワテノ、馬ノ頭モウヅモルヽホドノ深田ニ薄
氷ノハリタリケルヲ馳渡リケレバ、ナジカワタマルベキ、馬ノムナガヒヅクシ、フト
バラマデ馳入タリ。馬モヨハリテハタラカズ、主モツカレテ身モヒカズ。
サリトモ今井ハツヾクラムト思テ、後ヲ見返リタリケルヲ、相模国住人
Ｐ３０６２（三一ウ）
石田小太郎為久、ヨクヒイテ兵ドイタリケレバ、木曽ガ内甲ヲ矢
サキミヘテゾ射出シタリケル。シバシモタマラズ、マカウヲ馬ノ頭ニアテヽ
ウツブシニ臥タリケルヲ、石田郎等二人馬ヨリ飛下、俗衣ヲカキ、深
田ニ下テ、木曽ガ頸ヲバカキテケリ。今井ハ歩セイデヽ、敵ニ打向テ、
「聞ケム物ヲ今ハミヨ。木曽殿ニハ乳母子、信乃国住人木曽仲三権
守兼遠ガ四男、今井四郎中原兼平、年ハ三十二。サル者有
トハ鎌倉殿モ知食タルラムゾ。打取テ見参ニ入レヤ、人共」トテ、ヲ
メイテ中ヘゾ係入リケル。聞ユル大力ノ甲ノ物、強弓精兵ナリケレバ、
敵憶シテサト引テゾノキニケル。サルホドニ勢多ノ方ヨリ武者三十
騎計馳来ル。兼平待ウケテ、箙ニ残ル八筋ノ矢ニテ八騎射
Ｐ３０６３（三二オ）
落シテ、其後大刀ヲ抜テヲメイテカクルニ、面ヲ合スル敵ゾナカリケル。
「押並テクメヤ、殿原。ヲシヒライテ射取ヤ、人々」ト係廻リケレドモ、
只ヒソラヒテ、遠矢ニハ雨ノフル様ニ射ケレドモ、鎧ヨケレバウラカヽズ、アキ
マヲ射セネバ手モヲワズ。「木曽被打ヌ」ト聞テ、馳来リ、「吾キミヲ打
奉ル人ハ誰人ゾヤ。其名ヲ聞バヤ」ト〓リケレドモ、名乗ル者ナカリケリ。
「軍シテモ今ハナニヽカセム」トテ、「日本第一ノ甲ノ者ノ、主ノ御共ニ自害スル。
八ヶ国ノ殿原、見習給ヘ」トテ、高キ所ニ打アガリ、大刀ヲ抜テ、キ（ッ）サキヲ
口ニクワヘテ、馬ヨリ逆ニ落テ、ツラヌカレテゾ死ニケル。大刀ノキ（ッ）サキ二尺
計後ヘゾイデニケル。今井自害シテ後ゾ粟津ノ軍ハ留リケル。
十〔樋口次郎成降人事〕 樋口次郎兼光ハ、十郎蔵人行家誅ベシトテ、五百余騎ノ勢ニテ
Ｐ３０６４（三二ウ）
河内国ヘ下リタリケルガ、十郎蔵人ヲバ打ニガシテ、兼光、女共生取ニ
シテ京ヘ上ケルガ、淀ノ大渡ノ辺ニテ、木曽殿被打ヌト聞ケレバ、
生取共皆免シテ、「命惜シト思ワム人々ハ、是ヨリトク＜落給ヘ」ト云
ケレバ、五百余騎ノ者共思々ニ落ニケリ。残者僅ニ五十騎計ゾ有
ケル。鳥羽ノ秋山ノ程ニテハ二十騎計ニ成ニケリ。爰ニ小玉党ニ、庄
三郎、庄四郎トテ兄弟アリケリ。三郎ハ九郎御曹司ニ付奉リタリ
ケリ。四郎ハ木曽殿ニアリケルガ、樋口ガ手ニ付テ上ルト聞ケレバ、兄ノ三郎
使者ヲ立テ四郎ニ云ケルハ、「誰ヲ誰トカ思奉ルベキ。木曽殿被打給ヌ。九郎
御曹司ヘ参リ給ヘカシ。サルべクハ其様ヲ申上候ワム」ト云ツカハシタリ
ケレバ、四郎申ケルハ、「兄弟ノ習、今ニ不始一事ニテ候ヘバ、悦入テ承リ候ヌ。善
Ｐ３０６５（三三オ）
悪参候ベシ」トゾ返答シタリケル。兄三郎、サレバコソト相待ケレドモ、ミヘザ
リケリ。重テ使ヲ遣ワシタリケレバ、四郎申ケルハ、「誠ニ両度ノ御使可然一
候。尤可参ニテコソ候ヘドモ、且ハ御辺ノ御為ニモ面目ナキ御事ナリ。
弓矢ヲ取習、二心アルヲシテ今生ノ恥トス。昨日マデハ木曽殿ノ御恩ヲ
蒙テ、二ナキ命ヲ奉ラムト思テ、今又被打給テ後、幾程ナキ命ヲ
タバワムトテ、本主ノ御敵、九郎御曹司ヘ参ラム事、口惜ク候ヘバ、御
定可然候ヘドモ、エコソ参候マジケレ。此御悦ニハマ（ッ）先係テ打死シテ、名
ヲ後代ニ上、三郎殿ノ面目ヲホドコシ奉ルベシ」ト申タリケレバ、三郎力
不及一。「サテハ四郎サル者ナレバ、詞タガヘジトテ、マ（ッ）先ニ出来ナムズ。人手ニハカ
クマジ。善悪打取テ御曹司ノ見参ニ入ルベシ。弓矢取者ノシルシ是」ト
Ｐ３０６６（三三ウ）
思テ待係タリ。如案一庄四郎打輪ノ旗指テ、マ（ッ）先ニスヽミテ出来
タリ。是ヲミテ庄三郎、「アワヤ四郎ハ出来ルハ」トテ、トカウノ子細ニ不
及一、押並テクムデ落タリ。シバシハカラヒケルガ、兄弟同ホドノ力
ニテ有ケル間、互ニヒ（ッ）クミテ臥タリケルヲ、三郎ハ多勢ニテ有ケ
レバ、郎等アマタ落合テ、四郎ヲ手取ニ取テケリ。判官殿ニ進タリ
ケレバ、「庄三郎神妙ニ仕リタリ。此勧賞ニハ四郎ガ命ヲ助ル也」ト宣ヒケ
レバ、四郎申ケルハ、「命ヲ給リ候忠ニハ、自今以後軍ノ候ワムニハ、マ（ッ）先
係テ君ニ命ヲ進スベシ」トゾ申タリケル。皆人是ヲ感ジケリ。サルホドニ
樋口次郎兼光、造路ヲ上リニ四塚ヘムケテ歩セケリ。兼光京ヘ
入ルト聞ケレバ、九郎義経ノ郎等共、我モ／＼ト七条、朱雀、四塚ヘ馳
Ｐ３０６７（三四オ）
向テ合戦ス。樋口ガ甥、信乃武者ニ千野太郎光弘三十騎計ニテ
先陣ニスヽム。武者ニ行向テ、スヽミ出テ申ケルハ、「イヅレカ甲斐ノ一条殿
ノ御手ニテ渡セ給候ラム。カク申ハ信乃国住人、スワノ上ノ宮ノ千野
大夫光家ガ嫡子、千野太郎光弘ト申者」ト云ケルヲ、筑前国
住人、原ノ十郎高綱進出テ申ケルハ、「ヤ、殿、必ズ一条殿ノ御手ノ
カギリニ軍ハスルカ。誰ニテモアレ、向敵トコソ軍ハスレ。近寄合給へ。
互ノ手ナミ見タリ見へタリセム」トゾ申ケル。千野太郎「左右ニ不及一」
トテ、弓手ニスラヒテ二段許寄合テ、十二束ヨクヒイテ兵ド
射ル。「高綱」ト云口ヲ射通テ、鉢付ノ板ニ射付タリ。馬ニモタマラズ落ムト
スル所ヲ、千野太郎押並テ、弓手ノ脇ニカヒハサミテ、腰刀ニテ頸ヲカキ切
Ｐ３０６８（三四ウ）
テ、大刀ノサキニサシツラヌキ、「敵モ御方モ此ヲ見給ヘ。向フ者ヲカフコソ
習セ。敵ヲ嫌ニアラネドモ、一条殿御手ヲ尋事ハ、光弘ガ弟、千野
七郎ガ一条殿ノ御手ニアル間、彼ガ見ム前ニテ打死セムト思。其故ハ、
信乃ニ男子二人モチタルガ、幼ナキ者ニテ候也。成人シテ、『我父ハ軍
ニコソ死タムナレ。光弘最後之時、ヨクテヤ死ツラム、悪テヤ死ケム』ト、
オボツカナク思ワムモ不便ナレバ、子共ニ慥ニ語セム料ニ、一条殿ノ御
手ヲバ尋ルヽ也」ト申テ、大刀ノサキニツラヌキタル頸ヲバナゲステヽ、大刀ヲ
額ニアテヽ大勢ノ中ニ馳入リ、散々ニ戦テ、究竟ノ敵十三騎切伏テ、
終ニ自害シテコソ死ニケレ。其弟ノ千野七郎モ係出デヽ、樋口ガ勢ニ打
向テ、敵二人ニ手負セテ打死ニシテムゲリ。サルホドニ、千野太郎被打ヌト
Ｐ３０６９（三五オ）
聞テ、樋口次郎歩セ出シテ申ケルハ、「音ニモ聞ケ、今ハ目ニモ見給ヘ、殿原。
信乃国住人木曽仲三権守兼遠ガ二男、木曽ノ左馬頭殿御
乳母、樋口次郎兼光。打取テ鎌倉殿ノ見参ニ入レ」トテ、ヲメイテ
係ル処ニ、児玉党打輪ノ旗サヽセテ、卅騎計ニテ出来テ申ケルハ、
樋口ハ児玉党ノ声ニテ有ケレバ、「ヤ、殿、樋口殿。人ノ一家ヒロキ中ヘ
入ト云ハ、カヽル時ノ為也。軍ヲトヾメ給ヘ。和殿ヲバ御曹司ニ申テ助ウズル
ゾ」ト云テ、樋口ヲ中ニ取籠テ、大宮ヲ上リニ具シテ、判官ノ宿所ヘ入。
九郎義経ニ申ケレバ、「義経ガ計ニ叶マジ。院御所ヘ申セ」トテ、樋口ヲ相
具テ奏聞ス。「其期過タレバ、大将軍ニテモナシ、末ノ奴原ヲ切ニ不及一。九
郎冠者ニ預ヨ」トテ、義経ニ被預置。
Ｐ３０７０（三五ウ）
十一〔師家摂政ヲ被止給事〕 廿二日、新摂政師家ヲ奉止テ、本ノ摂政基通成返ラセ給ヘリ。僅ニ
六十日ト云ニ被留給ヘリ。ホドノナサ、見ハテヌ夢トゾ覚ヘタル。粟田関白
道兼ト申ハ、内大臣道隆ノ御子、正歴元年四月廿七日関白ニ成給
テ、御拝賀ノ後只七ヶ日コソオワシマシヽカ。カヽルタメシモアルゾカシ。
是ハ六十日ガ間ニ除目モ二ヶ度行給シカバ、思ヒデオワシマサヌニハ非ズ。
一日モ摂禄ヲ〓、万機ノ政ヲ執行給ヒケムコソヤサシケレ。
十二〔義仲等頸渡事〕 廿六日、伊与守義仲ガ首ヲ被渡一。法皇御車ヲ六条東洞院ニタテヽ
被御覧一。九郎義経、六条川原ニテ検非違使ノ手ヘ渡ス。是ヲ
請取テ、東洞院ノ大路ヲ渡テ、左ノ獄門ノアフチノ木ニカク。首四アリ。伊
与守義仲、郎等ニハ、信乃国住人高梨六郎忠直、根井滋野幸
Ｐ３０７１（三六オ）
親、今井四郎中原兼平也。樋口兼光ハ降人ナリシヲ、渡シテ被
禁獄一。是ハサセル其者ニテモ無シ、可被行死罪ニ一ニテハナケレドモ、法住
寺殿ヘ寄テ合戦シケル時、御所ノ可然女房ヲ取奉リテ、衣装ヲハギ
取リ、兼光宿所ニ五六日マデ籠置奉リタリケル故ニ、彼女房カタ
エノ女房達ヲ語テ、「兼光切セ給ハズハ、身ヲ桂川淀川ニナゲ、深山ヘ
入、御所ヲ罷出ナム」ト口々ニ申ケレバ、力不及トテ、同廿七日ニ五条西
朱雀ニテ引出テ、樋口次郎兼光ガ首ヲ被刎ヌ。彼兼光ハ降人
ナルニ依テ、昨日大路ヲ渡シテ被禁獄一。サレドモ義仲ガ四天王ノ其一也、
死罪ヲ被バ宥一、虎ヲ養フ愁可有一トテ、殊沙汰アリテ被切一ニケリ。
伝聞ク、虎狼ノ国衰テ、諸将如蜂一競ヒ起シニ、沛公先ヅ感陽宮ニ
Ｐ３０７２（三六ウ）
入ト云へドモ、項羽ガ後ニキ覧事ヲ恐テ、金銀珠玉ヲモ掠ズ、〓、馬、美
人ヲモ犯事ナカリキ。只徒ニ函谷ノ関ヲ守テ、項羽ガ命ニ随キ。而シテ後、
謀ヲ廻（二）シテ翠帳ノ中一ニ、勝事ヲ千里外ニ決ス。漸々ニ敵軍ヲ滅シテ、
終ニ天下ヲ保事ヲ得タリ。義仲モ先都ヘ入ルト云ドモ、其ヲ慎シミテ、
頼朝ガ下知ヲ待マシカバ、沛公ガ謀ニハ不劣一マシ物ヲト哀也。義仲
悪事ヲ好ミテ天命ニ従ワズ。剰法皇ヲ褊奉リテ叛逆ニ及ブ。
積悪ノ余殃身ニ積テ、首ヲ京都ニ伝フ。前業ノツタナキ事ヲ
ハカラレテ無漸也。何ナル者カシタリケム、札ニ書テ立タリケリ。
宇治川ヲ水ツケニシテカキワタル木曽ノ御レウハ九郎判官
田畠ノツクリモノミナカリクヒテ木曽ノ御レウハタヘハテニケリ
Ｐ３０７３（三七オ）
名ニタカキ木曽ノ御レウハコボレニキヨシナカ＜ニ犬ニクレナム
木曽ガ世ニ有シ時ハ、「木曽ノ御料」ト云テシカバ、草木モ靡キテコソ
有シニ、イツシカ天下ノ口遊ニ及ベリ。ハカナキ世ノ習ト云ナガラ、トガムベキ人モ
ナシ。日来振舞シ不善不当、自業自得果ノ理リナレバ、トカク中ニ不及一。￥￥
十三〔義経鞍馬ヘ参ル事〕 九郎義経上洛シテ、「怱ギ鞍馬ヘ参テ、師ノ東光坊ニ見参シテ、
祈請ヲモ申付ム」ト被思ケルニ、当時此乱打ツヾキテヒマナシ。乍思サテ〔過〕
ラレニケリ。木曽モ被打ヌ、京中ニモ定テ後、伊勢三郎義盛、渋谷
馬允重助、左藤三郎、同四郎以下、郎等十余騎ニテ鞍馬ヘ
参リテ、夜ニ入レバ御堂ニ入堂シテ、終夜昔申シ本意遂タル由ヲ
被申テ、チトマドロミ給タルニ、御宝殿ノ内ヨリ八十有余老僧出給テ、
Ｐ３０７４（三七ウ）
「汝ニ是ヲトラセムトテ置タルゾ」トテ、白サヤマキヲ給ワルト見テ、打驚テ
傍ヲ見給へバ、夢ニ示シ給タル鞘巻也。弥ヨタノモシク思テ感涙ヲ流
ツヽ、師ノ坊ニ返テ、「カクナム」ト被申ケリ。東光房是ヲ見テ、「誠ニ毘沙
門ノ放チ思食メサヾリケルニヤ」トゾ被申ケル。義経シバラク候テ、「心閑ニ
可申事候ヘドモ、京都モオボツカナシ。又コソ候ハメ」トテ被下向ケリ。
其ヨリ貴船ヘ被参タリケリ。社殿昔ニカワリタル事ハナケレドモ、
古ミシ草木ドモハルカニ生シゲリテ、神サビタルアリサマ、哀ニオボエテ、
シバラク被念誦ケルホドニ、神主イカヾ思ケム、白羽ノカブラ矢一取出テ、
「聊夢想ノ告候」トテ奉レバ、義経畏テ給ワリテ被出ニケリ。サテコソ
屋嶋ヘ渡給シ時、大風ニ船共アヤウクミヘシカバ、此矢ヲ白旗ノサヲ
Ｐ３０７５（三八オ）
ニゾユイ付ラレケル。
十四〔義経可征伐平家之由被仰事〕 廿九日、九郎義経イツシカ平家征伐ノ為ニ西国ヘ下向。義経院
御所六条殿ヘ召テ、仰ノ有ケルハ、「吾朝ニ神代ヨリ伝タル三ノ御宝
アリ。即、神璽、宝剣、内侍所、是也。相構々々無事故一都ヘ返入
奉レ」トゾ被仰ケル。義経畏テ罷出ヌ。
〔十五〕〔平家一谷ニ構城郭事〕 平家ハ幡摩国室山、備中国ニ水嶋、両度ノ合戦ニ打勝テ、山陽
道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国ノ住人等悉ク従、軍
兵十万余騎ニ及ベリ。木曽被打ヌト聞ケレバ、平家讃岐屋嶋ヲ
コギ出ツヽ、摂津国ト幡摩トノ堺ナル、難波一谷ト云所ニゾ籠リケル。去
正月ヨリ、コヽハ究竟ノ城ナリトテ、城郭ヲ構テ、先陣ハ生田ノ杜、湊河、
Ｐ３０７６（三八ウ）
福原ノ都ニ陣ヲ取、後陣ハ室、高砂、明石マデツヾキ、海上ニハ数千艘ノ
舟ヲ浮テ、浦々嶋々ニ充満シタリ。一谷ハ口ハ狭テ奥広シ。南ハ海、北ハ
山、岸高シテ屏風ヲ立タルガ如シ。馬モ人モスコシモ通ベキ様ナカリ
ケリ。誠ニユヽシキ城也。赤旗其数不知一立置タリケレバ、春風ニ
吹レテ天ニ飜リ、火焔ノ立アガルガ如シ。誠ニヲビタヽシ。敵モ憶シヌべクゾ
見ヘケル。平家年来祗候ノ伊賀、伊勢、近国ノ死残タル輩、
北国、南海ヨリヌケ／＼ニ付ケル輩、幡摩国ニハ津田四郎高
基、美作国ニハ江見入道、豊田権守、備前国ニハ難波次郎経
遠、同三郎経房、備中国ニハ石賀入道、建部太郎、新見郷
司、備後国ニハ奴可入道、伯耆国ニハ小鴨介基康、村尾海
Ｐ３０７７（三九オ）
六成盛、日野郡司義行、出雲国ニハ円屋大夫、多久七郎、浅山、
木須幾、身白ガ一党、富田ノ押領使、横田兵衛惟澄、安芸国ニハ
源五兵衛頼房、周房国ニハ石国源太維道、野介太郎有
知、富田介高綱、石見国ニハ安主大夫、横川郡司、長門国ニハ郡
東郡司季平、郡西大夫良親、原宗入道武通、鎮西輩ニハ
菊地次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎重俊、郡司権守
直平、佐伯三郎維康、坂三郎惟良、左原太郎種益、山鹿兵
藤次秀遠、板屋兵衛種遠、阿波民部成良ガ計ニテ、伊与川野
四郎通信ガ余党ノ外ハ、大略皆参ニケリ。昔項羽ガ鴻門ニ向ガ如シ。
ナニカハ是ヲ攻落サムト見ヘケル。
Ｐ３０７８（三九ウ）
十六〔能登守四国者共討平ル事〕 猿程ニ讃岐国在庁已下ノ家人等、平家摂津国ヘ渡給テ後、心ヲ
源氏ニ通シテ、「次デ有バ源氏ノ方ヘ参ラム」ト思ケルガ、「今日マデ平家ニ
奉公シテ只参ラムハ、源氏ニ被打ナムズ」トテ、「平家ニ矢一射係奉テ
其ヲ面ニセム」ト思テ、十三艘ノ船ニ二千余人乗テ、備前国ヘ押渡リ
ケルガ、門脇中納言教盛父子三人、五百余騎ニテ備前ノ下居
郡ニオワシマスト聞テ、カシコヘ押寄テ、可打之由ヲ支度スト聞ヘ
ケレバ、越前三位通盛、能登守教経此事ヲ聞テ、「ニクキ奴原
カナ。昨日マデ我等ガ馬ノ草カリタル奴原ノ二心仕ラムコソ
奇怪ナレ。其義ナラバ一人モアマスナ」トテ、彼等ガ立籠タル
所ヘ押寄テ戦。彼等ハ人目計ニ矢一射ムトコソ思ケルニ、能登
Ｐ３０７９（四〇オ）
守大ニ怒テセメケレバ、在庁等コラヘズシテ都ノ方ヘヲモムキケルガ、暫
息継ムトテ、淡路国福浦ト云所ニ付ニケリ。彼国ニ掃部冠者、淡
路冠者トテ源氏二人アリ。此等ハ六条判官為義ガ孫共也。掃部
冠者ハ掃部頼仲ガ子息、淡路冠者ハ同四郎左衛門尉頼賢ガ
子也。淡路国住人等皆此両人ニ付ニケリ。讃岐国在庁モ此二人ヲ
大将ト憑テケリ。是ヲ聞テ通盛教経淡路ヘ渡リテ、一日一夜
戦ケルホドニ、掃部冠者モ淡路冠者モ被打ニケリ。能登守ハ在
庁已下百三十二人ガ首切テ、交名書副テ福原ヘ献ル。中納
言ハ福原ヘ返給ニケリ。通盛教経二人ハ伊与河野四郎通信セ
メムトテ、二手ニ分テ押渡ル。三位ハ阿波小郡花園ト云所ニ着給フ。
Ｐ３０８０（四〇ウ）
能登守ハサヌキノ屋嶋御所ニ着給ケリ。通信此事ヲ聞テ、安芸ノ
奴田太郎モ源氏ニ心ザシ有ヨシ聞テケレバ、奴田太郎ト一ニ成テ
奴田尻ヘ渡リテ、今日備後ノ簑嶋ト云所ニ留ル。次日蓑嶋ヲ
出テ奴田城ヘ着ニケリ。平家ヤガテ追カヽリテ一日一夜戦
ケルホドニ、矢種射ツクシタリケレバ、奴田太郎甲ヲヌギ弓ヲハヅシ
テ降人ニ参ニケリ。河野四郎通信ハ郎等皆被打取一テ、
僅ニ主従七騎ニテ細縄手ヲ浜ヘ向テ落ケルヲ、能登守ノ侍ニ
平八為員ト云者、取テハゲテヨクヒキテ射タリケレバ、六騎ハ射
落シテケリ。六騎ガ内三騎ハ目ノ前ニテ死ニケリ。残三人ガ内一人ハ
讃岐国七郎為兼ト云者也。命ニカヘテ思郎等ナリケレバ、河野
Ｐ３０８１（四一オ）
肩ニ引係テ、小船ニ乗テ伊与国ヘ落ニケリ。教経、河野ヲバ打ニガシ
タリケレドモ、大将軍奴田太郎生取ニシテ、福原モオボツカナシ
トテ、福原ヘ帰給ニケリ。淡路国住人阿万六郎宗益、此モ源
氏ニ志アリテ都ヘ上リケリ。教経是ヲ聞テ、小船十三艘ニ
百五十余人乗テ追テカヽル。西宮ノヲキニテ追付タリ。阿万六郎
河尻ヘハ入ラレズ、矢一モ不射シテ、紀伊ノ地ヲサシテ落ニケリ。紀伊国
住人園部兵衛重茂ト云者アリ。是モ源氏ニ志アリケルガ、淡路
阿万六郎コソ源氏ニ志アリテ京ヘ上ナルガ、和泉国フケイ、田川ト
云所ニ付タムナレト聞テ、一ニ成テアリケルヲ、教経紀伊ノ地ヘ押渡テ
散々ニ打チラシテ、末者三十六人ガ首切テ福原ヘ奉ツル。又備前
Ｐ３０８２（四一ウ）
国ノ今木城ニ、河野四郎通信、豊後国住人緒方三郎伊能、海田
兵衛宗近、臼杵次郎惟高等、一ニ成テ籠リタルヨシ聞ケレバ、能
登守二千余騎ノ勢ニテ今木城ヘ押寄テ、一日一夜戦テ、城
内コラヘズシテ城負ニケレバ、鎮西ノ者共、伊栄ヲ始トシテ豊後ノ
地ヘ落ニケリ。川野ハ例事ナレバ、四国ノ方ヘ落ニケリ。能登守今木
城セメ落テ、福原モオボツカナシトテ返給ニケレバ、能登守ノ所々ノ
高名、大臣殿以下人々感ジアヒ給ヘリ。能登守被申ケルハ、「ヤガテ
四国九国ヘモ押渡テ、彼等ヲセメ落シテ進スベク候ツレドモ、京ヨリ
源氏ノ勢向ト承リテ、オボツカナサニ参テ候」ト被申ケリ。アハレ
大将軍ヤトゾミヘシ。
Ｐ３０８３（四二オ）
〔十七〕〔平家福原ニテ行仏事事付除目行事〕 二月四日、平家ハ福原ニテ故大政入道ノ忌日トテ、如形一仏事被行
ケリ。過行月日ハシラネドモ、手ヲ折是ヲ算レバ、去年ノ今年ニ廻
キテ、ウカリシ春ニモ成ニケリ。世ノ世ニテアラマシカバ、起立塔婆、
供仏施僧ノ営モ、サスガ耳目ヲ驚ス事ニテコソ有ベキニ、如形一ノイ
トナミ哀也。只男君達指ツドヒテ悲シミ給ケルコソ悲ケレ。スデニ
都ヘ帰リ入ベキ由聞ケレバ、残留門客落下テ、勢イトヾ付ニケリ。
三種神祇ヲ帯シテ、君カクテ渡セ給ヘバ、是コソ都ナレトテ、
叙位除目、僧モ俗モ官被成ケリ。門脇中納言教盛卿ヲバ正二
位大納言ニ被召仰ケレバ、敦盛ハカクゾ被申ケル。今日マデモアレバ
アルトヤオモフラムユメノウチニモユメヲミルカナ大外記中原師
Ｐ３０８４（四二ウ）
直ガ子、周房介師澄ハ大外記ニ成ニケリ。兵部少輔尹明ハ五位蔵
人ニナサレテ、蔵人ノ少輔トゾ申ケル。昔将門ガ東八ヶ国ヲ打靡シテ、
下総国相馬郡ニ都ヲ立テ、我身ヲ平親王ト称テ、百官ヲ成シ
タリケルガ、歴博士計コソナカリケレ。是ハ其ニハ似ベキニアラズ。
古郷ヲコソ出サセ給タレドモ、万乗ノ位ニ備ハリ給ヘリ。内侍
所マシマセバ、叙位除目被行ケルモ僻事ナラズ。権亮三位中
将ハ、年隔タリ日重ルニ随テ、古郷ニ留メ置シ人々ノ事ノミ
無穴倉一恋クゾ被思ケル。商人ノ便ナドニ自ラ文ナムドノ通ニモ、
北方ハ、「相構テ迎取給へ。少キ者共モナノメナラズ恋シガリ奉ル。
ツキセヌ歎ニナガラウベクモナシ」ナムド、細々トカキツヾケ給ヘルヲ
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見給ニ付テモ、「アワレ、迎取奉テ一所ニテトモカクモナラバ、思事
アラジ」ト、思立給事ヒマナケレドモ、人ノ為イトヲシケレバ、思忍テ
日ヲ送ル。サルマヽニハ余三〔兵〕衛、石童丸ナムドヲ常ニアト枕ニ置キ給テ、
暁テモ晩テモ只此事ヲノミ宣テ、臥沈ミ給ヘバ、三位中将ノ有
様ヲ人々見給テ、池ノ大納言ノ様ニ、頼朝ニ心ヲ通シテ二心有トテ、
大臣殿モ打トケ給ハネバ、ユメ／＼サハ無物ヲトテ、イトヾアヂキナク
ゾオボシメサレケル。「愛執増長一切煩悩ノ文ヲ思ニハ、穢土ヲ厭ニイサミナシ。
閻浮愛執ノキヅナコハケレバ、浄土ヲ欣ニ倦シ。宿執開発ノ身ナレバ、今生ニハ
妻子ヲ念フ心、合戦ニ向思ニ身ヲ苦メテ、来生ニハ修羅道ニ落ム事
疑ナシ。只一門ニ不知一レシテ都エ忍テ上テ、妻子ヲモ見、妄念ヲモ払テ、
Ｐ３０８６（四三ウ）
閑ニ臨終セムヨリ外ノ事有ベカラズ」ト思ナラレニケレバ、何事モ思入レ
給ハズ、臥沈給フゾ哀ナル。二位僧都全真ハ、梶井宮ノ年来ノ御
同宿也ケレバ、風ノ便ノ御文遣ハサレケルニ、「旅ノ空ノ有様思遣
コソ心苦ケレ。都モ未ダシヅマラズ」ナムド、コマ＜”トアソバシテ。
人シレズソナタヲ忍ブコヽロヲバカタブク月ニタグヘテゾヤル
十八〔梶原摂津国勝尾寺焼払事〕 元歴元年二月四日、梶原一谷ヘ向ケルニ、民共勝尾寺ニ物ヲ隠ス
ヨシヲホノ聞テ、兵ノ襲ヒ責シカバ、老タルモ若モニゲカクレキ。三
衣一鉢ヲウバウノミニアラズ、忽ニ火ヲ放ニケレバ、堂舎仏閣悉ク
春ノ霞トナリ、仏像経巻併ナガラ夜ノ雲トノボリヌ。感陽宮ノ
煙ノ片々タリシモ、仏閣ニアラネバ其咎ナヲカロク、祇園寺ノホノ
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ヲノ炎々タリシモ、人ノクハタテナラネバ其罪ヲモカラジ。然ヲ今ホロ
ボス所ハ仏閣僧坊六十八宇、経論章疏九千余巻、仏像道
具資財雑物、スべテ算数ノ及ブ処ニアラズ。罪スデニ五逆罪ヨリモ
オモシ。当果豈ニ地獄ノクルシミヲマヌカレムヤ。薬師三尊ハヲノヅカラ
ホノヲヽノガレ、千手観音ハムナシク煙トナリ給ヘリ。目モクレ心モキヘテ、
ナキカナシム者多シ。サレドモ、頂上仏ノ金銅ノ阿弥陀御身ニ納メ
タリシ金銅ノ観音ト、灰ノ中ヨリモトメ奉ル、百済国ヨリ送レル
三尺五寸ノツキガネモ、水ノ如クニトクルニ、三尊ノコリ給ヘルヲミ
テ、寺僧共歓喜ノ涙ヲゾナガシケル。
〔十九〕〔法皇為平家追討御祈被作始毘沙門事〕 同七日、法皇ハ八条烏丸御所ニシテ、平氏追討ノ御祈ニ、五丈ノ毘沙
Ｐ３０８８（四四ウ）
門天像ヲ被ル作始一。先御衣木ヲ安置ス。二丈五尺ナリ。以テ南為上一ト。
法印院尊為リ大仏師一。権僧正定遍加持ス。御衣木向リ西一ニ。法
皇純色付衣ヲメサレテ、砌下ノ御座ニ着御アリ。高麗縁ノ畳
一帖ヲ地上ニ敷テ御座トス。御仏作始テ後、向テ北一。奉テ立一、法
皇三度御拝アリケリ。
〔二十〕〔源氏三草山并一谷追落事〕 猿程ニ源氏二手ニ構テ福原ヘ寄ムトシケルガ、「四日ハ仏事ヲ妨ム
事罪深カルベシ。五日西フタガル。六日悪日ナリ」トテ、「七日ノ卯時ニ東
西ノ木戸口ノ矢合」ト定ム。大手大将軍蒲冠者範頼ハ、四日京ヲ
立テ、摂津国幡摩路ヨリ一谷ヘ向。相従輩ハ、
武田太郎信義、加々見太郎遠光、同次郎長清、一条次郎忠頼、
Ｐ３０８９（四五オ）
板垣三郎兼信、武田兵衛有義、伊沢五郎信光、侍大将軍ニハ、
梶原平三景時、嫡子源太景季、同平次景高、千葉介経胤、
同太郎胤時、同小太郎成胤、相馬小次郎師経、同五郎胤道、
同六郎胤頼、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、山田太郎重澄、
山名小二郎義行、渋谷三郎重国、同馬允重助、佐貫四郎大夫弘綱、
村上次郎判官基国、小野寺太郎道綱、庄太郎家長、庄四郎忠家、
同五郎弘方、塩屋五郎是弘、勅旨川原権三郎有則、中村小
三郎時経、川原太郎高直、同次郎盛直、秩父武者四郎行綱、
久下二郎重光、小代八郎行平、海老名太郎、同三郎、同四郎、
同五郎、中条藤次家長、安保二郎実光、品河二郎清経、
Ｐ３０９０（四五ウ）
曽我太郎助信、中村太郎等ヲ始トシテ五万六千余騎、六日
酉剋ニ摂津生田森ニ付ニケリ。搦手大将軍九郎義経ハ、
同日京ヲ出テ、三草山ヲ越テ、丹波路ヨリ向。相従輩ハ、
安田三郎義定、田代冠者信綱、大内太郎惟義、斉院次官親能、
佐原十郎義連、侍大将軍ニハ、畠山庄司次郎重忠、弟長野三
郎重清、従父兄弟稲毛三郎重成、土肥次郎実平、嫡子弥太
郎遠平、山名三郎義範、同四郎重朝、同五郎行重、
判三六郎成清、和田小太郎義盛、天野次郎直常、糟屋藤太
有季、川越太郎重頼、同小太郎重房、平山武者所季重、
平佐古太郎為重、能容次郎直実、子息小二郎直家、佐々木
Ｐ３０９１（四六オ）
四郎高綱、小川小次郎助義、大川戸太郎広行、諸岳兵衛重経、
原三郎清益、金子十郎家忠、同余－家員、猪俣小平六則綱、
渡柳弥権太清忠、別府次郎義行、長井太郎義兼、源八広綱、
椎名小次郎有胤、奥州佐藤三郎継信、同四郎忠信、伊勢三郎
能盛、多々良五郎義春、同六郎光義、片岡太郎経春、
筒井次郎義行、葦名太郎清高、蓮間太郎忠俊、同五郎
国長、岡部太郎忠澄、同三郎忠康、枝源三、熊井太郎、武蔵
房弁慶ナムドヲ始トシテ一万余騎、丹波路ニカヽリテ、三草山ノ
山口ニ、其日ノ戌時計ニ馳付タリ。九郎義経ハ、赤地錦ノ直垂ニ、黄返シ
タル鎧キテ、宿〓毛ナル馬ノ、太ク尾ガミア
タクマシキ（雨）クマデ呈ガ、名ヲバアマ
Ｐ３０９２（四六ウ）
雲ト云ニゾ乗リタリケル。東国第一ノ名馬也。二日路ヲ一日ニゾ打
タリケル。三草山ハ山中三里也。平家是ヲ聞テ、三草山ノ西ノ山口ヲ、
大将軍ハ新三位中将資盛、同少将有盛、備中守師盛、侍ニハ平内
兵衛清家、江見太郎清平ヲ先トシテ、七千余騎ニテ三草山
ヘゾ向ケル。東ノ山口ニハ九郎義経、土肥次郎実平ヲ大将軍トシテ、
一万余騎ニテ引ヘタリ。九郎義経、土肥次郎ニ云ケルハ、「今日ノ軍、
夜打ニヤスベキ、アケテヤスベキ」ト云ケルニ、土肥ニハイワセデ、伊豆国
住人田代冠者信綱スヽミ出テ申ケルハ、「此程ノ山ヲ落サムニハ、只
謀ヲ先トス。雪ハ野原ヲウヅメドモ、老タル馬ゾ道ヲシル。一陣破ヌレバ
残党全カラズトイヘリ。平家ハヨモ今夜ハ用心候ハジ。夜討能ク候ヌト
Ｐ３０９３（四七オ）
覚候。平家ノ勢七千余騎ト承ル。御方ハ一万余騎也。遥ノ利ニテ
候ベシ。信綱マ（ッ）先仕ラム」ト申ケレバ、土肥、「田代殿イシウ申セ給テ候。
実平モカウコソ存候ヘ」トゾ申ケル。田代冠者ト申ハ、伊豆国
司為綱ト申ケルガ、在国ノ時、工藤介茂光ガ娘ヲ思テ生タリケル
子ナリ。為綱ハ任ハテヽ上リケレドモ、信綱ハ母方ノ祖父工藤介茂光ニ
預テ、伊豆国ニテソダテラレタリケルガ、生年十一歳ノ年、流人兵
衛佐ノ見参ニ入テ宮仕ケリ。弓矢取テ勝タリケル上、ユヽシキ
甲ノ者ニテゾ有ケル。石橋合戦之時、伊東入道祐親法師ヲ射散
シテ、御方ヲノバシタリシ兵也。カヽリケレバ兵衛佐、「九郎ガ副将軍ニ成
給ヘ」トテ被差副タル武者也。俗姓ヲ尋レバ、後三条〔院〕第三皇子〓人ノ
Ｐ３０９４（四七ウ）
親王ノ五代孫ナリトゾ聞ヘシ。サラバ夜討ニスベシトテ、其夜ノ丑剋計ニ
一万余騎ニテ、三草山ノ西ノ山口固メタル平家ノ陣ヘ押寄タリ。
平家ノ先陣ハヲノヅカラ少々用心シケレドモ、後陣ハ「今日軍有、明日ノ
軍ニテゾ有ムズラム」トテ、「軍ニモネブタキハ大事ノ物ゾ。今夜ヨク
寝テ軍セム」トテ、或ハ甲ヲヌイデ枕ニシ、或ハ箙ヲトキ、鎧ノ袖ヲタヽミ
テ枕トシテ臥タリケル所ヘ押寄テ、時ヲ作リテ、シバシモタメズ、ヤガテ
ケチラシテ通リケレバ、弓ヲ取者ハ矢ヲ不取一、矢ヲ取者ハ弓ヲ不取一。或ハ
ツナゲル馬ニ乗、或ハ逆ニ乗テムチヲウツ人モアリ。軍セムトスル者ハ一人モ
ナクテ、我先ニトニゲマドヒケレバ、一騎モ被打レデ皆通リヌ。新三位
中将ハ、追チラサレタル事ヲ無面目被思ケレバニヤ、福原ヘモ返リ給ハデ、
Ｐ３０９５（四八オ）
小馬ノ林ヨリ小舟ニ乗、福浦ノ渡ヲシテ、淡路ノ由良ヘ付給フ。舎弟
備中守師盛、平内兵衛清宗、アクル五日、大臣殿ニ参テ、「三草山ハ、
去ル夜ノ夜中計ニ、源氏ノ軍兵ニ、散々ニ追散サレ候ヌ。猶山ヘ手ヲ向ラル
ベクヤ候ラム」ト被申タリケレバ、大臣殿大ニ驚給テ、東西ノ木戸口ヘ
重テ勢ヲツカワサル。サテ安芸ノ馬助能康ヲ御使ニテ、能登守許ヘ
被云遣ケルハ、「三草山ノ手、已ニ被落一サテ候ナリ。一口ヘハ貞能、家長ヲ
差遣レ候ヌレバ、サリトモ覚候。生田ヘハ新中納言被向候ヌレバ、ソレ又
心安ク候。山ノ手ニハ盛俊ムカヘトテ候ヘバ、山ハ一大事ノ所ニテ有由シ承候ヘバ、
重テ勢ヲ差副バヤト存候ガ、イヅレノ殿原モ、『山ヘハ向ハジ』ト被申候。
イカヾシ候べキ。サリトテハ御辺向ワセ給ヘト存候」ト宣タリケレバ、
Ｐ３０９６（四八ウ）
能登守被申ケルハ、「軍ト申ハ、面々ニ、我一人ガ大事ト思テ、同心ニ候コソ
能候ヘ。『其手ヘハ叶ワジ。其人向ヘ。アノ手ヘ向ハジ』ナムド候ワムニハ、軍ニ
勝事候マジ。行末モハカ＜”シカルベシトモ覚候ワズ。サレバ人ノ上ノ大事ト、
各ノ被思召ベキカヤ。但幾度モ強カラム方ヘハ教経ヲ差遣
ワサレ候ヘ。命ノカヨワム限ハ身ヲバタバイ候マジ」トテ、ヤガテ能康ガ
見所ニテ打立テ、物具ヒシ／＼トシテ被向ケリ。甲斐々々シクゾミ
ヘラレケル。無程一三草山ヘ馳付テ、越中前司盛俊ガ陣ノ前ニ仮
屋ヲ打テ待係タリ。サルホドニ五日モクレニケリ。源氏ノ勢、〓陽野ニ
障ヲ取テ遠火ヲタキタリ。平家生田ヨリ見渡セバ、深行マヽニ、晴タル
空ノ星ヲ見ガ如也。平家ノ方ニモ「向火タケ」トテ、生田森ニ如形タイ
Ｐ３０９７（四九オ）
タリケリ。其夜ハ越前三位通盛ハ、能登守ノ仮屋ニ物具抜置テ、
女ヲ迎テ臥給ヘリ。能登守是ヲ見テ被申ケルハ、「何ニカヤウニ打トケテハ
渡セ給フゾ。此手ハ敵強テ、『教経向へ』ト候ツレバ、向テ候。誠ニ強カルベキ
所ト見ヘテ候。軍ノ習、弓ヲモチタレドモ矢ヲハゲズハ遅カルベシ。敵只
今押寄テ候ワム時ハ、鎧ヲキバ甲ヲキズ、弓ヲ取テ矢ヲトラズコソ候ワム
ズラメ。マシテ物具ヌギ被置候テハ、何ノ用ニカ合セ給ベキ」ト、再三被
申ケレバ、心ナラズワクラバノイモセノナラヒナ レバ、マダムツ事モツ
キザルニ、ヨヒノマギレニ引離テ、女ヲカヘシ給フ。後ニ思食シ合ラレケルハ、
其コソ最後ノ見終ナレ。哀ナリシ別ノホドコソ思遣レテ悲ケレ。「軍ハ
七日卯時ニ矢合有ベシ」ト被定。「義経ガ勢ノ中ニ、奥州佐藤三郎兵
Ｐ３０９８（四九ウ）
衛継信、同四郎兵衛忠信、枝源三、熊井太郎、源八広綱、伊勢
三郎能盛、武蔵房弁慶、熊谷次郎直実、子息小次郎
直家、平山武者所季重、片岡八郎為春、其勢七千余騎ハ義
経ニ付ケ。残三千余騎ハ土肥次郎、田代冠者両人大将軍トシテ、山ノ
手ヲ破給へ。我身ハ三草山ヲ打メグリテ鵯越ヘ可向」トテ歩セケリ。
義経被申ケルハ、「抑此山ハ悪所ニテアムナル者ヲ。馬ヲトシテ誤
スナ。誰カ此山ノ案内知タル」ト被仰ケレバ、武蔵国住人川越小太郎重
房スヽミ出テ、弓取ナヲシテ申ケルハ、「重房コソ此山ノ案内ハ知リテ
候ヘ。御免ヲ蒙リ先陣仕ツルベシ」ト申ケレバ、父重頼、取モアヘズ打
咲テ、「幼少ヨリシテ武蔵相模ニ居住シテ、足柄ヨリ西ハミズ。今始テ
Ｐ３０９９（五〇オ）
西国ノ初下リニ此山ニ入テ、『案内者セム』ト被申コソ、誠トモ覚ネ。山ニマヨハ
ジト思ワム人ハ、用バコソアラメ」ト云ケレバ、重房重テ申ケルハ、「『紫塵ノ
嫩、蕨人拳手一ヲ。碧玉寒、蘆錐脱嚢一ヲ』トイヘリ。心スキタル歌人ノ
吉野、龍田ニワケ入テ、花ヤ紅葉ヲ尋ヌルニ、花ハ峯ノコズヘ面白ク、紅
葉ハ谷川ノ岸ノ岩根色深シ。敵ノ籠レル後ト思ナシテ、城ヲ構タル
山ナレバ、サコソ有ラメト思成テ、甲者コソ案内者ヨ。サテコソ重房先
係ムト申ツレ」ト云ケレバ、人々是ヲ聞テ、「理カナ、面白シ」ト音々ニ感ジテ
ゾ歩セケル。カクハ勇ニ〓ケレドモ、誠ニ山ノ案内知タル兵一人モナシ。何ノ
谷ヘ落テ、何ノ峯ヘ越ベシトモシラザリケレバ、三草山ノ夜討之時、生取
アマタセラレタリケルヲ、切ベキ者ヲバ忽ニキラレヌ、国々ノ駈武者ノケシカ
Ｐ３１００（五〇ウ）
ル奴原ヲバ、木ノ本ニユイツケナムドシテ通リケルニ、生取ノ中ニ尋聞タキ
事モコソアレトテ、一人召具セラレタリケルヲ、召出シテ被尋ケレバ、
申ケルハ、「此山ハ鵯越ト申テ、サガシキ山ニテ候。所々ニ落シ穴ヲホリ、馬ヲモ
人ヲモ通ベクモ候ハズ。少モフミハヅシタラバ落サムトテ、底ニヒシヲ殖
テ候トゾ承候」ト申タリケレバ、「抑和君ハ平家ノ祗候人カ、又国々ノ
駈武者歟」ト問ワレケレバ、「平家ノ家人ニテモ候ワズ。駈武者ニテモ候ハズ。
幡磨国安田庄ノ下司、多賀菅六久利ト申者ニテ候ガ、去比先祖
相伝ノ所領ヲ、無故一平家ノ侍越中前司盛俊ト申者ニ押領セラレ候
テ、此二三年ノ間訴申候ヘドモ、訴詔達セズシテ罷過候。所領ハ被
取候ヌ。キズナキ死シ候ワムヨリハ、同クハ弓矢ヲ取テ、軍ニコソ死候ハメト
Ｐ３１０１（五一オ）
存候テ、此手ニ付テ候」ト申ケレバ、「サテハ平家ノ祗候人ニテハアラ
ザリケリ。誠ニ此山ノ案内者久利ニスギジ」トテ、「今ハユルスベシ」トテ、
誡ヲユルサレテ、先ニ立テゾオワシケル。比ハキサラギノ六日ノ事ナレバ、
ヨヒナガラ傾ク月ヲ打守リ、四方ヲタヾシテ行ホドニ、青山ハ苔深シテ、
残ノ雪ハ始花カトアヤマタレ、岩マノ氷トケザレバ、細谷川瀬ヲトタ
エ、白雲高クソビヘテ、下ムトスレバ谷深シ。深山道タエテ、杉ノ雪マデ
消ヤラズ、岸ノ細路幽也。木々ノ梢モ滋ケレバ、友マヨワセル所モアリ。
只コト問者トテハ、遠山ニサケブ猿ノ音、谷鶯コエナケレバ、マダ冬
カト疑ワル。松根ニ依テ腰ヲスラネドモ、千年ノ翠リ手ニミテリ。
梅花ヲ折テ頭ニサヽネドモ、二月ノ雪衣ニ落月モ高嶺ニ隠ヌ
Ｐ３１０２（五一ウ）
レバ、山深シテ道ミヘズ。心計ハハヤレドモ、夢ニ道行心地シテ、馬ニ任テ打
程ニ、敵ノ城ノ後ナル鵯越ヘヲ上リニケル。管六東ヲ指テ申ケルハ、
「アレニ見候所ハ大物ノ浜、難波浦、崑陽野、打出、アシ屋ノ里ト
申ハ、アノアタリニテ候也。南ハ淡路嶋、西ハ明石浦汀ニツヾキ
テ候。火ノ見候モ、幡摩摂津二ヶ国ノ堺、両国ノ内ニハ第一ノ谷ニテ
候間、一ノ谷ト申候ナリ。サガシクハ見候ヘドモ、小石マジリノ白砂ニテ、御
馬ハヨモ損候ワジ。一ノ檀コソ大事ノ所ニテハ候ヘ。巌高クソビヘ臥シテ、
馬ノ足立ベシトモミヘ候ワズ。少モフミハヅシテ、マロビ入リ候ナム馬ハ、骨ヲ
摧ズト云事候マジ。東西ノ木戸ノ上、東ノ岡ヲバ壇ノ浦トテ、海路遙ニ
見渡シテ、眺望面白ク候。望海楼ヲウカベツベシ。西ノ岡ヲバ高松原トテ、
Ｐ３１０３（五二オ）
春ノ塩風、秋ノ嵐ノ音、殊ニ冷ジキ所ニテ候也。大将軍ムネトノ侍近召テ、
各屋形ヲ並作リ、其外ノ兵ハ東西ノ木戸口ニ二重ニ屋形ヲ並テ候也。
弓欠取身ノ習ヒ、恥ガマシク候間、室山水嶋ノ軍ニ度々命ヲステヽ、
合戦仕テ候ヘドモ、思知給ワヌガ口惜候ヘバ、今日始テハガネ顕シ候ワム
ズル」トゾ申ケル。九郎義経ハ、空モミヘヌ深山ノ道ヲイヅクトモ不知
アユマセツヽ、峨々タル山ヲ打出、漫々タル海上ヲ見渡シテ、渚々ノ篝火、
海人ノ苫屋ノ藻塩火カト、面白ゾ被思ケル。感ニ絶給ワズ、「兵杖ノ
具足ヲバ態トトラセヌゾヨ。是ニテ敵招テ打物奪取テ高名セヨ。勲
功ハ取申ベシ」トテ、皆紅ノ日出シタル扇ヲゾ多賀菅六ニハタビテケル。未
夜深カリケレバ、暫コヽニテ人馬ノ息ヲゾ息メケル。カヽリケル所ニ、年
Ｐ３１０４（五二ウ）
五十計ナル男、カキノ袴ニクヽリユイテ、赤カリケル犬二疋先ニ立テ、
九郎義経ノ陣ノ前ヲゾ通リケル。枝ノ源三ヲ以テ是ヲ召ス。翁御前ニ
参テ畏ル。「汝ハ何ナル者、ナニガシト云者ナレバ、此夜中ニカ程ノミ山ヲ
通ルゾ」ト御尋アリ。「本ハ此山ノスソニ、相川ト云里ノ者ニテ候シガ、此
十四年此山ニ籠、狩ヲ仕ル。斧柄ノ妾ト申者ニテ候」。「サテハ汝山ノ
案内ハ知テ有ラム。平家ノ引テ御ワシマス城ノ上ヘ落ス道有ラバ、
有ノマヽニ申セ」。此ヲキナ申ヤウ、「幼少ノ当l初ヨリ老躰ノ今ニ至ルマデ、
度世ヲ助ラムガ為ニ、此ノ山林ニ交テ狩ヲ仕ル。至ラヌ木本モ無ク、下ラヌ
谷ハ無レドモ、平家ノオワシマス城ノ上ヘ落ス路ハ無候」ト申。「サテ鹿
ナドノ通事ハ無カ」ト御尋有リ。「池ノ氷ウチ解テ、夕陽東ニマ
Ｐ３１０５（五三オ）
ワリ、ノドケキ春ニ成候ヌレバ、丹波ノミ山ノ鹿ガ幡摩ノ野山ヘ渡リ、
紅葉谷ニチリシキテ、コズヘアラハニ成候ヘバ、コグラキ木ノ本ヲ尋、
幡摩ノ鹿ガ丹波ヘ通時ハ、此山ヲ越候」ト申。「サテハ鹿ハ通ゴサムナレ。
鹿ノ通程ノ道、馬ノ通ワヌ事アルベカラズ。吉馬場ニテ有ケリ。サテ
此山ヲ鵯越ト云ハイカニ」ト御尋有。翁申テ云ク、「伝承候ハ、天智天
皇摂津国ナガヘノ西ノ宮ニスマセオワシマシヽ時、アマタ小鳥ヲ被召
ケルニ、武庫山満願寺ノ峯ニテ鵯ヲ取給フ。御使ハ大友ノ公家ト
云ケル人也。鵯ヲサゲ此坂ヲ越タリケルニ依テ、鵯越トハ名付ク。又当
時見候へバ、春ノ霞ノ深シテ、ミ山ノコグラキ時ハ、南山ニスマウ鵯ノ、北ノ
山ヘ渡リテ栖ヲカケ子ヲウミ、秋ノ霧ハレテコズヘアラハニ成候ヘバ、ヲクモ
Ｐ３１０６（五三ウ）
雪ニ畏レテ、北ナル鵯ガ南ヘワタル時ハ、此山ヲコウ。サテ鵯越トハ申候。
平家ノオワスル城ノ上カラ、十四五丁ゾ候ラム。五丈計ハ落スト云ドモ、
其ヨリ下ヘハ馬モ人モ、ヨモカヨヒ候ワジ。思食留リ給候ヘ」ト申テ、
カキケツヤウニウセニケリ。イトヾ心細ゾ思サレケル。大手ノ勢ハ宵ノ程ハ
崑陽野ニ陣ヲ取、シコロヲ並テ居タリケルガ、三草ノ手ニ向タル越前
三位、能登守ノ陣ノ火、湊川ヨリ打上テ、北岡ニ火ヲ立タテケルヲ、
大手ノ兵是ヲ見テ、「九郎御曹司既ニ近付給ヘリ。打ヤ＜」トテ、我
先ニ係ムト、五万余騎手々ニ続松ヲ捧テ怱ギケル所ニ火ヲ放ケレバ、
汀ニ連テ万燈会ノ如シ。生田森マデツヾキタリ。海上光リ渡リテ、身ノ
毛イヨダチテヲビタヽシ。源氏平氏ノ陣ノ火ノ立ヌ所ゾナカリケル。熊谷
Ｐ３１０７（五四オ）
次郎ハ、子息小次郎直家ニ申ケルハ、「此大勢ニ具シテ山ヲ落ニハ高名
不覚モ有マジ。其上明日ノ軍ハ打コミニテ誰先ト云事アルマジ。今度ノ
合戦ニ一方ノ前ヲ係タリト、兵衛佐殿ニキカレ奉ラムト思ゾ。其故ハ、兵
衛佐殿可然一者ヲバ一間ナル所ニヨビ入テ、『今度ノ軍ニハ汝一人ヲ特ムゾ。親ニモ
子ニモ云ベカラズ。軍ニヲイテハ忠ヲ尽テ頼朝ヲ浦見ヨ』トゾ宣ケル。直実
ニモカク被仰シ事ヲ承テ、一方ノ前ヲバ心ニカク。イザウレ小次郎、西方ヨリ
幡磨路ヘヲリテ、一谷ノ先セム。卯時ノ矢合ナレバ、只今ハ寅ノ始ニテゾ有ラム」
トテ、打出ムトシケルガ、「アワレ平山ハ先ヲ心ニカケタルト見物ヲ。平山ハ先ニヤ
此山ヲ出ヌラム」ト思テ、人ヲ遣テ平山ガ在所ヲ見セケルニ、使返テ申ケ
ルハ、「平山殿ノ御方ニハ、只今馬ノハミ物シテ、タヒゲニ候フモ、御ヌシハマイリテ
Ｐ３１０８（五四ウ）
候ゲニテ、御物具メシ候カト覚テ、御鎧ノ草摺ノ音ノカスカニ聞ヘ候。
御乗馬トオボシクテ、鞍置テ轡計ハヅシテ、舎人引ヘテ候。
物具メシ候ガ、平山殿ノ御音ト覚シクテ、『八幡大菩薩モ御覧ゼヨ。今日ノ
軍ノマ（ッ）先セムズル物ヲ』ト宣」ト申ケレバ、熊谷サレバコソト思テ、小二郎直
家、旗指共ニ三騎相具シテ、幡磨路ノ渚ニ心ヲカケテ打出ムトスル所ニ、
武者コソ五六騎出来タレ。「只今コヽニ出来タルハナム者ゾ。名乗リ候ヘ」ト云
ケルコヘヲ聞テ、九郎御曹司ノ御音ト聞テ、直実申ケルハ、「是ハ直実
ニテ候。君ノ御出ト承リ候テ、御共ニ参リ候ワムトテ候」トゾ申ケル。後ニ申
ケルハ、「御曹司ノ御音ヲ其時聞タリシハ、百千ノ鉾サキヲ身ニアテラレタ
ラムモ、是ニハスギジト、オソロシカリシ」トゾ申ケル。義経ハ「其ヨリ先ニ係ル者ヤ
Ｐ３１０９（五五オ）
アル。又敵ヤ襲来ルラム」ト思テ、夜廻シケルナリ。「イシウ参タリ」ト宣テ、
引返所ニ、共スル様ニテ、ヌキアシニコソ歩セタレ。「ソモ渚ヘイヅル道ノ案内ヲ
知ヌヲバイカヾスベキ。ナマシヰニ出バ、出ヌ山ニ迷テ咲ハレテ、恥ガマシカルベシ」ト
申ケレバ、小二郎申ケルハ、「武蔵ニテ人ノ申候シハ、『山ニ迷ハヌ事ハ安キ事ニテ候
ナリ。山沢ヲ下ニダニマカリ候ヘバ、イカサマニモ人里ヘマカル』トコソ申候シカ。其ノ
定ニ山沢ヲ尋テ下セ給ヘ」ト申ケレバ、「サモアリナム」トテ、山沢ノ有ケルヲ
指南ニテ下リケルホドニ、思ノ如ニ幡磨路ノ渚ニ打出テ、七日ノ卯剋計ニ、一谷ノ
西ノ木戸口ヘ寄テミレバ、城郭ノ構様、誠ニオビタヽシ。陸ニハ山ノ麓マ
デ大木ヲ切伏テ、其影ニ数万騎ノ勢並居タリ。渚ニハ山ノ麓ヨリ海ノ
遠浅マデ大石ヲタヽミテ、乱杭ヲ打。大船数ヲ不知立置タリ。其影ニ
Ｐ３１１０（五五ウ）
数万疋ノ馬共十重廿重ニ引立タリ。其後ニハ赤旗数ヲ不知立並テ、矢
倉ノ下ニモ雲霞ノ兵ノ並居タリ。海ニハ数千艘ノ儲船ウチタリケレ
バ、輙ク破ベシトモ不見一ケリ。熊谷次郎直実、褐衣鎧直垂ニ紺
村濃ノ鎧ニ紅ノホロカケテ、権太栗毛ト云馬ニ黒鞍置テゾ乗
タリケル。大中黒ノ矢ノ二十四指タル頭高ニ負ナシ、二所藤ノ弓ノ極テ
ニギリ太ニテ、ツヨゲナルヲゾ持タリケル。子息小二郎直実ハ、ヲモダカヲ
所々ニスリタル直垂ニ、フシナハメノ鎧ニ、ソレモ紅ノホロカケテ、妻黒ノ
矢頭高ニ負成テ、滋藤ノ弓ヲ以テ、鹿毛ナル馬ニ黒鞍置テゾ
乗リタリケル。旗指ハ、秋野摺タル直垂ニ洗川ノ鎧ニ三枚甲ヲキ
テ、黒鴾毛ナル馬ノ、名ヲバ白浪ト云逸物ニゾ乗タリケル。此馬ハ、陸奥
Ｐ３１１１（五六オ）
栗原姉葉ト云所ニ白波ト云牧アリ、是ヨリ出来リケル上、尾ガミノ
白カリケレバ、白浪トゾ付タリケル。熊谷父子二騎木戸口近ク政
寄テ、「武蔵国住人熊谷次郎直実、嫡子直家生年十六歳。伝
テモ聞ラム者ヲ。我ト思ハム人々、楯ノ面ヘ係出ヨ」ト申テ、父子轡ヲ並テ馳廻リ
ケレドモ、出合者ナカリケリ。只遠矢ニ散々ニゾ射ケル。熊谷ガ馬ノ太腹ヲ
射サセテ〓落サレテ、シコロヲ傾、弓杖ヲツキ、城内ヲニラマヘテ、「去年ノ
冬相模国ヲ立シヨリ、命ヲバ兵衛佐殿ニ奉リ、名ヲバ後代ニ留ムベシ。平家ノ
侍ドモ落合ヤ／＼」ト、大音声ヲ放テ勇ミケレドモ、落合者ナカリ
ケリ。「室山水嶋二ヶ度ノ合戦ニ高名シタリト云ナル、二郎兵衛、悪
七兵衛、上総五郎兵衛ハナキカ。高名モ敵ニ依テコソスラメ。能登
Ｐ３１１２（五六ウ）
守殿ハオワセヌカ。アナ無慚ノ殿原ヤ。係出テクメヤ＜」ト云ケレドモ、係
出ル者ナカリケリ。良久待ドモ敵不落合一。木戸ノ上ノ高屋倉ヨリ
雨ノ如クニ射ケル矢ハ、甲ノシコロヲ傾テ、鎧ノ袖ヲ振合／＼ゾ射セケル。
熊谷、子息直家ニ云ケルハ、「敵寄レバトテサワグナ。鎧ノ射向ノ袖ヲ
甲ノマカウニアテヨ。アキマヲヽシメ。ユリ合＜シテ常ニ鎧ヅキセヨ。ハ
タラカデ立テ鎧ニ裏カヽスナ」トゾ云ケル。サルホドニ夜モホノ／＼”ト明ケレバ、
熊谷又申ケルハ、「平山ハ九郎御曹司ノ御共ニテ山ヲバヨモ落サジ。浜ノ
手ニコソ心ヲバ係ツレ。アワレ、今ハツヾクラム物ヲ」ト、父子云合テ立タリケル
処ニ、云モハテネバ、ハマノ方ヨリ平山ノ武者所、ハタ指相具テ二騎出来
タリ。平山ハ三重目結ノ直垂ニ、赤革威ノ冑ニ、三枚甲ニ薄紅ノホロカ
Ｐ３１１３（五七オ）
ケテ、目糟毛ト云馬ニゾ乗リタリケル。旗指ハ黒糸威ノ鎧ニ三枚甲ヲゾ
キタリケル。熊谷平山ヲミテ、「アレハ平山殿ノオワスルカ」ト問ケレバ、季
重ノ名乗テ木戸口ヘセメヨリケレバ、「サレバコソ」トゾ申ケル。平山申ケル
ハ、「季重モ今ハトウニヨスベカリツルヲ、成田五郎ニスカサレテ、今マデ和殿ニ
サガリタルゾ。成田ガ云ツルハ、『先ヲ係ルト云ハ、大勢ヲ後ニアテヽコソ係ル事
ナレ。只一騎係入タラバ、百ニ一命生タリトモ、誰ヲカ証人ニ立ベキ。後陣ノ
勢ヲ待』ト云時ニ、ゲニモト思テ、シバラク引ヘテ待所ニ、ヤガテ成田前ヲ
ノブル間、『コノ君ハ季重ヲ置ダスヤ。其義ナラバ馬ノ尻ニハツクマジキ
物ヲ。ワ君ガ馬ハヨワキ物』ト云テ、弓手ニスラセテ一鞭アテヽアユマセ
ツレバ、二三段計サガリツルトゾミツル。今十四五町バカリハサガリツラム。心ハ
Ｐ３１１４（五七ウ）
タケク思ドモ、馬弱テサキヲ係事ハ叶マジキ物ヲ。熊谷殿馬ト季重ガ
馬トハアワレ逸物ヤ」トゾ褒タリケル。カク云ホドニ城ニハ矢倉ヲ二重ニ
構テ、上ニハ平家ノ侍、下ニハ郎等、国々ノ兵並居、高キ岸ニソヘテ屋
形ヲ打テゾ、大将軍ハ被居タリケル。口一ヲ開タレバ、イヅクヨリ
可係入トモミヘザリケリ。其後城ノ内ヨリ、イザ終夜悪口シツル
熊谷生取リニセムトテ、越中二郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠
光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内兵衛
定綱以下、究竟ノハヤリヲノコノ若者共廿三騎、木戸口ノ逆木ヲ開テ、
轡ヲ並テヲメイテ係出タリ。越中二郎兵衛盛次、真先係テ
出キタリ。好ム装束ナレバ、紺村濃ノ直垂ニ黒糸威ノ鎧ニ白星ノ
Ｐ３１１５（五八オ）
甲ニ白葦毛ノ馬ニゾ乗タリケル。熊谷ニ押並テ組ムズルヤウニハシケレ
ドモ、熊谷スコシモ退ズ、父子アヒモスカサズ立タリケリ。越中次郎
兵衛一段計ヘダテヽ、「ワ君ニ相テ命ヲバ捨マジキゾ。大将軍ニコソ組ムズレ」
ト云ケレバ、「キタナシヤ＜、組ヤ＜」トゾ申ケル。越中次郎兵衛ガ引ヘタル、ヲ
ソシトヤ思ケム、悪七兵衛景清、二郎兵衛ヲメテニナシテ係ケルヲ、
「ヤ殿、七郎兵衛殿。君ノ御大事、是ニ限ルマジ。アレホドノ不敵ガタイニア
ウテ、命失テ詮ナシヤ、殿」ト云ケレバ、制セラレテ悪七兵衛モ係ザリケリ。
廿三騎ノ者共モ熊谷父子モ係ザリケリ。互ニ詞戦計也。平山ヲバ
其時マデハ誰トモ不知一、熊谷ガ郎等、乗替カト平家ノ方ニハ思テ、目係ル
者モ無リケリ。木戸口ヲ開タリケルヲ悦テ、「遠キ人ハ音ニモ聞ラム、近ハ目ニモ
Ｐ３１１６（五八ウ）
ミヨ。武蔵国住人西党ノ中二平山武者所季重、今日ノ軍ノマ（ッ）先也」
ト名乗テ、城ノ中ヘ係入ヌ。是ヲ見テ城内ノ雲霞ノ勢サワギアヘリ。
高矢倉ヨリ、「其男ニクメヤ＜。引落セヤ」ト口々ニ〓ケレドモ、平山ガ
乗タル馬ハ究竟ノ馬也、城中ノ者共ノ乗タル、船ニタテ磯ニタテタル
馬ナレバ、ヤセツカレテ、一アテアテタラバタウレヌベケレバ、近付カザリ
ケリ。二十三騎ノ者共ハ熊谷ヲ打ステヽ、平山ガ後ヘゾセメテカヽリ
ケル。平山幡指ヲ被射取一テ、其敵ヲバ平山討テケリ。其頸
取テ取付ニツク。熊谷父子ハ廿三騎ガ後ニツヾイテ係入ヌ。廿三
騎者共ハ平山ヲモ取コメズ、熊谷ガ後ニアルヲイブセサニ、城中ヘ係入リテ、
熊谷、平山ヲトザマニ成シテゾ戦ケル。熊谷子息小次郎直家生年
Ｐ３１１７（五九オ）
十六歳、軍ハ今日ゾ始ナルトテ、楯ノ際ニ攻寄テ戦ケルガ、小ヒヂヲ
イサセテ引退ク。平山ハ旗指射殺レタリケレドモ、木戸口ヲ開タレバ、平
山ハ先ニ係入ヌ。サテコソ平山一陣、熊谷二陣ニ被成ニケレ。熊谷平
山一陣二陣ノ諍トハコヽナリケリ。サルホドニ西ノ渚ヨリ成田五郎卅
騎計ニテ馳来ル。其ニ打ツヾキ又五六十騎出来。熊谷是ヲミテ、
「誰人ニテオワスルゾ」ト問ケレバ、「信乃国村上次郎判官代基国」ト名乗テ、
ヲメイテカク。是ヲ始トシテ、秩父、足利、武〔田〕、吉田、三浦、鎌倉、小沢、
横山、児玉、猪俣、野与、山口ノ党ノ者共、我ヲトラジト係入テ、源平
両家、白ハタ赤ハタ相交リタルコソ面白ケレ。龍田山ノ秋暮、タナ
ビク雲ニ不異一。互ニ乱合テヲメキ叫ブ音、山ヲヒヾカシ、馬ノハセチガフ
Ｐ３１１８（五九ウ）
ヲト如雷一ノ。組テ落者モアリ、落重ル者モアリ。源氏モ平氏モイヅレコ
ソヒマ有トモミヘザリケレ。熊谷、平山、「馬ノ足ヲモヤスメ、我身ノ息ヲモ
ツガム」トテ引退クヲリハ、ホロヲカナグリヲトシ、我身ノ息ヲツイデケレ
バ、又ホロヲカケテヲメイテ係入ル。コヽニテ平家ノ軍兵残少ク被打ニ
ケリ。一谷ノ北ノ小竹原ノ緑ノ葉モナク、アケニゾ成ニケル。草木モ又人
馬ノ肉トゾミヘシ。源氏ノ搦手一万余騎ナリケルガ、七千余騎ハ九郎
義経ニ付テ三草山ニ向ヌ、三千余騎ハ幡摩路ノ渚ニソウテ一谷ヘゾ
寄タリケル。平家ハ摂津国生田森ヲ一ノ木戸口トシテ、堀ヲホリ、
逆木ヲ引、東ニハ堀ニ橋ヲ引渡シテ、口一ツアケタリ。北ノ山ヨリ際マ
デハ桓楯ヲカイテ、矢間ヲアケテ待係タリ。浜手ヨリハ、蒲冠者
Ｐ３１１９（六〇オ）
範頼大将軍トシテ三千余騎ニテ押寄タリ。御曹司申サレケ
ルハ、「大勢ヲ待付テ軍ハセヨ。小勢ニテ先ニスヽムデ不覚スナ」ト宣ヘバ、梶
原承テ、「若党共イタクスヽムナ。『大勢待付テ軍ハセヨ』ト御定ナリ」ト
申ケレバ、梶原子息平次景高、手縄ヲ引ヘテ父景時ニ申ケルハ、
「ムカシヨリトリツタヘタルアヅサユミヒカデハ人ノカヘルモノカハ
ト申サセ給ヘ」ト云テ、マ（ッ）先ニスヽミケリ。白旗其数ヲ不知一指上タリ。白
鷺ノ羽ヲ並タルガ如シ。我モ＜ト先陣ヲ心ザス兵多ク有ケル中ニ、武蔵
国住人和私ニ河原太郎高直、同次郎盛直兄弟二騎馳来テ、
馬ヨリ飛下テ、生田杜ノ城戸口ヘ攻寄テ、ツラヌキヲハキテ、逆木ヲ
上リコヘテ城中ヘ入ケルヲ、城中ヨリ備中国住人、真鍋ノ四郎五郎トテ
Ｐ３１２０（六〇ウ）
兄弟有ケルガ、四郎ハ一谷ニ被置タリ、五郎助光ハ究竟ノ弓ノ上手、
精兵ノ手聞ナリケルヲ、木戸口ニエラビ被置タリケルガ、川原太郎ガ
逆木上リコエケルヲ見テ、サシアラワレテヨク引テ射タリケレバ、弓手ノ
草摺ノハヅレヲ射サセテ、ヒザスクミテ、弓杖ニカヽリテ立タリケルヲ、弟ノ
河原次郎見テ、ツトヨリテ兄ヲ肩ニヒキ係テ返ル所ヲ、助光又ヨク
ヒイテ二ノ矢ヲ射タリケルニ、次郎ガメテノヒザフシヲ射セテ、兄ト一枕
倒ニケリ。真鍋ガ下人落合テ、取テ押テ河原兄弟二人ガ頸ヲ
取テ入ニケリ。梶原平三是ヲミテ、「口惜キ殿原カナ。ツヾイテ入ネバコソ
川原兄弟ヲバ打セツレ。アタラ者ヲ」ト云テ、五百余騎ニテ押寄テ
ヲメイテ係入ケレバ、新中納言父子、本三位中将重衡、二千余騎ニテ
Ｐ３１２１（六一オ）
梶原ヲ中ニ取コメテ戦ケレドモ、一時計戦ケルニ、チトモシラケザリケルガ、
サスガ無勢ナリケレバ、梶原係タテラレテ引退ケルガ、郎等共ニ「源太ガ
ミヘヌハ何ニ」ト問へバ、「源太殿ハ大勢ノ中ニ取コメラレテ戦給ヒツレバ、被打テ
モヤオワシマスラム」ト申ケレバ、梶原聞モアヘズ、「穴心憂ヤ。源太打セテ
景時一如生残タラバ、何事カアルべキ」ト云テ、取テ返シテ、「相模国住人、鎌
倉権五郎景政ガ末葉、梶原平三景時、一人当千ノ者ゾヤ。誰カ
面ヲ向ベキ」ト云テ、ヲメイテ係入タリケレバ、名乗ニヲソレテ、城中者共
サツト引テノキニケリ。源太未打一シテ、敵三騎ガ中ニ取籠ラレテ、大童
ニナリテ、イワカゲニ後ヲアテヽマクラニ、今ヲ限ニ戦ウ。梶原係入テ、「景時
コヽニ有」ト云テ、源太ヲ後ニシテ、我身ハ矢面ニフサガリテ、散々ニ射ハラヒテ、
Ｐ３１２２（六一ウ）
源太ニ息ツガセテ、「イザウレ源太」トテ、係破テ出ニケリ。源太景時ガ一
谷ノ二度ノ係トハ是也。梶原源太景季、係ル時ハハタヲサヽゲホロヲカケ、
引時ハ、イツノホドニマクラム、ハタヲマキホロヲヌイテ、度々入替＜戦
ケリ。武芸ノ道ニモユヽシキ者ナリケル中ニ、ヤサシキ事ハ、片岡ノ桜ノイ
マダ青葉ナルヲ一枝折テ、エビラニ差具テ、敵ノ中ニテシバシ戦テ
引ケレバ、桜ガ風ニフカレテサトチリニケリ。敵モ御方モ是ヲ感ジケル所ニ、
城中ヨリ齢三十計ナル男ノ、褐衣ノ直垂ニ洗皮ノ鎧キテ、馬ニハノラデ、
弓脇ニハサミテスヽミイデヽ申ケルハ、「本三位中将殿ノ御使ニテ候。桜
カザヽセ給テ候ニ、申セトテ候。
コチナクモミユルモノカハサクラガリ」
Ｐ３１２３（六二オ）
ト申ハテネバ、源太馬ヨリ飛下テ、「暫ク御返事申候ワム」トテ、
イケドリトラムタメトヲモヘバトゾ申タリケル。
九郎義経ハ、一谷ノ上、鉢伏、蟻ノ戸ト云所ヘ打上テ見ケレバ、軍ハ盛ト見タリ。
下ヲ見下セバ、或ハ十丈計ノ谷モアリ、或ハ二十丈計ノ巌モアリ、人モ馬モスコシ
モ通ベキ様ナシ。コヽニ別府小太郎スヽミイデヽ申ケルハ、「先度田代殿
御一見ノ如ニ、老馬ガ道ヲ可知ニテ候。其故イカニト申候ニ、伊与殿、八
幡殿、奥ノ十三年ノ合戦ノ時、出羽ノ金沢ノ城ニテ七騎ニ打成レ、スデニ御
自害候べカリケルニ、駿川国ノ住人大相大夫光任、老タリケル馬ヲ鉢
伏ノタウゲカラ下ス。此馬二十余丈ノ滝ヲ落テ、迎ノ尾ヘ付ク。其時七騎
ツヾイテカケヲ下リ、其後ニ五万余騎ニ成テ、貞任等ヲ御追発ノ候ケル
Ｐ３１２４（六二ウ）
トコソ承候ヘ。カヽル御計ヤ有ベク候ラム」ト申タリケレバ、「尤トモ可然」トテ
老馬ヲ御尋アリケルニ、武蔵房弁慶相構タルコトナレバ、二疋ノ
馬ヲ奉ル。一疋ハ葦毛、一疋ハ鹿毛ナリ。鹿毛ハ奥国ノ住人岡八郎ガ
進タレバ、岡ノ嶋ト申。是ハ三十一歳ニナリニケル馬ナリ。イカケヂノクラニ、
キニカヘシタル轡ヲハゲタリ。コレハ平家ノカサジルシナリ。葦毛ハ石橋ノ合戦ニ被打一シ、
岡前ノ悪四郎能実ガ子ニ、サナダノ与一能定ガ乗タル馬也。ヨニ
入テイサメバ、ユフガホト名付ク。是ハ二十八歳也。白鞍置テカヾミ轡ヲ
ハゲタリ。此ハ源氏ノカサジルシナリ。二疋ヲ源平両家ノカサジルシトテ鵯越ヨリ落ス。
此馬岩ヲ伝テ落ケルニ、坂ノ中ニヲシカノ三臥タリケルガ、馬ニ驚テサキ
ニ落シテ行。馬モ鹿モ共ニ落シテ行。夜半ニ上ノ山ヨリ岩ヲクヅシテ
Ｐ３１２５（六三オ）
テ落シケリ。平家、「スワヤ敵寄ハ」トテ、各馬ニ乗、甲ノヲヽシメテ、矢ハズヲ取テ
相待処ニ、敵ニハアラデ、大鹿三、平大納言ノヤカタノ前ヘ落タリ。平家ノ人々
申ケルハ、「里ニ有ラム鹿モ人ニヲハレテ山深コソ可入一ニ、此鹿ノ是ヘ落タルコソ
アヤシケレ。敵軍野ニ臥ス時ハ、飛鳥行ヲ乱ト云事ノ有物ヲ。アワレ上ノ
山ヨリ敵寄ニコソ」トテ、アワテサワギケル処ニ、伊与国住人武智武者
所清章ト云者、二ヲバ射テ取テケリ。今一ヲバ逃シテケリ。此鹿海ヲ指テ落ケルヲ、
女方達ノ召タル船バタヲタヽイテケレバ、本ノ山ヘカヘル。マレイノ三郎トヾメテ
ケリ。「心ナラヌカリシタリ」トテ咲フ所ニ、ツヾキテ馬二疋ゾ落ニケル。カゲハ
ナニトカシタリケム、死テ落タリ。葦毛ハ尻足ヲシキ、前足ヲノべテ、
岩ニ伝テ落ケルホドニ、事故ナク城ノ内ヘ落立テ、御方ニ向テ、タカラ
Ｐ３１２６（六三ウ）
カニ二音三音ゾイナヽキケル。源氏ノ兵ノ其時色ナヲリテ、人々我先ニ落ムト
スル処ニ、三浦ノ一門ニ佐原十郎義連スヽミイデヽ申ケルハ、「人モ乗ヌ馬ダニモ
落シ候。義連落シテ見参ニ入ラム」トテ、威シマゼノ鎧ニ、栗毛ノ馬ニ乗テ、幡
一流指上テ、マ（ッ）逆ニ落ス。五丈計ゾ落タリケル。底ヲミタレバ猶五丈計ゾ有ケル。
御方ヘ向テ申ケルハ、「是ヨリ下ヘハイカニ思トモ叶マジ。思止給ヘ」ト申ス。「三草
ヨリ是マデハル＜”ト下タレバ、打上ムトストモカナウマジ。下ヘ落シテモ死ムズ。トテ
モ死バ敵ノ陣ノ前ニテコソ死メ」トテ、手縄ヲクレ、マ（ッ）逆ニ落サレケリ。畠山申
サレケルハ、「我レガ秩父ニテ、鳥ヲモ一羽、キツネヲモ一立タル時ハ、カホドノ巌石ヲバ馬
場トコソ思候ヘ。必ズ馬ニマカスベキニ非」トテ、馬ノ左右ノ前足ヲミシト取テ引立テ、
鎧ノ上ニカキ負テ、カチニテマ（ッ）前ニ事故ナクコソ落サレケレ。是ニツヾキテ佐原
Ｐ３１２７（六四オ）
十郎義連、「実ニ三浦ニテ朝夕狩スルニ、是ヨリ嶮シキ所ヲモ落セバコソ落スラメ。イ
ザヤ若党」トテ、一門引具テ、和田小太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗実、
同四郎義胤、葦名太郎清際、多々良五郎義治、郎等ニハ物部橘六、ア
マ太郎、三浦藤平、佐野平太、是等ヲ始トシテ、義経前後左右ニ立並テ、
手縄カヒクリ鎧フミハリ目ヲフサギテ、馬ニ任テ落シケレバ、義経、「ヨカメルハ。
落セヤ、若党」トテ、先ニ落シケレバ、落トヾコホリタル七千余騎モ我ヲトラ
ジト皆ヲトス。畠山ハ赤威ノ鎧ニウスべヲノ矢ヲイテ、黒馬ノ三日月ト付タリケリ。
一騎モ損ゼズ城ノ仮屋ノ前ニゾ落付タル。落ハツレバ白旗卅流サトサヽセテ、平
家ノ数万騎ノ中ヘ乱入テ、時ヲド（ッ）ヽ作タリケレバ、我方モ皆敵ニミヘケレバ、肝心モ身ニ
ソハズ、アワテ迷事ナノメナラズ。馬ヨリ引落シ射（落）サネドモ落フタメキ、上ニナリ
Ｐ３１２８（六四ウ）
下ニナリシケルホドニ、城ノ後ノ仮屋ニ火ヲ係タリケレバ、西ノ風ハゲシク吹テ、猛火城ノ
上ヘ吹覆ケル上ハ、煙ニムセビテ目モミヘズ。取物モ取アヘズ、只海ヘノミゾ馳入
ケル。助ケ船アマタ有ケレドモ、船ニツクハ少ク、海ニ沈ムハ多リケリ。所々ニテ高
名セラレタリシ能登守、イカヾ思ワレケム、平三武者ガ薄雲ト云馬ニ乗テ
陬磨ノ関ヘ落給テ、ソレヨリ船ニテ淡路ノ岩屋ヘゾ落給ニケル。
廿一〔越中前司盛俊被討事〕 越中前司盛俊ハ、トテモノガルべキ道ナラネバトテ、一引モ引カデ残リ留テ戦
ケリ。盛俊、猪俣近平六則綱ト寄合テ組テ、馬ヨリ落ニケリ。盛俊ハ聞タル
大力ノ甲者ナリケリ。人ニハ三十人ガ力持タリトハ聞ヘタリケレドモ、内々ハ七十人
シテヲロシケル大船ヲ、一人シテヤス＜トアゲツヲロシツシケリ。小平六モ鹿ノ
角ノ一草カリヲモギナムドスル者ニテアリケレバ、普通ニハ強リケレドモ、下押ツメラ
Ｐ３１２９（六五オ）
レテ、盛俊ガ片ワキニハサミテスコシモハタラカサズ。鎧武者ノ大男ノ、シカモ大力ナルガ、
取テヲサヘタリケレバ、刀ヲ抜ニモ不及一、スデニ頸ヲカヽムトシケルニ、甲ノ者シルシニハ
平六ガ申ケルハ、「ヤ殿、和殿ハタソ。敵ヲ打法ニハ、交名慥ニ各乗セテ打タレバコソ
勲功ニモ預レ。名乗ラヌ首ヲバイクラ取タリトモ、物ノ用ニ立マジキ物ヲ。我
名乗ツルヲバ聞給ツルカ」ト問ケレバ、「ヨクモ不知一」ト答。「サラバ名乗テ聞セ奉
ラム」ト云。「我ハ武蔵国住人猪俣近平六則綱トテ、名誉ノ者ニテ、兵衛佐
殿マデモ知リ給タルゾ。和殿ノ軍ハ落軍ニナレバ、平家ノ打勝給ワム事
有難シ。サレバ則綱ヲ打テ何ガハシ給ベキ。主ノ世ニオワセバコソ勧賞勲功
ニモ預ラメ。殿原ハ落人ゾ。則綱ヲ命ヲ生給タラバ、兵衛佐殿ニ申、和
殿ノ親キ人共ノ有ムカギリハ、何十人モアレ、助ケ申サムズルハイカニ。和殿ハ
Ｐ３１３０（六五ウ）
誰ト云人ゾ」。「コレハ平家ノ侍、越中前司盛俊トテ、昔ハ平家ノ一門ニテ有シガ、近比
ヨリ侍ニ成タル也」。「サテハ和殿ハ聞ユル人ゴサムナレ」ト云ケレバ、「サゾカシ。盛俊ハ
子共アマタアリ。女子男子ノ間ニ廿余人候。サラバ助給ヨ。一定カ」ト云ヘバ、
「子細ニ及バズ。争デカ我ヲ助タラム人ヲバ助申ザルベキ。八幡大菩薩ノ罰当リ候ワム。
争カ空事申ベキ」ト云ケレバ、ウレシサノ余ニ、「サラバ助ム」トテ、頸ヲカクニ不及一、
抜タル刀ヲ指テ、ヲキナヲリテ、前ハ深田、後ハ水タマリタリケル中ニ塚ノ
有ケルニ、盛俊ハ鎧ノタカヒボ解テ、二人ノ者共尻打カケテ、イキツギ居
タリ。サルホドニ猪俣党ニ人見四郎ト云者、黒糸威ノ鎧ニ川原毛ナル
馬ニ乗テ、浜ノ方ヨリ出来ル。盛俊、近平六ニハ目モカケデ、人見ノ四郎ニ目カケ
テ、「爰ニ来ル武者ハ何者ゾ」ト云テ、アヤシゲニ思タリ。近平六スコシモサワガズ、
Ｐ３１３１（六六オ）
「アレハ則綱ガ母方ノ従父兄弟、人見四郎ト云者也。オボツカナク思給ベカラ
ズ」ト云ケレドモ、猶人見四郎ニ目ヲカケテ、猪俣ニハ打トケテ後ヲサシマカセ
テ居タリ。則綱、「人見四郎ヲ待付テ討タラバ、『二人シテコソ討タレ』トイワム
ズ」ト思テ、人見四郎ガ近付ヌ先ニ、則綱ガ足ヲツヨクフミテ、諸手以テ盛俊ヲ
後ヨリ前ヘツヨクツキタリケレバ、盛俊マ（ッ）逆ニ深田ノ水ノ底ニ肩マデツキヒテ
タリ。足ハ上ニアリ、ヲキム／＼トシケルヲ、則綱ヒタノリニ乗カヽリテ、取テ押ヘテ
ヲコシモタテヾ、腰刀ヲ抜テ、ツカモコブシモ通レトツヨク指テ、ヤガテ頸ヲカヒ切テ、
大刀ノサキニ指貫テ高ク指テ、「聞ユル平家ノ侍、越中前司盛俊ガ頸ゾヤ。
正ク則綱討タリ。後ノ証人ニ立給ヘヤ、殿原」トゾ申ケル。彼刀ハ、薩摩国世
代ノ住人、浪ノ平五ガ打タリケル、フタシトロト云刀ニ、ツカニハ桑ニ竹ヲ合タリケル
Ｐ３１３２（六六ウ）
刀トゾ聞ヘシ。カヽル処ニ人見ノ四郎馳来テ、此頸ヲバイトリテ、勧賞ニ行
ワレバヤト思ケレバ、此頸ヲバイケリ。則綱ハ一人ナリ、人見ハ多勢ナリ。無力
バワレケレバ、片耳ヲカキヽリテ取テケリ。頸ノ実検ノ所ニテ、人見四郎、「盛
俊ガ頸」トテ指出タリケレバ、則綱スヽミ出テ、「アノ頸ハ則綱ガ取テ候」ト申。
「人見ハ眼前ニ頸ヲ持タリ。則綱取タリト申事不審也。子細何ニ」ト御
尋アリ。則綱申ケルハ、「アノ頸ニハ左ノ耳ヨモ候ワジ。其故ハ、則綱ガ取テ候
シヲ、人見多勢ニテバイトリ候シ間、則綱ハ一人ニテ候、無力被取候シ
間、左ノ耳ヲ取テ以テ候」ト申テ、耳ヲ指出シテケリ。実ニ頸ニハ左耳ナ
カリケリ。則綱ガ指合テミレバ、同耳ニテ有ケリ。「サテ則綱取テケリ」トテ、
則綱ガ頸ニゾ定リケル。又猪俣党ニ藤田小三郎大夫深入シテ戦ケルガ、
Ｐ３１３３（六七オ）
姉ガ子ニテ武蔵国住人、江戸四郎ト云十七ニナル若者、藤田ヲ敵ト思テ、ヨク
引テ遠矢ニ射タリケレバ、母方ノ伯父ガ振仰ゲテ物見ムトスル頸ノ骨ヲゾ
射タリケル。射ラレテ馬ヨリ傾キケル所ヲ、阿波民部大夫成良ガ甥ニ、
桜葉外記大夫良遠ガ郎等、落合テ打テケリ。カヤウニ思々ニ戦ケルホ
ドニ、源氏ニ村上判官代基国、平家ノ仮屋ニ火ヲカケタリケレバ、西風ハゲシク
テ、黒煙東ヘ吹覆テ、東ノ大手、生田森固タル軍兵是ヲ見テ、今ハ何ニモ
叶マジキトテ、船ニ乗ムトテ汀ニ向テ落ケレドモ、余ニ多クコミ乗タリケレバ、
目ノ前ニ大船二艘ニヘ入タリ。「サテ可然人々ヲバノセ申ベシ。ツギ＜ノ人ヲバ乗
ベカラズ」トテ、船ニヨリツク者ヲバ大刀長刀ニテナギケレバ、手打キラルヽ者モ
アリ、膝打ナガルヽ者モ有。カクハセラレケレドモ、敵ニ合テ死ムトハセザリケリ。
Ｐ３１３４（六七ウ）
何ニモシテ船ニ乗ムトゾシケル。御方打ニゾ多フ打レニケル。先帝ヲ始進セテ、
女院、北政所、二位殿以下女房達、大臣殿、御子右衛門督、可然人々ハ
兼テ御船ニ召テ、海ニ浮ビ給ニケリ。
廿二〔薩摩守忠度被討給事〕 一谷ノミギワニ西ヘサシテ武者一騎落行ケリ。齢四十計ナル人ノヒゲ黒也。
黒皮威ノ鎧キテ、射残タリトオボシクテ、エビラニ大中黒ノ矢四五残
タリ。白葦毛ナル馬ニ遠雁シゲク打タル鞍置テ、小ブサノ鞦カケ
テゾ乗タリケル。葦屋ヲ指テ下ニ落ケルヲ、武蔵国住人、岡部六矢
田忠澄ト云者馳ツヾキテ、「コヽニ只一騎落行ハ誰人ゾ。敵カ、御方カ。名乗
給ヘ」ト云カケヽレバ、「御方ゾ」ト答タリ。忠澄馳並テ、サシウツブヒテ内甲ヲ
ミケレバ、ウスガネ付タリ。「源氏ノ大将軍ニハカネ付タル人ハオワセヌ者ヲ。キタ
Ｐ３１３５（六八オ）
ナクモ敵ニ後ヲバミセ給物カナ」ト云ケレバ、其時忠度、「御方ト云ハヾ云セヨカシ」
トテ、六矢田ニ押並テ組テ、馬二疋ガ間ニ落ニケリ。忠度落サマニ三刀
マデ指タリケリ。一ノ刀ニハ手ガヰヲツキ、二ノ刀ニハクケヰヲツキ、三ノ刀ニハ
甲ノ内ヘツキ入タリケレバ、ホウヲツキツラヌヰテ、六矢田ガ後ヘ刀三寸計ゾ出
タリケル。六矢田ガ郎等落合テ、打刀ヲ以テ忠度ノ弓手ノ小ガヒナヲカケズ切
ヲトス。サレドモ忠度スコシモヒルマズ、メテノカヒナニテ六矢田ヲノセテ、三イ
ロバカリ被投一タリ。忠澄ヲキアガリテ、忠度ニ組。ウヘニ乗ヰテ取テ押テ、
「誰人ゾ。名乗給ベシ」ト、「己レニ合テ一度モ名乗ルマジキゾ。己ガ見知ラヌコソ人ナラネ。
サリナガラモヨキ敵ゾ。定勧賞ニ預ラムズラムゾ」ト云ケレバ、六矢田ガ郎等落
重テ、忠度ノ鎧ノクサズリヲ引上テ是ヲサス。忠澄刀ヲ抜テ指カトミヘケレバ、
Ｐ３１３６（六八ウ）
頸ハ前ニゾ落ニケル。忠澄頸ヲ大刀ノサキニ指貫テ、「『名乗レ』トイヘドモ名乗
ラズ。是ハタガ頸ゾ」ト云テ、人ニミスレバ、「アレコソ太政入道ノ末弟、薩摩守
忠度ト云シ歌人ノ御首ヨ」ト云ケルニコソ、始テサトモ知タリケレ。忠澄、兵
衛佐殿ニ見参ニ入テ、勲功ニ薩摩守ノ年来知行ノ所五ヶ所アリ
ケルヲ、忠澄ニ給テケリ。橘馬允公長ガ弟橘五、備前四郎、妹尾余三
三騎ツレテ、赤ジルシカナグリステヽ、西ヲ指テ落行。讃岐三郎、大田
四郎、ナワノ太郎追カヽリテ、我劣ジト面々ニ引組テ、馬ヨリドウド落テ、
上ニナリ下ニナル。大田四郎ガ郎等、左前ト云者追ツキテ、妹尾余三ヲバ討テ
ケリ、左前三郎ガ郎等十七騎ツレテ備前四郎ヲバ討ケリ。ナワノ太
郎ハ橘五ニ組テ有ケルヲ、大田四郎引返シテ、ナワヲ上ニ成シテ、橘五ヲバ
Ｐ３１３７（六九オ）
サヽセテ後ニ頸ヲ切ニ、水モサワラズ切レニケリ。此間ニ山鹿ノ兵藤三ガ落ケルヲ、土肥
二郎ガ郎等ツヾイテ追テカヽル。兵藤三取テ返テ、敵二騎打取テ、五騎ニ手
負セテ打死ニスル。彼郎等五騎ヲバ大川小太郎広行、胤ノ太郎二人シテ
射落シテ、頸ヲ取。武蔵房弁慶モ敵七騎打取テ、名ヲ後代ニ留ケリ。
廿三〔本三位中将被生取給事〕 本三位中将重衡ハ生田森ノ大将軍ニテオワシケルガ、国々ノ駈武者ナリ
ケレドモ、其勢三千余騎計モヤ有ケム、城中落ニケレバ、皆係ヘダテラ
レテ四方ヘ落失ヌ。少シ恥ヲモ知、名ヲモ惜程ノ者ハ皆被討ニケリ。走付ノ
奴原ハ或ハ海ヘ入、或ハ山ニ籠。其モ生ハ少シ、死ルハ多ゾ有ケル。中将其日ハ褐衣ノ
直垂ニ、白糸ニテ村千鳥ヲヌイタルニ、紫スソゴノ鎧ニ、童子鹿毛トテ、兄ノ
大臣殿ヨリ得タリケル馬ニ被乗タリ。花ヤカニ優ニゾ被見ケル。中将
Ｐ３１３８（六九ウ）
若ノ事有バ乗替ニセムトテ、年来秘蔵シテ被持タリケル、夜目ナシツキ
ゲト云馬ニ、一所ニテ死ト契深カリケル、後藤兵衛尉盛長ト云侍ヲ乗セテ、
身ヲ放タズ近ク打セタリ。御方ニハヲシヘダテラレヌ、助船モコギ出ニケレバ、西ヲ
指テゾ歩セケル。経嶋ヲ打過テ湊川ヲ打渡リ、カルモ川、小馬林ヲ弓
手ニ見ナシ、蓮ノ池ヲバメテニナシテ、イタヤド、陬磨関ヲ打過テ、明石ノ浦ヲ
渚ニ付テ被落タリ。源氏軍兵乗替二騎相具テ、中将ニ目ヲ係テ追
カケタリ。中将ノ乗給ヘル童子鹿毛ハ早走ノ逸物ナリケレバ、但（ ）
馳延ラレケル間、景時今ハ叶ハジトヤ思ケム、若ヤ追サマニ遠矢ニ射係
タリケレバ、童子鹿毛ガ草頭ノ上ニ立ニケリ。馬ニハ矢立テ後ハ、鞭鐙ヲ
合給ヘドモハタラカズ。盛長是ヲ見テ思ケルハ、「我身重テ鎧ハキタリ。後ニ敵
Ｐ３１３９（七〇オ）
攻来。此馬被召ナバ叶マジ。甲斐ナキ命コソ大切ナレ」ト思テ、鎧ノ射向ノ袖ナル
赤ジルシカナグリステヽ、鞭ヲアゲテヒラムデ逃グ。中将是ヲ見給テ、「穴心ウヤ。
何ニ盛長ヨ、年来ハサヤハ契シ。我ヲバステヽ何クへ落ゾヤ。其馬参ヨヤ／＼」ト
音ヲ上テ宣ヘドモ、一目モ見返ラズ。「ヨシナシ＜」ト云テ、弥鞭ヲ上テ落ニケリ。
中将力不及シテ、海ヘ打入ラレタリケレドモ、馬弱リテハタラカネバ、馬ヨリ
飛下テ水際ニヲリ立テ、刀ヲ抜キ鎧ノ引合ヲシキリ、タカヒボハヅシ、小具足
チギリステヽ、鎧ヲヌギステラレケルハ、自害ヲセムトニヤ、海ヘ入ラムズルニヤト、
思煩ワレタル躰ニテ立レタリ。敵後ニセメカヽリケレバ自害スべキヒマモ
ナシ。ソコシモ遠浅ナリケレバ海ヘモ飛入給ワズ。サルホドニ景時ハセツヾキ
テ馬ヨリ飛下テ、乗替ニモタセタル小長刀ヲ取テ、十文字ニ持テ畏テ
Ｐ３１４０（七〇ウ）
申ケルハ、「景時コソ、君ノ渡セ給トミ進テ、御迎ニ参テ候ヘ。御乗替ノ逃候
ツルコソ無下ニ見苦覚候ヘ。イカニアレ躰ニ候侍ヲバ召仕セ給ケルヤラム」ト
申モハテズ、「トク／＼御馬ニ召候ヘ」トテ、我乗タル馬ニ取テ押乗奉テ、
縄ニテ鞍ノ前輪ニシメ付テ、我身ハ乗替ニ乗テ、先ニ立テゾマカリケル。サバ
カリノ大将軍ノ生取レニケルコソ口惜ケル。重衡、後宣ケルハ、「其時景時ニ詞ヲ
懸ラレタリシハ、縦バ三百ノ鉾ヲ以テ一時二胸ヲ指レケムモ、是ニハマサラジト
覚タリシ」トゾ宣ケル。盛長ハ息長キ逸物ニ乗タリケレバ、馳ノビテ命
計ハ生ニケリ。後ニハ熊野法師ニ尾中法橋ト申ケル僧ノ、後家ノ尼ガ後見シ
テゾ有ケル。彼尼訴詔有テ、後白川法皇ノ伝奏シ給ケル人ノ許参リタリ
ケルニ、盛長共シタリケリ。人是ヲ見テ申ケルハ、「三位中将ノサバカリ糸惜シ給
Ｐ３１４１（七一オ）
シニ、一所ニテ何ニモナラデ、サシモノ名人ニテ有シ者ノ、思カケヌ尼公ノ尻前ニ
立テ、ハレフルマヒスルコソ無慚ナレ」ト申テ、爪ハジキヲシテ目ヲ付テ見ケレバ、
盛長サスガ物ハユゲニ思テカクレケルゾ、アマリニニクカリケル。
廿四〔新中納言落給事付武蔵守被討給事〕 新中納言知盛卿ハ武蔵国ノ国司ニテオワシケレバ、小玉党見知タリケルニヤ、
武者一騎馳来り、「大将軍ニ申候。御後ヲ御覧候ヘ。今ハナニヲ御戦候ヤラム」
ト申タリケレバ、中納言後ヲ返見給ヘバ、黒煙吹覆タリ。「大手ハスデニ
破ニケリ」ト宣モアヘズ、我先ニト浜ヘ向テ馳給。船共ハ皆ヲキヘムケテコギ出ニ
ケリ。アキレテゾオワシケル。打輪ノ旗サヽセタリケルハ児玉党ニヤ有ケム、三騎
ヲメイテカヽルヲ、新中納言ノ侍ニ監物太郎頼賢トテ、究竟ノ弓ノ上手ニテ有
ケルガ、ヨクヒイテ射タリ。アヤマタズ旗指マ（ッ）逆ニ射落シテケリ。残二騎スコ
Ｐ３１４２（七一ウ）
シモシラマズ、ヲメイテカヽリケルヲ、中納言ノ御子武蔵守知章、中ニヘダヽリテ
組テ落ニケリ。取テヲサヘテ首ヲカキ給ケルヲ、敵ガ童落合テ武蔵守ヲバ指テ
ケリ。監物太郎落重テ、童ガ頸ヲバ取テケリ。頼賢モヒザノフシヲイサセテ、
腹カキヽリテウセニケリ。此間ニ中納言ハ延給ヌ。井上トテ究竟ノ馬ニ乗給
タリケレバ、海上二十余町ヲヲヨギテ船ニ付給ニケリ。船モ所無テ馬立
ベクモナカリケレバ、中納言セガヒニ乗移テ、馬ノ頸ヲイソヘ引向テ一鞭アテ
給タリケレバ、馬ヲヨギカヘルヲ見テ、「敵ノ物ニナシナムズ。射殺シ給ヘ」ト阿波
民部成良申ケレバ、「敵ノ物ニナルトモ我命ヲ被生タル馬ヲバ争可射殺」
トゾ宣ケル。馬ナギサニヲヨギ上テ、シヲ＜トシテ、畜生ナレドモ年来ノヨシ
ミ忘レガタクヤ思ケム、船ノ方ヲ見送テ三度マデイナヽキ、足ヲカキケルコソ
Ｐ３１４３（七二オ）
ムザムナレ。九郎義経此馬ヲ取テ院ヘ被参タリケレバ、名高キ馬ナリトテ、一御
厩ニ被立タリケリ。黒馬ノ太ク呈ニテゾ有ケル。中納言武蔵国務時、川
越ト云所ヨリ信乃ノ井上ノ小二郎ト云者ガ奉リタリケレバ、名ヲバ川越黒トモ付
ラレタリ。又井上トモ申ケリ。中納言此馬ヲ余ニ秘蔵シ給テ、馬ノ祈ニ小博
士ト陰陽師トニ、月ニ一度泰山府君ヲ祭セラレケリ。「其故ニヤ、今度ノ軍ニ
此馬ニ助ラレテ御命モ延給、馬ノ命モ生タリケル」トゾ人申ケル。
廿五〔敦盛被討給事付敦盛頸八嶋ヘ送事〕 赤地ノ錦ノ鎧直垂ニ、赤威ノ鎧ニ白星ノ甲着テ、重藤ノ弓ニ切府矢負テ、金作ノ
大刀ハイテ、サビツキゲノ馬ニ黄伏輪ノ鞍置テ、厚房ノ鞦懸テ乗タリケル
武者一人、中納言ニツヾイテ打入テヲヨガセタリ。一町計ヲヨガセテ、ウキヌシヅ
ミヌタヾヨイタリ。熊谷二郎直実、渚ニ打立テ此ヲミテ、「アレハ大将軍トコソ
Ｐ３１４４（七二ウ）
ミ進候ヘ。マサナウモ候御後スガタカナ。返合給ヤ」トヨバイケレバ、イカヾ思給ケム、
汀ヘムケテゾヲヨガセケル。馬ノ足立ホドニナリケレバ、弓矢ヲナゲステヽ、大刀ヲ
抜テ額ニアテヽ、ヲメイテハセアガリタリ。熊谷待ウケタル事ナレバ、上モタテ
ズ、馬ノ上ニテ引組テ、浪打ギハヘ落ニケリ。上ニナリ下ニナリ、三ハナレ四ハナレクミ
タリケレドモ、ツイニ熊谷上ニナリヌ。左右ノ膝ヲ以テ鎧ノ左右ノ袖ヲムズトヲサヘ
タリケレバ、少モハタラカズ。熊谷腰刀ヲヌイテ、内甲ヲカヽムトテミタレバ、十五六
計ナル若人ノ色白ミメウツクシクシテ、薄気装シテ、カネ黒也。鮮娟タル
両髪ハ秋ノ蝉ノ羽ヲ並ベ、〓転タル双峨ハ遠山ノ色ニマガヘリナムド云モ、カク
ヤト覚テ哀也。穴糸惜ヤト心弱ク覚テ、「抑君ハ誰人ノ御子ニテ渡セ給ゾ」ト
問ニ、只「トクキレ」ト答タリ。直実又申ケルハ、「君ヲ雑人ノ中ニ置進候ワム事ノ
Ｐ３１４５（七三オ）
イタワシサニ、御名ヲ備ニ承テ、必ズ御孝養申ベシ。其故ハ兵衛佐殿ノ仰ニ、『能敵
打テ進タラム者ニハ、千町ノ御恩有ベシ』ト候キ。彼所領即君ヨリ給タリト
存ジ候ベシ。是ハ武蔵国住人、熊谷二郎直実ト申者ニテ候」ト申ケレバ、「イツ
ノナジミ、イツノ対面トモナキニ、是程ニ思ラムコソ難有ケレ。又名乗テモ討レ
ナムズ、ナノラデモウタレムズ。トテモ討ベキ身ナレバ、又カヤウニ云モ疎ナラズ」ト思
ワレケレバ、「我ハ大政入道ノ弟、修理ノ大夫経盛ノ末子、大夫敦盛トテ生年十六歳ニ
ナルゾ。早切レ」トゾ宣ケル。熊谷弥哀ニ覚テ、「直実ガ子息小二郎直家モ十六ゾ
カシ。サテハ吾子ト同年ニテオワシケリ。カク命ヲステ軍ヲスルモ、直家ガ末ノ代ノ
事ヲ思ガ故也。我子ヲ思ヤウニコソ人ノ親モ思給ラメ。此殿一人打ズトモ、兵衛佐
殿勝給ベキ軍ニヨモ負給ワジ。打タリトテモ負給ベクハ、ソレニモヨルベカラズ」
Ｐ３１４６（七三ウ）
ナムド思煩ケルホドニ、前ニモ後ニモ組テ落ル者モアリ。頸ヲ取者モアリ。サルホドニ
土肥二郎実平三十騎計ニテ出来タリ。「土肥ガ見ルニ、此殿ヲ助タラバ、
熊谷手取ニシタル敵ヲユルシテケリト、兵衛佐殿ニ漏聞レ奉ラム事、口惜カル
ベシ」ト思ケレバ、「君ヲ只今助進テ候トモ、終ニノガレ給ベカラズ。御孝養ハ直実ヨク
仕候ベシ」トテ、目ヲ塞テ頸ヲカキテケリ。熊谷泣々此殿ヲ見レバ、漢竹ノ篳篥ノ
色ナツカシキヲ、紫檀ノ家ニ入テ、錦ノ袋ニ入ナガラ、鎧ノ引合ニ指レタリ。此篳篥ヲバ
月影トゾ付ラレタリケル。又少キ巻物ヲ差具タリ。是ヲ見レバ、「楊梅桃李ノ春ノ
朝ニモ成ヌレバ、ツマニ囀ル鶯ノ野辺ニナマメク忍音ヤ。野佳ノ霞アラワラレ
テ、ソトモノ桜イカ計リ重ネサクラムヤヘ桜、九夏三伏ノ夏ノ天ニ成ヌレバ、藤浪
イトフ郭公、代々ノ語ヒヲリヲヘテ、忍ル恋ノ心地コソスレ。黄菊芝蘭ノ秋ノクレ
Ｐ３１４７（七四オ）
ニモ成ヌレバ、壁ニスダクキリ＜”ス、尾ノ上ノ鹿、龍田ノ紅葉哀也。玄冬素雪ノ
冬ノ暮ニモ成ヌレバ、谷ノ小川ノ通路モ、皆白妙ニ見渡ル。名残惜カリシ故京ノ、
木々ノ見捨テ出シヤドナレバ、一谷ノ苔ト下ニ埋レム」トゾカヽレタル。「修理大夫経
盛ノ末子、大夫敦盛」トゾカヽレタル。直実余ニ哀ニ覚テ、敦盛ノ頸ヲ彼直垂ニ
ツヽミテ、篳－篥ト巻物トヲ取具テ、「御孝養候ベシ」トテ状ヲ書ソヘテ、屋
嶋ヘ奉送一。釣舟ノ有ケルニ、雑色一人、水手二人シテ奉ル。平家屋嶋ヘ付
給ケル十三日ノ酉剋計ニ追付、「御船ニ可申事候」ト申タリケレバ、平家ノ
舟ヨリ「何事ゾ」ト問。「源氏ノ御方ニ候給、熊谷ガ殿（ ）御使」ト申ス。是ヲ聞テ船
内サワギアヘリ。熊谷ガ使ノ舟モ平家ノ船ニ不近付一、四五段計ニユラヘタリ。
新中納言、家長ヲ召テ、「アレホドノ小舟ニ如何ナル樊会張良ガ乗タリ
Ｐ３１４８（七四ウ）
トモ何事カ可有。家長見テ参レ」ト宣ヘバ、家長、郎等二人ニ腹巻キセテ、吾
身ハ木蘭地ニ色々ノ糸ニテ、師子ニボウタムヌイタルヒタヽレニ、ワキニ小具足
計ニテ、ハシ舟ニ乗テコギ向タリ。子細ヲ問。「熊谷方ヨリ修理大夫殿ノ御方ヘ
御文候」ト申テ、立文ヲ持タリ。新中納言此文ヲ取テ、「熊谷ガ私文ノ候ナル」ト
テ、修理大夫殿ヘ奉ル。大夫殿此文ヲ見給ニ、御子ノ敦盛ノ御首ナリ。母北方
是ヲ見給テ、舟中ニ有トアル上下泣悲ム事、実ニト覚テ哀也。「熊谷ハヒタス
ラノ荒夷ニコソ有ラメト思程、情有テ、敦盛ガ首ヲ送タル心ノ中コソ哀ナレ」ト
テ、熊谷ガ状ヲ見給フニ、
「謹言、不慮ニ此君ニ奉（二）参会一シ之間、呉王公践得、遇（二）秦皇燕丹（一）ニ恚ヲ
插テ、直ニ欲（レ）スル決（二）ント勝負一ヲ之剋ミ、俄ニ亡（二）ジテ怨敵之思一ヲ、還テ投（二）グ武威之勇一ミヲ。
Ｐ３１４９（七五オ）
剰サヘ奉（レ）ル加（二）ヘ守護一ヲ之処ニ、大l勢襲ヒ来ル。于時一始テ源氏ヲ雖射一ト、彼ハ多勢
是レハ無勢ナリ也。樊会還テ養由ガ芸慎シム。爰ニ直実適マ受（二）テ生於弓馬之
家一ニ、幸ニ耀（二）シ武勇於日域一ニ、謀コトヲ廻（二）シ洛城一ニ、靡（レ）カシ旗一ヲ冤（レ）敵一ヲ事、天下無
双之雖レ得（二）リト名一ヲ、蚊蛇群ガ（ツ）テ雷ヲナシ、〓［足＋當］踉集テ如（レ）シ有（二）ルガ覆（レ）コト車ヲ事一。
〓引キ弓一ヲ放テ矢一ヲ、空シク命於東方之軍ニ奪ハレ、徒ラニ名ヲ西海ノ波ニ沈ムコト、
自他科家ノ面－目ニ非ズ。而間此ノ君ノ御素意ヲ奉（レ）仰之処ニ、給（二）テ御命於直
実一ニ、可（レ）奉（レ）訪（二）ヒ御菩提一ヲ之由、依（レ）テ被（二）仰下一サ、乍（レ）ガラ押（二）ヘ落涙一ヲ、不（レ）ルニ図給（二）リ御首一ヲ
畢。恨l哉、拙哉、此ノ君与（二）直美一、結（二）ビ奉ツル悪縁一ヲ事。歎哉、悲哉、宿運
深ク厚クシテ、為（二）ス怨敵ノ之害一ヲ。雖（レ）然翻シテ非（二）此ノ逆縁一。者、争デカ互ニ切（二）生死之
木縄一ヲ、成（二）ラム一ツ蓮ノ実一ト。然則偏ニ卜（二）メテ閑－居ノ地－形一ヲ、併ラ可（レ）シ奉（レ）祈（二）御菩提一ヲ。直
Ｐ３１５０（七五ウ）
実ガ所ノ申一真偽、後聞ニ無（二）其ノ隠一レ候歟。以（二）此趣一ヲ可（レ）有（二）洩シ御披露一
候。恐惶謹言。
二月八日 直実
進上 平内左衛門尉殿ヘ」トゾ書タリケル。
修理大夫殿返状云、
「敦盛并ニ遺物等給リ畢ヌ。此ノ事、出（二）デ、花洛之故郷一ヲ、自（レ）漂（二）シ西海ノ之浪ノ
上一ニ以l来タ、今更非（レ）可（二）ニ驚一ク。臨（二）シ戦場一ニ上ハ、何ゾ再ビ思（二）ワン返事一ヲ哉。盛者必衰ハ
無常之理リ、会者定離ハ、穢土之習ヒ、然ドモ成レ親ト成シ子一ト、先世之契リ
不浅一カラ。釈尊羅雲、受（二）ク楽天之裏一ヲ、非（二）一子ノ別一ニ。応身権化、猶ヲ
以テ如此一ノ。何ニ況凡夫ヲ乎。歎哉、恋哉。去ジ七日、自（二）打立シ朝（一）、至（二）マデ于今一ニ、其ノ面l
Ｐ３１５１（七六オ）
影未ダ離身一ヲ。燕メ来テ語ヘドモ、不（レ）聞（二）其ノ音一ヲ。帰雁ノ翅ヲ並テ空ニ音l信、其ノ面影ヲ
不見一。生死遙ニシテ迷（二）フ行方一ニ。今マ一度依（二）テ其ノ由緒ノ聞一マホシキニ、仰テ天一伏テ地一ニ、
心肝ヲ摧テ是ヲ祈－請シ奉ツル。偏ニ仰（二）テ神明之納受一ヲ、待（二）ツ仏陀ノ感応一ヲ之処ニ、
七日ノ内ニ是ヲ見ル。猶ヲ非ズ与（二）ル仏天一ノ処一ニ乎。然則内ニハ信力催シ心一ヲ、外ニハ感涙洗
袖一ヲ。仍テ生レ来レルニ不（レ）劣ラ、蘇－活ニ是レ同ジ。抑モ非（二）貴辺ノ芳恩一ニ者、如何得（二）ム是ヲ相見ル
事一ヲ。一門ノ風塵皆l以テ捨ツ是一ヲ。況ヤ於（二）テヲ怨敵一ニ哉。訪（二）ヒ和漢之両国一ヲ、顧（二）ニ古
今代々一ヲ、未（レ）ダ聞（二）其ノ例一ヲ。恩深高ニシテ須弥頗ル下シ、蒼海還テ浅シ。進テ欲（レ）レバ酬一イント、過
去遠々タリ、退テ欲（レ）レバ報一ムト、未来漸々者歟。雖（レ）多（二）シト万端一、難（レ）尽（二）シ筆紙一ニ。謹言。
二月十四日 左衛門尉平奉 家長
熊谷二郎殿ノ御返事」トゾカヽレタリケル。是ヨリシテゾ熊谷ハ発心ノ心ヲバ
Ｐ３１５２（七六ウ）
オコシケル。法然上人ニ相奉テ出家シテ、法名蓮性トゾ申ケル。高野ノ蓮花
谷ニ住シテ、敦盛ノ後世ヲゾ訪ケル。難カリ有ケル善知識カナトゾ人申ケル。
廿六〔備中守沈海給事〕 小松殿ノ末御子、備中守師盛ハ、小船ニ乗テナギサニソイテ、助船ト志テ落
給ケルニ、薩摩守ノ郎等ニ豊嶋九郎真治トテ、究竟ノ甲者、大力ニテ有
ケルガ、岸ノ上ニ立テ、「アレハ備中守殿ノ渡セ給候ト見進候ハ、僻事ニテ候カ。
是ハ薩摩守殿ノ御内ニ豊嶋九郎ト申者ニテ候。守殿ニハ後レ進セ候ヌ。
助サセ給候ヘ」ト申タリケレバ、「年来ホシト思ワレケル真治也。此船ヨセテ
アレ乗ヨ」ト宣ヘバ、「御舟ハ少候。イカニシテカ乗セ候ベキ」ト侍共申ケルヲ、「只
乗セヨヤ＜」ト宣ケレバ、力及バデヨセテケリ。真治大ノ男ノ鎧キテ、高
岸ヨリ怱ギ飛乗リケレバ、舟バタニ飛カヽリテ踏傾ケテ、乗直サム／＼
Ｐ３１５３（七七オ）
トシケルホドニ、踏返シテ、一人モ残ラズ皆海ヘ入ニケリ。是ヲミテ川越小太郎
重頼ガ郎等、十郎大夫八騎馳来テ、熊手ニ係テ是等ヲ取上テ頸ヲ
切ル。〓刀持タル男ノ、師盛ノ頸ヲ切ラムトテ、ヨ（ッ）テ申ケルハ、「カネ付サセ給
テ候ハ、平家ノ一門ニテオワシマシ候ゴサムメレ。名乗セ給へ」。師盛宣ケルハ、
「己ニ逢テ名乗ルマジキゾ。後ニ人ニ問ヘ」トテ名乗給ワズ。長刀ニテ頸ヲ切ニ、
悪ク打テヲトガヒヲドウニ付タリ。頚ヲ取テ人ニミスルニ、「小松殿ノ末ノ御子、
備中守師盛」ト申ケレバ、「吉人ニコソ」トテ、又立還テヲトガヒヲ取テ、頸ニツケテ
ゾ渡シケル。勲功ニ師盛ノ知行ノ跡、備中国ヲゾ給テケル。
廿七〔越前三位通盛被討給事〕 門脇中納言教盛ノ嫡子、越前三位通盛ハ、一谷被破ニケレバ、礒ヘ打出給
タリケレドモ、船ナカリケレバ、只一騎渚ニソイテ、東ヘ向テ歩給フ。湊河ノ下ニテ
Ｐ３１５４（七七ウ）
近江国住人佐々木源三盛綱七騎追テカヽル。三位取テ返シテ、主人ト覚シキ
者ニ目カケテ馳向ケルヲ、佐々木ガ郎等、三位ノ甲ニ熊手ヲ投懸テ、「エイ」ト云
テ引ヘタリ。三位ノ甲切ニケリ。押並テ引組テドウド落ツ。上ニ成リ下ニ成リ
一時計取コロビケルヲ、佐々木ガ郎等落重リタリケレドモ、凡ソ輪宝ナムド
ノ如ニテ、将基倒ヲスル様ニマロビケレバ、アタリ近ク人ヨラズ。盛綱下ニナル。三
位刀ヲ抜テ佐々木ガ頸ヲサヽレケレドモ切レズ。佐々木ガ郎等、三位ノ鎧ノ引合
ヨリ大刀ヲ左右ヘ指チガヘテ、ウツヲニクリナシテケレバ、三位ヨハリ給タリ
ケルヲ頸ヲ取ル。佐々木ガ頸ハナカラ計ゾ切タリケル。佐々木ヲキアガリテ、
三位ノ頸右ノ手ニサゲテ、弓杖ツキテ、フトコロヨリタヽウ紙ヲ取出シテ、
頸ノ血ヲノゴフ。アケニ成テゾミヘケル。三位ノ軍兵アマタ其数有ケレドモ、
Ｐ３１５５（七八オ）
一谷ニテカケヘダテラレテ、散々ニナリニケレバ、宮太滝口時員ト云侍、三位ノ
跡ヲ尋テ追テ参リケレドモ追ツカズ。三位被打給テ後、追付タリケレドモ、
頸ハナシ。ムクロヲミルニ、モヘギニヲヒノ鎧ノ引合セニ、秘蔵シテ持給タリケ
ル笛ヲ指レタリ。此笛ヲ取テ、三位ノ御馬ノハナレテ有ケル取テ乗リ、泣々馳返リニケリ。
廿八〔大夫業盛被討給事〕 爰ニ常陸国住人、比気四郎五郎ト云兵アリ。四郎、弟ノ五郎ニ申ケルハ、「今日
一定吉敵ニ組ツト覚候。過ヌル夜夢見ノ吉カリツルゾ」ト申モハテネバ、兵二人
出来リ。一人ハ大童ナリケルヲ、比気ノ四郎馳並テ、カミヲ取テ鞍ノ前輪ニ押付テ、
首ヲカイキリテ指上タリ。一人ハ萌黄匂ノ鎧キテ、鹿毛ナル馬ニ乗テ落ケルヲ、
比気五郎吉敵ト目ヲカケテ、押並テ組テ落ヌ。渚ギワニ古キ井ノ有ケル
中ニ、二人組テ臥タリ。五郎ハ下ニ敵ハ上ニ有ケレドモ、井ノ中ハセバシ、落ハサマ（ッ）テ、互ニ
Ｐ３１５６（七八ウ）
何トモセザリケリ。兄四郎馳廻テ見ドミ弟五郎モ見ザリケリ。井ノ有ケルヲ
馳リ寄テミレバ、中ニ兵二人アリ。「比気ノ五郎ハコヽニ有カ」。カスカナル音ニテ「安重」ト
名乗ケレバ、馬ヨリ飛下テ敵ガ首ヲカク。十六七計ナル若人ノウスガネヲゾ
付タリケル。是ハ門脇中納言ノ子息、蔵人大夫業盛ニテゾオワシケル。
哀トモ云ハカリナシ。新中納言、大臣殿ニ被申ケルハ、「武蔵守ニモヲクレ
候ヌ。頼賢モ討レ候ヌ。今心細クコソ覚候ヘ。家長モヨモ生候ワジ。只一人
持タリツル子ノ、父ヲ助ムトテ敵ニ組ヲ見ナガラ、親ノ身ニテ引モ返サヾリ
コソ、『命ハヨクヲシキ物ニテ候ケリ』ト、身ナガラモウタテク覚候。人ノ
イカニ思ラム」トテ泣給ケレバ、大臣殿モ宣ケルハ、「武蔵守ハ手モキヽ心モ
甲ニテ、吉大将軍ニテオワシツル者ヲ。アラ惜ヤ。アタラ者カナ」トテ、御子ノ
Ｐ３１５７（七九オ）
右衛門督ノオワスルヲ見給テ、「今年ハ同年ニテ十七ゾカシ」トテ、涙グ〔ミ〕給ヘ
ルゾ糸惜キ。是ヲ見奉ル人々モ、皆鎧ノ袖ヲゾヌラシケル。家長ハ伊
賀ノ平内左衛門、是ハ新中納言一二ノ者ナリケレバ、「命ニモカワリ、一所ニテ
何ニモ成ム」ト、契深カリケル者共也。
廿九〔平家ノ人々ノ頸共取懸ル事〕 可然一人々ノ首、竹結渡テ取カケタリ。「千二百余人」トゾ注ケル。大将軍ニハ
越前三位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、若狭守経俊、
武蔵守知章、備中守師盛、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、
已上八人、侍ニハ越中前司盛俊、筑前守家貞、被討ニケリ。惣テ
大将軍ト覚シキ人、十人トゾ聞ヘシ。但敦盛ノ頸ハナカリケリ。或ハ利剣
ヲフクミテ地ニ倒ヌ、或ハ流失ニ当テ命ヲ失フ類ヒ、麻ヲ散セルガ
Ｐ３１５８（七九ウ）
如シ。水ニオボレ山ニ隠ルヽ輩幾計ゾ、其数ヲ不知一。主上、女院、内大臣、
平大納言以下人々、北方、御船ニ召テ目ノ当リ御覧ゼラレケリ。
何バカリノ事ヲカ思食ケム、御心中ヲシハカラレテ哀也。翠帳紅
閏ノ万事ノ礼法異ナルノミニ非ズ。船ノ中、浪ノ上、一生ノ悲、喩ヘム方モ
アラジ物ヲト思遣レテ哀也。父ハ船ニアリテ子ハ礒ニ被打、婦ハ船ニ
有レバ夫ハ渚ニ臥ス。友ヲステ主ヲステヽモ片時ノ命ヲ惜ム。兄ヲ
ステ弟ヲ忘テモシバシノ身ヲタバウ。潮ノ中ノ魚ノ沫ニイキツグガ如シ。
龍頭ノ羊ノ笙楽ヲ怖ルヽニ似タリ。主上ヲ始奉、ムネトノ人々ハ御
船ニ召テ、思々心々ニ出給。船路ノ習ノ哀サハ、塩ニ引レテ行ホドニ、
葦屋ノ里ヲ馳スギテ、紀伊地ヘ趣ク船モアリ。便ノ風ヲ待得ズ
Ｐ３１５９（八〇オ）
シテ、浪ニ漂フ舟モアリ。光ル源氏ニアラネドモ、陬磨ヨリ明石ヲ
尋ツヽ、浦伝行舟モアリ。スグニ四国ヘ渡ル舟モアリ。鳴戸ノヲキ
ヲ漕渡リ、未一谷ノヲキニ漂フ舟モアリ。カヽリシカバ、嶋々浦々ハ多ケ
レドモ、互ニ死生ヲ知ガタシ。国ヲ靡ス事モ十三ヶ国、勢ノ付従事
モ十万余騎ニ及ベリ。都ヘモ一日路也。サリトモト思シ一谷モ被落ニケレ
バ、各心細ゾ被思ケル。サテモ今度被打ヌル人々ノ北方、サマヲカヘテ
コキ墨染ニ成ツヽ、念仏申テ後生訪給ゾ糸惜キ。本三位
中将重衡ノ北方、大納言亮殿計コソ、内ノ御乳母ナレバトテ、
大臣殿制シ被申ケレバ、サマヲモヤツシ給ハザリケレ。
三十〔通盛北方ニ合初ル事付同北方ノ身投給事〕 越前三位通盛ノ北方ハ屋嶋ノ大臣殿ノ御娘也。御年十二ニゾ成
Ｐ３１６０（八〇ウ）
給ケル。八条女院養進テ、通盛聟ニ取セ給タリケレドモ、未ダ少ク
オワシケレバ、近付給事モナカリケリ。頭刑部卿憲方ノ御娘、上
西門院ノ御所ニ小宰相殿ノ局トテオワシケリ。皃形人ニ勝レテ
心ニ情深、天下第一ノ美人ノ聞オワシケレバ、見人聞人、哀ト思ワヌハ
ナカリケリ。越前三位其時ハ中宮助トイワレキ。此小宰相ノ局ノ少ク
オワセシ時ヨリ、一御所ニスミナガラ、哀ミマホシク思給ケレドモ、サモ
無テ過給ケルホドニ、一年上西門院、所々ノ名所ノ花御覧ゼラレケル
ニ、小宰相殿モ参給ヒ、中宮亮モ供奉セラレケリ。大宮ヲ上リニ二条
ヲ西ヘ行啓ナル。四方ノ山辺モ霞コメ、百囀ノ鶯モ折モヨヲセル物ノ
ナレヤ。亀山ノスソヨリ出ル大井川、水上キヨキ早キ瀬、井関ノホドモ
Ｐ３１６１（八一オ）
ヲトタヘズ。梅津ノ里ニ匂フ風、ソモムツマジキユカリカナ。月モ桂ノ里ニス
ム。ゲニヲモカゲハ身ニゾソウ。雲居ノヨソニ打スサミ、大内山モスギヌレバ、
東吹風ニタヨリシテ、主ヲ尋ヌル梅ノ匂、一夜ニシゲル松ノ枝、アリシ
昔ヲ忍ビカネ、袖ヨリアケル涙ヲバ、思煩フ草枕ノ、露ヨリシゲキ
心地シテ、天満天神ノオワシマス、右近ノ馬場ノ行啓也。此時ニ小
宰相ハ十四ノ年ヨリ女院ノ御車ニゾ被参ケル。諸衛ノ女房達ハ、
車ヨリ下リテ遊給ケルニ、此小宰相殿ハミヘ給ハザリケレバ、女院、「小宰
相殿ハ」ト御尋アリ。車ヨリ出給ウガ、人ヤミルト覚シクテ、下リ煩ヒ給
ケル景気ワ、秋ノ夜ノ月オバステ山ヲ住ウカレ、春ノ花吉野ノ峯ニ
ホコロブカト、アタリモカヽヤク計也。花ヲ一房折ツヽ、扇ニ取ソヘテ被立一
Ｐ３１６２（八一ウ）
タリ。折シモ嵐木末ニサヘケレバ、散懸花ニ任テ優ニゾミヘケル。通盛此
ヲ一目ミ給シヨリ、人シレズ病ト成ニケリ。色ニ出テタフス人ニ問ケレバ、年来
優ニ聞給シ小宰相殿是也。今一シホゾ増リケリ。日々ニ副テハ重ク成
給テ、臥沈テオワシケリ。「神モユルス御事ナラバ、ミタラシ河ニフシモ沈マバ
ヤ」トノミ思ワレケレドモ、ソレモ叶ワヌ御事ナレバ、タヾアケクレハ此人ノ事
ヨリ外ハ他事ナクゾ思ワレケル。六条ノ局ト云フ乳母ノ有ケルガ、「此御イタ
ハリクルシカラジトハ仰候ヘドモ、日ニ随テ御有様ヨハゲニ見ヘサセ給。
御心苦」ト申ケレバ、「指テ大事モナキ物ヲ」トテ、打トケ給ワズ。六条ア
ヤシト思ドモ、其心ヲシラズ。有時又六条、「ワラワニカクサセ給、何事ニテ
候ゾ。今コソ思知レテ候ヘ。御心ヲ置セ給候ハヾ、御内モ住ウクナム」ト、ヤウ＜
Ｐ３１６３（八二オ）
ニウラミテ、「サテモユヽシキ医師ノ候ナル、被召候ヘカシ」ト申ケレバ、三位日比
ハ思ナグサム方モナクテ忍ビツレドモ、今ハ限リト思ケレバ、「心ニ思フ事
云ネバ罪深シ」ト云時ニ、「右近ノ馬場ノ花ミノ行啓ノ有シニ、小宰相局
ヲ一目見テシヨリ病トナリタリシナリ。耆婆偏鵲ガ薬モ、是ヲ療ス
ル術モナシ。晴明、道満ガ術道モカナウマジ。若彼ユカリニ知タル人ヤ有。
此事ヲ知セバヤト思フゾトヨ」。六条サレバコソト思テ、「宰相殿ノ御乳母ノ
子ニ、小野ノ侍従ト申ス女房ヲコソ知テ候ヘ」。三位悦テ、「サラバ知セヨ」ト宣
へバ、侍従ニ「カク」ト申タリケレバ、「万ヅ身ニタエ候ワム事ヲバ、承リ候バヤト思テ
コソ候ヘドモ、コレハ叶マジク候。此君ノ七歳ノ御年ヨリ、女院ノ御懐ヲ離レ
進給ワズ。御寝所ヨリソダテ進マシ＜テ、今年ハ十四ニナラセ給。此事
Ｐ３１６４（八二ウ）
人ニ知セ給ナヨ」ト云ケレバ、六条還テ此由ヲ申ケレバ、「サテハ叶マジキニコソ」
トテ臥沈。万死一生トミヘ給フ。六条申ケルハ、「男ハ心強キコソ憑ク候ヘ。
御命ダニ渡セ給ハヾ、ナドカサテシモ候ベキ。御文ヲアソバシテ給候ヘ。侍従ニ
トラセ候ワム」ト云ケレバ、サラバトテ文ヲカキテ六条ニタビテケリ。六条此文ヲ侍
従ニトラセタリケレバ、ユヽシク心得ズゲニ思テ、暫物モイワザリケルガ、此文ヲ
奉返一モ情ナシトヤ思ケム、「申テコソ見候ハメ」トテ、宰相殿ニ奉ル。宰相殿
皃打赤メテ、「コハ何事ゾヤ。人ヤミツラム。浅猿ヤ」トテ、御スノ内ヘ入給フ。カクト
知ラセ始給テ後ハ、三年マデ、玉章数ノミツモリケレドモ取モ入給ハズ。サレ
ドモ三位是ニナグサミテ、露命消ヤリ給ハズ。三年モスギヌレバ、「チツカ
ヲ立シニシキヾ、立ナガラヤクチヌラム、ツレナキ人コソ善知識ナレ」トテ、「明日ハ
Ｐ３１６５（八三オ）
戒ノ師請ジテ出家シ、高野粉河ニモ入コモリ給ワム」トゾ出立給ケ
ル。六条余ニ悲思テ、侍従ニ「カク」ト泣々申タリケレバ、侍従ヲドロキテ、「年
来ハナニトナク等閑ノ御事ニヤト思テ候ヘバ、サヤウニ御身ヲイタヅラニ成給
御事ナラバ、コマヤカニ申テミ候ワム」トテ、侍従、宰相殿ニ申ケルハ、「中宮
亮殿コソ、御身ユヘニ明日ハ出家シテ、高野粉河ニモ閉コモラムトシ
給ナレ。人ヲ助ルハミナヨノツネノ習ニテコソ候ヘ」ト申ケレドモ、「偽ニテゾ有
ラム」トテ、露ナビキゲモオワセズ。侍従帰テ、「ナヲモ心ヅヨゲニオワスルゾ。御
内ヘマヒラセ給ワム時、コマカニ御文ヲアソバシテ、車ノ内ヘナゲ入給ヘ」ト云ケレバ、
中宮亮悦テ、「三年ノ思ニタヘズシテ、今ハ思切リ、世ヲ遁テ、高野粉
河ニモコモルベキ」ナムド、細ニ文ヲカキ給テ、便宜ヲ伺ワレケルホドニ、或時小宰
Ｐ３１６６（八三ウ）
相殿御所ヘ参給ケルニ、ヒソカニ人ニ云合テ、青侍ヲ以テ御文ヲ車ノ内ヘ
ナゲ入サセテ、使ハカヘリニケリ。小宰相殿、「是ハイカナル人ノツテゾヤ」トテ、車ノ
内ニテ忍サワギ給ヘドモ、御共ノ者共モ「シラズ」ト申ケレバ、大路ニステムモサ
スガナリ、車ニヲカムモツヽマシクテ思煩ケルホドニ、御所モチカク成ニケレバ、
イカニスべキ様モナクテ、袴ノ腰ニ挾テ御車ヨリ下給ニケリ。ヲリシモ御
遊ノホドナリケレバ、ヤガテ御前ヘ参リ給テ、ナニトナク被遊ケルホドニ、
此文ヲ落シ給テケリ。女院ノ御目ニシモ御覧ジ出テ、御懐ニ引入サセ
マシ＜テ、女房達ヲ召集サセ給テ、「ヤサシキ物ヲコソ求タレ。人々コレ御
ラムゼヨ」トテ取出サセ給タリケレバ、此御文ナリケリ。女房達、「我モ
不知＜」トノミ、神仏ニカケテ被申ケレハ、小宰相殿カホケシキカワリテ、
Ｐ３１６７（八四オ）
涙ノウクホドニゾミヘラレケル。「小宰相殿ノ落シ給テケリ」ト負給ニケリ。
女院文ヲヒラキテ御ラムゼラルヽニ、妓爐ノ煙リナツカシク、蘭麝ノ匂
フカクシテ、筆ノタテドモナべテナラズ、優ニ由アリテゾ被書タリケル。
「我恋ハ細谷川ノマロキバシフミカヘサレテヌルヽ袖カナ
フミカエス谷ノウキハシウキ代ゾト思知テモヌルヽ袖カナ
ツレナキ御心モ中＜今ハウレシクテ」ナムドカキタリ。女院仰ノ有ケルハ、
「是ハアハヌヲウラミタル文ニコソ。イカニ思ナルベキ人ヤラム。中宮亮ノ申トハ
ホノカニ聞シカドモ、細ニハシラズ。アマリニ人ノ心ヅヨキモ身ノトガトナル＜モノ
ヲ。コノヨニハマノアタリアヲキ鬼トナリテ、身ヲイタヅラニナシ、ヒトリ行ミ
チニ行合テ情ナキ事ヲカタリ、後ノ世マデノサワリトナリテ、世々ニ身ヲハナ
Ｐ３１６８（八四ウ）
レヌトコソキケ。人ヲモ鬼ニナシテモナニカハセム。懸念無量劫トカヤモ罪
深シ。昔小野小町ト云ケル者ハ、色皃人ニ勝レテ情モ深カリケレバ、見ル
人聞人、肝ヲハタラカシ心ヲイタマシメヌハナカリキ。サレドモソノ道ニハ心ヅヨキ
名取タリケルニヤ、人ノ思ノヤウ＜ツモリテハ風ヲ防ク便モナク、雨ヲ
モラサヌワザモナシ。ヤドニクモラヌ月星ヲ涙ニヤドシ、人ノ惜ム物ヲ乞ヒ、
野辺ノ若菜ヲツミテ命ヲツミケルニハ、青鬼ノミコソ床ヲバナラべケレ。
トク＜ナビキ給ベシ。終ニ人ニミヘ給ハムニハ、アノ人共ノ云ワム事ヲバ争カ
聞ステ給ベキ。此人ト云ニ大政入道ノ甥ナリ。品モイヤシカラズ。平家繁
昌ノヲリフシナリ。当時ハ誰カ此一門ヲサクベキ。此文ノ返事ハ我セム」トテ、御スヾ
リ召寄テ、
Ｐ３１６９（八五オ）
只タノメ細谷川ノマロキバシフミカヘシテハ落ザラムヤハ
谷水ノ下ニ流テマロキバシフミミテ後ゾクヤシカリケル
カクアソバシテ返サレヌ。御ヒサフノ御車、御牛カケテ、小宰相殿ヲ
三位ノ許ヘ被送ニケリ。仙宮ノ王妃、天地ヲ兼テ契ヤ深カリケム、心ヤ
ユカシクイサギヨカラマシノ心ニテ、切ナル事ノミゾオホカリケル。世ノ常ノ夫ノ
思ワヌヲウチ歎テ悔事ナムドコソアレ、是ハ常ニ物思ガホニテ、雲上宮
中ノ御遊モ倦思給ケルニヤ。ヤサシカリシナカラヒナリ。カクテナレソメ給
テ年来ニモナリニケレバ、互ニ御志浅カラズ被思タリケレバ、父母シタシキ
人々ニモ離レテ、是マデオワシタリケルニヤ。漢武帝上林苑ニ御幸
アリ。慎夫人ト云ヘル女御、傍ニヲワス。〓〓ヨ（ッ）テ夫人ノ座ヲシリゾケヽリ。
Ｐ３１７０（八五ウ）
公ノ御気色カワリ、夫人イカレル色アリ。〓〓ガ云ク、「公ハ后ヲハシマス。
夫人妾ナリ。妾ハ君ト床ヲ一ニスル事ナシ。昔ノ人〓ガタメシヲ思知
給ヘ」ト云ケレバ、夫人此事ヲ覚リ得給テ還テ喜。〓〓ガ賢キ心ヲ
悦給テ、金三十斤ヲ給ケルトカヤ。越前三位此事ヲ思知給タ
ルニヤ、小宰相殿ハ妾ニテオワシケレバ一舟ニハ住給ワズ。別ノ御船ニヲ
キ奉テ時々通給テ、三年ガ間波ノ上ニ浮ビ給ケルコソ哀ナレ。越
前三位仕給ケル宮太滝口時員ト云侍、馳来テ北方ニ申ケルハ、
「三位殿ハ湊川ノ尻ニテ佐々木源三盛綱ト組テ打レ給ヌ。ヤガテ
討死ヲモシ自害ヲモ仕テ、後世ノ御共スベキニテ候ツレドモ、『我ガイカニ
モ成ナム後ハ命ヲ捨ズシテ、相構御ユクヘヲ見継奉』ト、兼テ能＜
Ｐ３１７１（八六オ）
仰ヲカレテ候也。御詞ヲ違ジト存候テ、ツレナク参テ候」ト泣々申
ケレバ、北方是ヲ聞給テ、シバシハ物モ宣ワズ、引カヅキ臥給ヌ。「一定
討レ給ヌ」トハ聞給ヘドモ、「若僻事モヤアルラム。生テ帰ラルヽ事モ
ヤ」ト、只二三日ノ旅ニ出タル人ヲ待心地シテ、シタマタレケルコソハカナ
ケレ。サルホドニ日数モ重リテ四五日ニモナリニケレバ、若ヤノ恃モ
弱リハテヽ、弥思ゾマサリケル。乳母子ナリケル女房ノ只一人付タリケルニ、
十三日、夜フケ人定テ、北方泣々宣ケルハ、「アワレ此人ノ、アス打出ム
トテハ、世中ノ心細キ事共ヲ終夜云ツヾケテ、涙ヲ流シカバ、イカニカクハ
云ヤラムト、心サワギシテ覚シカドモ、必ズカヽルべシトハ思ハザリシニ、限ニテ有
ケル事ノ悲サヨ。『我イカニナリナム後、イカナル有サマニテ有ムズラムト思
Ｐ３１７２（八六ウ）
モ心苦シ。世ノ習ヒナレバサテシモアラジ。イカナル人ニ見エムズラムト、ソレモ
心ウシ』ナムド云シ時ニ、タヾナラズナリタル事ヲ、其夜始テシラセタリシカバ、
ナノメナラズ悦、『通盛スデニ卅ニ成ナムズルニ、未ダ子ト云者ノナカリツルニ、初テ
子ト云者有ラムズラム事ノウレシサヨ。アワレ同ハ男子ニテアレカシ。サルニ付
テモ、カクイツトナキ船ノ中、波上ノスマヒナレバ、身々トナラム時、通盛イ
カヾセムズラム』ト、只今有ムズルヤウニ歎給シ物ヲ。ハカナカリケルカネ事
カナ。軍ハイツモノ事ナレバ、ソレヲカギリ最後トハ思ワズ。アリシ六日ノ暁
ヲ限トシリセバ、後ノ世ニトモ契テマシ。誠ヤラム、女ハ身々トナル時、十ニ九ハ
死ルナレバ、カクテ恥ガマシキ目ヲ見テ、トモカクナラム事モ口惜シ。若
此世ヲ忍過テナガラヘテモ、有ハ心ニ任セヌ世ノ習ナレバ、不思議（ ）ニ
Ｐ３１７３（八七オ）
テ思ワヌ外ノ事モ有ゾカシ。心ナラズサル事モ有バ、草ノ影ニテ見ム
事モハヅカシケレバ、此ノ世ニナガラヘテモナニカハセム。マドロメバ夢ニミ
ヘ、サムレバ面影ニタツゾトヨ。サレバ此次ニ底ノミクヅトモ思入テ、死出
山、三途川トカヤヲモ同道ニトノミ思ガ、ソレニヒトリ残留テ歎ムコ
トモイタハシク、古里ニ聞給テ、悲ミ給ワム事コソ罪深ケレド
モ、思ハザル外ノ事モ有ゾカシ。若サモ有ム時ハ、ワラワガ装束ヲバ
何ナラム僧ニモトラセテ、衣ニセサセテ、後生ヲモ問ヒ、無人ノ菩提ヲモ
助給ヘ。書置タル文共ヲバ都ヘトヅケ給ヘヨ」ナド、コシカタ向末ノ事
共マデカキクドキ宣ケレバ、「日来ハ泣ヨリ外ノ事ナクテ、物ヲダニモ
宣ハザリツルニ、カヤウニコマ＜”トクドキ給コソアヤシケレ。ゲニ千尋ノ
Ｐ３１７４（八七ウ）
底マデモ思入給ワムズルヤラム」ト胸打騒テ、北方ニ申ケルハ、「今ハイ
カニ思召トモ甲斐アルマジ。初テ驚思食スベキニモアラズ。其上御
身一人ノ事ニテモナシ。薩摩守殿、但馬守殿、若狭守殿、備中
守殿北方達モ、御歎何レモヲロカナラズ。サレドモ方々御サマヲ替
テ、後生ヲコソ訪進サセ給ヘドモ、御身ヲ投ル人モナシ。必ズ同道ニト
思食ドモ、生替セ給ナム後ハ、六道四生ノ間ニ、何ナル苦ノ道ヘカ趣
カセ給ヌラム。行逢マヒラセサセ給ワム事モ有ガタシ。イカニモシテ平
ラカニ身々トナラセ給テ、少人ヲモソダテ奉テ、ナキ人ノ御形見トモ見
マヒラセサセ給ヘカシ。ナヲアキダラズ思食バ、御サマヲモ替サセ給テ、
イカナラム山寺ニモ閉籠ラセ給テ、閑ニ仏ノ御名ヲモ唱テ、故殿ノ
Ｐ３１７５（八八オ）
御菩提ヲモ訪マイラセ、我御身ノ後生ヲモ助ラセ給ワムニ過タル善
知識ハ争カ候ベキ。其上都ニ渡セ給人々ノ御事ナドヲバ、誰ニユヅリ、
イカニナラセ給ヘトテ、カクハ思食立ニカ。ワラワモ老タル親ニモ立離レ、
幼キ子モモ振捨テ、只一人付マヒラセタル甲斐モ候ワズ。ウキ目ヲ
ミセムト思食ラムコソ口惜ケレ」ナドカキクドキ、サマ＜”ニナグサメ申
ケレバ、「懐妊ノ身トナリテハ、死ヲサル事遠カラズナド云ナレバ、カヤウニ
浪ノ上ニテアカシクラセバ、思カケヌ波風ニ逢テ、心ナラズ身ヲ徒ニ
ナスタメシモ有ゾカシ。縦今度ヲ思延タリトモ、此者ヲソダテヽ打ミ
ムヲリ／＼ハ、昔ノ人ノミコヒシクテ、思ノ数ハマサルトモ、ワスルヽ時ハヨモ
アラジ。今ハナカ＜ニ見ソメミヘソメシ雲ノ上ノヨハノ契サヘクヤシクテ、
Ｐ３１７６（八八ウ）
彼ノ源氏ノ大将ノ朧月夜ノ内侍ノカミ、紅徽殿ノホソ殿モ、我
身ノ上トオボユルゾ」トヒソカニ宣ケレバ、此四五日ハ、ハカ＜”シク湯水ヲ
ダニモ見入給ワヌ人ノ、カヤウニコマ＜”ト宣ヘバ、「ゲニ思立給事モヤ」トテ、
「大方ハゲニモサコソハ思食ラメナレバ、イカナラム海川ノ底ヘ入セ給トモ、ヲ
クレマヒラスマジキゾ。カマヘテウキ目ミセサセ給ナヨ」ト、涙モカキアヘズ
申ケレバ、「此事サトラレテ妨ラレナムズ」トヤオボシケム、「是ハソレノ
身ノ上ニ思ナシテモヲシハカリ給ヘ。別ノ道ノ悲サ、大方世ノウラメシ
サニ身ヲモ投バヤト云事ハ、世ノ常ノ事ゾカシ。サレバトテゲニハ争カ
思モタツべキ。又適マ人界ノ生ヲ受タル者ニ、月日ノ光ヲダニモ見セ
ズシテ失ワム事モ、カワユクモ有ゾカシ。縦何ナル事ヲ思立トモ、
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争ハソコニシラレデハ有ベキ。心安ク思給ヘ」ト宣テ、三位ノ筆ニテ書
給タリケル猿衣ノ有ケルヲ取出シテ、アワレナル所ヲヨミテ、忍＜ニ
念仏ヲ申給ケレバ、「ゲニモ思延給ニコソ」ト心安ク覚テ、御ソバニ有
ナガラ、チトマドロミタリケルヒマニ、ヤワラ舟ノハタニ立給タレバ、漫々タル
海上ナレバ、月オボロニカスミワタリテ、イヅクヲ西トハワカネドモ、月ノ
イルサヲ山ノハニ向テ、掌ヲ合テ念仏ヲ申給ケル心ノ中ニモ、「サ
スガニ只今ヲ限トハ都ニハヨモシラジ。風ノタヨリモガナ。カクトシラセム」ト、
思ミダレ給ニ付テモ、ヲキノ白洲ニ鳴ク千鳥、トワタル海ノ梶枕、カス
カニキコユルエイヤ音、イヅレモアワレニ聞ヘケリ。サテ念仏百返計
唱テ、「南無西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来、本願アヤマ
Ｐ３１７８（八九ウ）
タセ給ワズ、浄土ニ導給テ、アカデ別レシイモセノ中、一蓮ノ身トナシ
給ヘ」トテ、千尋ノ底ヘ入給ヌ。一谷ヨリ屋嶋ヘコギモドル夜半計ノ
事ナレバ、人皆ネ入ニケリ。梶取一人見付奉テ、「コハイカニ、女房ノ海ヘ
入給ヌ」ト〓リケレバ、乳母子ノ女房打驚テ、「アハ此女房ノシ給ヌ
ルヨナ」ト心ウクテ、傍ラ求レドモ人モナカリケレバ、「アレヤ＜」トサワギ
アワテケレドモ、阿波ノ鳴戸ノ塩ザカヒ、満塩引塩早シテ、浮バ沈ミ沈
バ流ルヽウシホニテ、立波引浪打懸テ、鴨ノ上毛モウヅモレヌ。心ニ舟
ヲモマカセネバ、ヲリシモ月ハヲボロナリ、衣モ白シ、波モ白カリケレバ、シ
ラミアヰテ、シバシハ浮上リ給ヘドモ、ミワクル方モナカリケレバ、トミニ
モ取上奉ラズ。遙ニホドヘテ、トカクシテカツギ上奉タリケレドモ、此
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世ニモナキ人ニ成給ニケリ。白キ袴ニ練緯ノ二衣引マトヒテ、髪
ヨリ始テシヲ＜トシテ、僅ニ息バカリチト通給ケレドモ、目モ見アケ
給ワズ。〓麦ノ露ニソボヌレタル様ニテ、死タル人ナレドモ、ネ入タル人ノ
ヤウニテ、ラウタクゾ見ヘ給ケル。乳母子ノ女房、手ニ手ヲ取クミ、皃ニ
皃ヲアテヽ、泣々申ケルハ、「子ヲモ親ヲモフリステヽ、是マデ付奉タル
志ヲモ知給ハズ、イカニ心ウキ目ヲバ見セ給ゾ。ゲニオボシメシタヽバ、
波ノ底ヘモ引具シテコソ入給ハメ。片時立離奉ムトモ思ハザリツ
ル者ヲヤ。今一度物一言宣テ聞セ給ヘ」ト、モダヘコガレケレドモ、ナジカハ
一言ノ返事ニモ及ベキ。僅ニ通給ツル息モ止テ事切ハテヽケレバ、
見ル人袖ヲゾ絞リケル。サルホドニ朧ニ清メル月影モ雲井ニ傾キ、
Ｐ３１８０（九〇ウ）
カスメル空モ明ユケバ、「サテシモ有ベキ事ナラズ」トテ、故三位ノ鎧ノ
一両残リタリケルヲ、浮モゾ上ルトテヲシ巻テ、又海ヘ返シ入テケリ。
乳母子ノ女房ツヾキテ飛入ラムトシケルヲ、人集テ取留メケレバ、
船底ニ臥シマロビテ、ヲメキ叫事ナノメナラズ。悲ノ余リニ自ラ
カミヲ切ヲトシテケレバ、門脇中納言ノ子息ニ中納言律師忠快トテ
オワシケルガ、剃テ戒持セラレテケリ。三位此女房ノ十四ノ歳ヨリ
見ソメ給テ、今年ハ十九ニゾナラレケル。片時モハナレ給ワジトハ思給
ケレドモ、大臣殿ノ御聟ニテオワシケレバ、其方サマノ人々ニハ知ラセジトテ、
軍兵ノ乗リタル船ニヤドシヲキ給テ、時々見参セラレケリ。三草山ノ
仮屋ニテ見参セラレタリケルモ、此女房ノ事ナリケリ。中納言モ憑
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切給ヘル嫡子越前三位、又乙子ノナノメナラズ悲シガリ給ツル、大夫
業盛モ被討給ニケレバ、方々被歎入タリケルニ、此北方サヘカク成
給ヌル哀サイトヲシサニ、常ハ泣臥シテゾオワシケル。御心ノ内サコソ
ハ悲シカリケメト、ヲシハカラレテイトヲシ。薩摩守、但馬守ノ北方モ
オワシケレドモ、歎キニ沈ナガラ、サテコソヲワシケレ。昔モ今モ夫ニヲクルヽ人
多レドモ、サマナドカウルハ世ノ常ノ事也。忽ニ身ヲ投ルマデノ事ハ
タメシ少クゾ覚ル。見ル人モ聞人モ涙ヲ流サズト云事ナシ。サレバ、「忠
臣ハ不（レ）仕（二）二君一ニ、貞女不（レ）嫁（二）両夫一ニ」ト云ヘリ。誠ナルカナ。権助三位中将此
有様ヲ見給テ、「カヤウニヒトリ明シ晩ハナグサム方モナケレドモ、賢
クゾ此人ヲ留置テケル。我モ引具シタリセバ、終ニハカヽル事ニ
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コソアラマシ」ナド、セメテノ事ニハ思ツヾケラレ給ケリ。七日、九郎義経
一谷ニ押寄テ、卯剋ニ矢合シテ、巳剋ニ平家ヲ責落シテ、棟ノ
人々ノ首、同十日京ヘ入。平氏ノ首共アマタ京ヘ入ト〓リアヒタリ
ケレバ、平家ノユカリノ人々、京ニ残リ留リタル、肝心ヲ迷シテ、誰レナ
ルラムト思アワレケルゾ糸惜キ。其中ニ権亮三位中将惟盛ノ北方、
遍照寺ノ奥、小倉山麓、大学寺ト云所ニ忍テスミ給ケルモ、
風吹日ハ、今日モヤ此人ノ船ニ乗タルラムト肝ヲケシ、今日軍ト聞レバ、
此人ハウタレモヤシツラムト思ツルニ、サテハ此首共ノ中ニハヨモハヅレジト
覚スニモ、只泣ヨリ外ノ事ゾナカリケル。三位中将ト云人生取ニセ
ラレテ上ルト聞給ケレバ、「少キ者共ノ恋シサニ忍ガタシ。イカヾシテ此
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世ニテ相見ズラム」ト返々云タリシカバ、「同都ノ内ニ入タラバナド思テ、態ト
被取テ上ルヤラム」トサヘ、一方ナラズ思乱テ、臥沈ミ給ヘバ、若君、姫君モ
同枕ニ泣臥給ヘリ。「首共ノ中ニモオワセズ。三位中将ト申ハ本三位
中将ノ御事ナリ」ト人ナグサメケレドモ、猶誠トモ思給ワデ、ヲキ
モアガリ給ワズ。若君ハ、「父ノ御事ニテハアラヌト申ゾ。御湯ヅケナレ。
我モ食ム」トヲトナシク宣ヘバ、ソレニ付テモ哀ニテ、「今度ハヅレタリトモ、
終ニイカヾ聞ナサムズラムト思ヘバ、ナグサム心地モセヌゾ」ト宣ヘバ、若君心ノ
中ニモ、ゲニモトヤオボサレケム、又ハラ＜ト泣給ヘバ、御前ナル女房共、
涙ヲゾ流シケル。
卅一〔平氏頸共大路ヲ被渡事〕 十三日、大夫判官仲頼以下ノ検非違使、六条川原ニ出合テ、平
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氏ノ首ヲ武士ノ手ヨリ請取テ、東洞院ノ大路ヲ北ヘ渡シテ、左ノ獄門ノ木ニ懸ク。
越前三位通盛、前薩摩守忠度、前但馬守経正、前武蔵守知章、
前備中守師盛、大夫業盛、大夫敦盛、此人々二人ハ未無
官ニテオワシケレバ、大夫トゾ申ケル。但敦盛ノ首ハナカリケリ。越
中前司盛俊ガ首モ被渡ケリ。鳳闕ニ趺ヲ踏シ昔ハ、怖恐ル輩多
カリキ。衛〓ニ首ヲ被渡一ル、今ハ、哀憐マヌ者少シ。愛楽忽ニ変ズ。
是ヲ見ム人、実ニ深キ心ヲ得ベキ者哉。首共各々大路ヲ渡シテ獄
門木ニ被懸ベキヨシ、範頼、義経共ニ申ケレバ、法皇思食煩セ給
テ、蔵人右衛門権佐定長ヲ御使トシテ、太政大臣、右大臣、内大
臣、堀川大納言等ニ召問ル。五人公卿各申給ケルハ、「先朝御時、此輩
Ｐ３１８５（九三オ）
戚里ノ臣トシテ久ク朝家ニ仕キ。就中卿相ノ首大路ヲ渡シテ獄門ニ
被懸事、未其例ナシ。其上ハ範頼義経等ガ申状、強ニ許容アル
ベカラズ」ト被申ケレバ、渡サルマジキニテ有ケルヲ、「父義朝ガ首大路ヲ
渡シテ獄門ニ被懸ニケリ。父恥ヲ雪ムガ為、君ノ仰ヲ重クスルニ依テ、
命ヲ惜マズ合戦仕ルニ、申請所御免ナクハ、自今以後何ノ勇ニ有テ
カ朝敵ヲ追討スベキ」ト、義経殊ニ支申ケレバ、被渡テ被懸ニケリ。
見ル人涙ヲ流サヌハナカリケリ。
卅二〔維盛ノ北方平家ノ頸見セニ遣ル事〕 権亮三位中将ノ北方ハ、「今度一谷ニテ平家残リ少ク被打給ヌ」
ト聞給ヒケレバ、「イカニモ此人ハノガレジ物ヲ」ト思給ケル余リニ、斉藤五宗貞、
斉藤六宗光トテ兄弟アリケル侍ヲ召テ、「己等ハ無官ノ者ト
Ｐ３１８６（九三ウ）
テ、ハレノ共ヲバセザリシカバ、イタク人ニハシラレジト覚ルゾ。首共ノ渡サル
ナル中ニ、此人ノ首モ有カト見テ参レ」。「承リ侯ヌ」トテ、サマヲヤツシ行テ
見レバ、我主ノ首ハナケレドモ、有サマ目モアテラレズ。￥￥ツヽメドモ涙モレ
イデケレバ、人ノアヤシゲニ見ルモヲソロシクテ、無程帰参テ申ケルハ、
「小松殿ノ君達ニハ備中守殿計ゾ渡セ給候ツル。其外ハ誰々」ト申
ケレバ、北方聞給テ、「サレバトテスコシモ人ノ上トハ覚ヌゾヤ」トテ泣給
ケレバ、斉藤五申ケルハ、「雑色トオボシキ男ノ四五人物見候ツルカゲ
ニテ見候ツレバ、ソレラガ申候ツルハ、『小松殿ノ公達ハ今度ハ三草山ヲ
固テオワシケルガ、一谷落ニケレバ、新三位中将殿、左中将殿二所ハ、船ニ乗テ
讃岐地ヘ着給ニケリ。此備中守殿ハ、イカニシテ兄弟ノ御中ヲ
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離レテ、打レ給ニケルヤラム』ト申候ツレバ、『サテ権亮三位中将殿ハイ
カニ』ト尋候ツレバ、『其殿ハ軍以前ニ御所労トテ御船ニテ淡路ノ地ヘ着
給ニケリトコソ承レ』ト申候ツル」ト申ケレバ、北方宣ケルハ、「穴心ヅヨノ
人ノ心ヤ。所労アラバ、『カウコソアレ』ト、ナドカ告ザルべキ。軍ニアワヌホドノ
所労ナレバ、大事ニコソ有ラメ。思歎ノツモリニヤ、病ノ付ニケルコソ。
都ヲ出デヽヨリ、我身ノワビシキト云事ヲバ一度モイワズ。『只少者共
コソ心苦ケレ。終ニハ一所ニコソスマセウズレ』トノミナグサメシカバ、サコソ馮
ミタルニ、サテハ身ノ煩ヒケルニコソ。皆人モ具スレバコソ具シタルラメ。野ノ
末、山ノ末マデモ、一所ニ有バ互ニ心苦サヲモナグサムべキニ、カヤウニノミ
ナク悲シサヨ」トテ泣給ヘバ、「何ノ御病ゾトコソ聞マシカ」ト、若君宣ケル
Ｐ３１８８（九四ウ）
ゾイトヲシキ。「イカヾシテ人ヲモツカハシテ、慥ニ聞マシ」トオボシケレ
ドモ、「打解、タレニ宣合ベシ」トモ覚給ハネバ、カキクラス心地シテ、又涙モ
カキアヘズ泣給ヘリ。中将モ通フ御心ナリケレバ、「都ニイカニオボツカ
ナク思ラム。首共ノ中ニモナケレバ、水底ニ入ニケルトコソ思ラメ。風ノ便ハ
有ドモ、忍テスム所ヲ人ニ見セムモサスガナレバ、ウトカラヌ者ニテコソ
一クダリノ文ヲモヤラメ」トオボシテ、ヘダテナク思ワレケル侍ヲ一人、
ヒソカニ出立テゾ上セ給ケル。「今日マデハ露命モ消ヤラズ。少キ
人々何事カアルラム」ナド細々ト書給テ、ヲクニ、
イヅクトモシラヌナギサノモシヲグサカキヲクアトヲカタミトハミヨ
ト書給ヘリ。心中ニハ思立給フ事モアレバ、是計ニテゾ有ラムズラムト
Ｐ３１８９（九五オ）
オボシケルニ、涙ニクレテエツヾケアへ給ワネドモ、「世ニナキ者トナリナバ
形見トモセヨカシ」トテ、若君姫君ノ御許へモ御文献リ給フ。「コゾヨリ
ミネバ恋シサモ云ハカリナシ。イカニヲトナシク見忘ルヽホドニナリヌラ
ム。怱迎取テアソバセムズルゾ。心細クナ思ソ」ナド、憑シゲニ細々トカキ
給ニ付テモ、「終ニイカニ聞ナシテ、イカナル事ヲ思ワレムズラム」トオ
ボスゾ悲シキ。
平家物語第五本 十二巻之内
Ｐ３１９１（九五ウ）
于（レ）時延慶二年己酉卯月十日、於（二）根来寺之内
禅定院之住坊（一）書（二）写之（一）。雖（レ）為（二）狂言綺語之誤（一）、
為（二）観修因感果之道理（一）矣。穴賢々々不（レ）可（レ）
有（二）外見者（一）而巳。
（花押）