愚管抄(巻第五)

この内乱たちまちにおこりて、御方(みかた)ことなくかちて、とがあるべき者ども皆ほど/\に行はれにけり。死罪はとゞまりて久(ひさし)く成(なり)たれど、かうほどの事なればにや、行はれにけるを、かたぶく人もありけるにや。さて後白河院は、仏法の御行(おんおこな)ひことに叡慮に入(いり)たる方(かた)をは(し)まして、御位(みくらゐ)の程(ほど)、大内(おほうち)の仁寿殿(じじゆうでん)にて、懺法(せんぼふ)行(おこな)ひなどせさせ給ひけり。偏(ひとへ)に信西(しんぜい)入道世(よ)をとりてありければ、年比(としごろ)思ひとぢたる事にやありけん、大内はなきが如くにて、白河・鳥羽二代ありけるを、有職(いうそく)の人どもは、「公事(くじ)は大内こそ本(ほん)なれ。この二代はすてられてさたなし」と歎きければ、鳥羽院の御時、法性寺殿(ほつしやうじどの)に、「世の事一向にとりざたせられよ」と仰(おほせ)られける手はじめに、その大内造営の事を先(まづ)申(まうし)ざたせんと企(くはだて)られけるをきこしめして、「世の末(すゑ)にはかなふまじ。この人は昔心(むかしごころ)の人にこそ」とて叡慮にかなはざりければ、引(ひき)いられにけり。それを信西がはた/\と折を得て、めでたく/\さたして、諸国七道少しのわづらひもなく、さは/\とたゞ二年が程につくり出してけり。その間手づから終夜算をおきける。後夜方(ごやかた)には算の音なりける、こゑすみてたうとかりける、など人沙汰しけり。さてひしと功程をかんがへて、諸国にすくな/\とあてゝ、誠にめでたくなりにけり。其後内宴(ないえん)行ひて妓女(ぎぢよ)の舞などして、こはいかにとおぼゆる程に沙汰しけり。さて大内つねの御所にてありければ、御懺法(せんぼふ)などさへあしかるべき事にも候(さふら)はずとて、行はせまいらせなんどしてありけるほどに、保元三年八月十一日におりさせ給(たまひ)て、東宮二条院に御譲位ありて、太上天皇にて白河・鳥羽の定(さだめ)に世をしらせ給ふ間に、忠隆(ただたか)卿が子に信頼(のぶより)と云(いふ)殿上人(てんじやうびと)ありけるを、あさましき程に御寵(ちよう)ありけり。さる程に又北面(ほくめん)の下臈(げらふ)どもにも、信成(のぶなり)・信忠(のぶただ)・為行(ためゆき)・為康(ためやす)など云者ども、兄弟にて出(いで)きなどしければ、信頼は中納言右衛門督までなされてありけるが、この信西はまた我子ども俊憲(としのり)大弁宰相・貞憲(さだのり)右中弁・成憲(なりのり)近衛司(このゑつかさ)などになしてありけり。俊憲等才智文章など誠に人に勝(すぐ)れて、延久(えんきうの)例に記録所おこし立(たて)てゆゝしかりけり。大方(おほかた)信西が子どもは、法師どもゝ、数しらずおほかるにも、みなほど/\によき者にて有(あり)ける程に、この信西を信頼そねむ心いできて、義朝・清盛(きよもり)、源氏・平氏にて候(さふらひ)けるを、各この乱の後に世をとらんと思へりける、義朝と一つ心になりて、はたと謀反(むほん)をおこして、それも義朝・信西、そこに意趣こぼりにけるなり。信西は時にとりてさうなき者なれば、義朝・清盛(きよもり)とてならびたるに、信西が子に是憲(これのり)とて信乃入道(しなののにふだう)とて、西山(にしやま)吉峰(よしみね)の往生院にて最後(さいごの)十念(じふねん)成就(じやうじゆ)して決定(けつぢやう)往生したりと世に云(いふ)聖(ひじり)のありしが、男にてさかりの折ふしにしありしをさゝへて、「むこにとらん」と義朝が云けるを、「我子は学生(がくしやう)なり。汝がむこにあたはず」と云あらきやうなる返事をしてきかざりける程に、やがて程なく当時の妻のきの二位が腹なるしげのりを清盛(きよもり)がむこになしてけるなり。こゝにはいかでかその意趣こもらざらん。かやうのふかくをいみじき者もし出(いだ)すなり。さらに/\ちから及ばぬ事なり。とてもかくても物の道理の重き軽きをよく/\知(しり)て、ふるまひたがへぬほかには、なにもかなふまじきなり。それも一(ひと)かたばかりにては、皆しばしは思ふさまにすぎらるゝなり、二つ三つさしあはせてあしき事の出きぬる上は、よき事もわろき事も其時ことは切(きる)るなり。信西がふるまひ、子息の昇進、天下の執権(しつけん)、この充満(じゆうまん)のありさまに、義朝と云程の武士に此意趣むすぶべしやは。運報のかぎり時のいたれるなり。又腹のあしき、難の第一、人の身をばほろぼすなり。よく腹あしかりけるものにこそ。かゝりける程に平治元年十二月九日夜、三条烏丸の内裏(だいり)、院御所にてありけるに、信西子どもぐしてつねに候(さぶらひ)けるを押(おし)こめて、皆うちころさんとしたくして、御所をまきて火をかけてけり。さて中門(ちゆうもん)に御車をよせて、師仲(もろなか)源中納言同心の者にて、御車よせたりければ、院と上西門院(じやうさいもんゐん)と二所のせまいらせたりけるに、信西が妻成範(しげのり)が母の紀の二位は、せいちいさき女房にてありけるが、上西門院の御ぞのすそにかくれて御車にのりにけるを、さとる人なかりけり。上西門院は待賢門院の一つ御腹にて、母后のよしとて立后(りつごう)もありけるとかや。さてかた/゛\殊にあひ思(おもひ)て、一所につねはおはしましけるなり。この御車には重成・光基・季実などつきて一本御書所(いつぽんごしよどころ)へいれまいらせてけり。この重成は後に死(しに)たる所を人にしられずとほめけり。俊憲・貞憲ともに候(さふらひ)けるはにげにけり。俊憲はたゞやけ死(しな)んと思て、北のたいの縁の下に入(いり)てありけるが、見まはしけるに逃(にげ)ぬべくて、焔のたゞもゑにもゑけるに、はしりいでゝそれもにげにけり。信西はかざどりて左衛門尉(さゑもんのじよう)師光(もろみつ)・右衛門尉成景(なりかげ)・田口四郎兼光・斎藤右馬允(うまのじよう)清実(きよざね)をぐして、人にしらるまじき夫(ふ)こしかきにかゝれて、大和国の田原と云(いふ)方(かた)へ行(ゆき)て、穴をほりてかきうづまれにけり。その四人ながら本鳥(もとどり)きりて名つけよと云(いひ)ければ、西光(さいくわう)・西景(さいけい)・西実(さいじつ)・西印(さいいん)とつけたりける。その西光・西景は後に院にめしつかはれて候き。西光は、「たゞ唐へ渡らせ給へ。ぐしまいらせん」とぞ云ける。「出立(いでたち)ける時は本星命位(ほんしやうみやうゐ)にあり。いかにものがるまじ」とぞ云ける。さて信頼はかくしちらして大内(おほうち)に行幸なして、二条院当今(たうぎん)にておはしますをとりまいらせて、世をおこなひて、院を御書所(ごしよどころ)と云所にすゑまいらせて、すでに除目(ぢもく)行ひて、義朝は四位(しゐ)して播磨守になりて、子の頼朝(よりとも)十三なりける、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)になしなどしてありけるなり。さて信西はいみじくかくれぬと思ひける程に、猶夫(ふ)こしかき人に語りて、光康(みつやす)と云武士これを聞(きき)つけて、義朝が方にて、求め出してまいらせんとて、田原の方へ往(ゆき)けるを、師光は、大なる木のありける、上にのぼりて夜を明(あか)さんとしけるに、穴の内にてあみだ仏たかく申す声はほのかに聞(きこ)ゑたり。それにあやしき火どもの多くみゑければ、木よりおりて、「あやしき火こそみゑ候へ。御心しておはしませ」と、たかく穴のもとに云いれて、又木にのぼりてみける程に、武士どもせい/\と出きて、とかく見め(ぐ)りけるに、よくかきうづみたりと思けれど、穴口に板をふせなんどしたりける、見出してほり出(いだし)たりければ、腰刀(こしがたな)を持(もち)てありけるを、むな骨の上につよくつき立(たて)て死(しに)てありけるを、ほり出して頚をとりて、いみじがほに以(も)て参りてわた(し)なんどしけり。男(をとこ)、法師の子ども数をつくして諸国へながしてけり。この間に、清盛(きよもり)は太宰大弐(ださいだいに)にてありけるが、熊野詣(くまのまうで)をしたりける間に、この事どもをばし出してありけるに、清盛(きよもり)はいまだ参りつかで、二(ふ)たがはの宿(しゆく)と云(いふ)はたのべの宿なり、それにつきたりけるに、かくりきはしりて、「かゝる事京に出(いで)きたり」と告(つげ)ければ、「こはいかゞせんずる」と思ひわづらひてありけり。子どもには越前守基盛(もともり)と、十三になる淡路守宗盛(むねもり)と、侍(さぶらひ)十五人とをぞぐしたりける。これよりたゞつくしざまへや落(おち)て、勢(せい)つくべきなんど云へども、湯浅の権守(ごんのかみ)と云て宗重(むねしげ)と云紀伊国に武者(むしや)あり。たしかに三十七騎ぞありける。その時はよき勢にて、「たゞおはしませ。京へは入れまいらせなん」と云けり。熊野の湛快(たんくわい)はさぶらいの数(かず)にはゑなくて、よろひ七領をぞ弓矢まで皆具(かいぐ)たのもしくとり出(いだし)て、さうなくとらせたりけり。又宗重が子の十三なるが紫革の小腹巻(はらまき)のありけるをぞ宗盛にはきせたりける。その子は文覚(もんがく)が一具(いちぐ)の上覚(じやうがく)と云(いふ)ひじりにや。代官を立て参(まゐり)もつかで、やがて十二月十七日に京へ入(いり)にけり。すべからく義朝はうつべかりけるを、東国(とうごく)の勢などもいまだつかざりければにや、これをばともかくもさたせでありける程に、大方(おほかた)世の中には三条内大臣公教(きみのり)、その後の八条太政大臣以下、さもある人々、「世はかくてはいかゞせんぞ。信頼・義朝・師仲等が中に、まことしく世をおこなふべき人なし」。主上二条院の外舅(ぐわいきう)にて大納言経宗(つねむね)、ことに鳥羽院もつけまいらせられたりける惟方(これかた)検非違使別当(けびゐしべつたう)にてありける、この二人主上にはつきまいらせて、信頼同心のよしにてありけるも、そゝやきつゝやきつゝ、「清盛(きよもり)朝臣ことなくいりて、六波羅の家に有ける」と、とかく議定して、六波羅へ行幸をなさんと議しかためたりけり。その使は近衛院東宮の時の学士(がくし)にて、知道(ともみち)と云博士(はかせ)ありけるが子に、尹明(これあき)とて内の非蔵人(ひくらうど)ありけり。惟方は知通が婿(むこ)なりければ一つにて有ける。この尹明さかしき者なりけるを使にはして云かはして、尹明はその比(ころ)は勅勘にて内裏(だいり)へもゑまいらぬ程なりければ、中々(なかなか)人もしらでよかりければ、十二月廿五日乙亥(きのとゐ)丑(うし)の時に、六波羅へ行幸をなしてけり。そのやうは、清盛(きよもり)・尹明にこまかにおしへけり。「ひるより女房の出(いで)んずるれうの車とおぼしくて、牛飼(うしかひ)ばかりにて下(した)すだれの車をまいらせておき候はん。さて夜(よ)さしふけ候はん程に、二条大宮の辺に焼亡(ぜうまう)をいだし候はゞ、武士どもは何事ぞとてその所へ皆まうで来候(きさらふ)なんずらん。その時その御車にて行幸のなり候べきぞ」とやくそくしてけり。さて内々この(事)しかるべき人々相議定して、「清盛(きよもり)熊野より帰(かへり)てなにとなくてあれば、一定(いちぢやう)義朝も信頼もけふ/\と思ふ様共(やうども)おほからん。用心の堅固にては物のたかくなるもあやむる事なり。すこし心をのべてこそよからめ」にて、「清盛(きよもり)が名簿(なづき)を信頼がりやるべき、そのよし子細を云へ」とてやりければ、清盛はたゞ、「いかにも/\かやうの事は、人々の御はからひに候」と云(いひ)ければ、内大臣公教の君ぞまさしくその名簿(なづき)をばかきたりける。それを一(いち)の郎等(らうどう)家定(いへさだ)に持(もた)せて云やりけるやうは、「かやうにて候(さふら)へば、何となく御心おかれ候らん。さなしとておろかなるべきには候はねど、いかにも/\御はからひ御気色(みけしき)をばたがへまいらせ候まじきに候。そのしるしにはおそれながら名簿をまいらせ候なり」といはせたりければ、これはこの行幸の日のつとめてにてありければ、返事には、「返々(かへすがへす)よろこびて承り候ぬ。このむねを存(ぞんじ)候て何事も申承(まうしうけたまはり)候べし。尤(もつとも)本意(ほい)に候」と云(いひ)たりければ、「よし/\」とてぞ。有(あり)けるしたくのごとくにしたりけり。夜に入て惟方は院の御書所(ごしよどころ)に参りて、小男にて有けるが直衣(なほし)にくゝりあげて、ふと参りてそゝやき申て出にけり。車は又その御料にもまうけたりければ、院の御方事はさたする人もなく、見あやむ人もなかりければ、覚束(おぼつか)なからず。内(うち)の御方にはこの尹明(これあき)候(さふらひ)なれたる者にて、むしろを二枚まうけて、莚道(むしろみち)に南殿(なでん)の廻廊(くわいらう)に敷(しき)て、一枚を歩ませ給ふ程に今(いま)一枚をしき/\して、内侍(ないし)には伊予内侍・少輔(せうすけ)内侍二人ぞ心ゑたりける。これら先(まづ)しるしの御はこ宝剣(はうけん)とをば御車に入(いれ)てけり。支度(したく)の如くにて焼亡(ぜうまう)の間(あひだ)、さりげなしにてやり出(いだ)してけり。さて火消(きえ)て後、信頼は、「焼亡は別事候はずと申させ給へ」と、蔵人して伊予内侍に云ければ、「さ申候ぬ」とて、この内侍どもは小袖ばかりきて、かみわきとりて出にけり。尹明はしづかに長櫃(ながびつ)をまうけて、玄象(げんじやう)、すゞか、御笛のはこ、だいとけいのからびつ、日(ひ)の御座(おまし)の御太刀、殿上(てんじやう)の御倚子(ごいし)などさたし入(いれ)て、追(おひ)ざまに六波羅へまいれりければ、武士どもおさへて、弓長刀さしちがへ/\してかためたるに、「誰かまいらせ給ふぞ」と云ければ、たかく「進士(しんじ)蔵人尹明が御物持せて参(まゐり)て候なり」と申させ給へ」と申たりければ、やがて申て、「とく入れよ」とて参りにけり。ほの/゛\とする程なりけり。やがて院の御幸(ごかう)、上西門院・美福門院、御幸どもなり合(あは)せ給(たまひ)てありけり。大殿(おほとの)関白相ぐしてまいられたりけり。大殿とは法性寺殿(ほつしやうじどの)なり。関白とはその子、十六歳にて保元三年八月十一日二条院受禅(じゆぜん)の同日に、関白氏長者(うぢのちやうじや)皆ゆづられにける。あなわかやと人皆思ひたりけり。この中(なか)の殿(との)とぞ世には云める。又六条摂政、中院(なかのゐん)とも申やらん。この関白は信頼が妹にむことられて有ければ、すこし法性寺殿をば心おかんなど云こと有けるにや。六波羅にて院・内(うち)おはしましける御前にて人々候けるに、三条内府清盛方(きよもりのかた)を見やりて、「関白まいられたりと申。いかに候べきやらん」と云たりければ、清盛(きよもり)さうなく、「摂禄(せつろく)の臣の御事などは議に及ぶべくも候(さふら)はず。まいられざらんをぞわざとめさるべく候。参らせ給ひたらんは神妙(しんめう)の事にてこそ候へ」と申(まうし)たりける。あはれよく申(まうす)物かなと聞く人思ひたりけり。その夜中には京中に、「行幸六波羅へなり候(さふらひ)ぬるぞ/\」とのゝしらせけり。山の青蓮院座主(しやうれんゐんざす)行玄(ぎやうげん)の弟子にて、鳥羽院の七宮(しちのみや)、法印(ほふいん)法性寺座主(ほつしやうじざす)とておはしける、知法(ちほふ)のおぼゑありければにや、其時仏眼法(ぶつげんほふ)うけ給(たまは)りて修せられける白河房(しらかはばう)へも、夜半にたゝきて、「行幸六波羅へなり候。又よく/\いのり申させ給へ」と云(いふ)御使ありけり。かゝりける程(ほど)に内裏には信頼・義朝・師仲、南殿(なでん)にてあぶの目ぬけたる如くにてありけり。後(のち)に師仲中納言申けるは、義朝は其時、信頼を、「日本第一の不覚人(ふかくにん)なりける人をたのみて、かゝる事をし出(いだし)つる」と申けるをば、少しも物もゑいはざりけり。紫宸殿(ししんでん)の大床(おほゆか)に立(たち)てよろひとりてきける時、だいとけいの唐櫃(からびつ)の小鈎(〈かぎ〉)を守刀(まもりがたな)に付(つけ)たりけるを、師仲は内侍所(ないしどころ)の御体(ごたい)をふところに入(いれ)て持(もち)たりける、「たべ、その鈎これにぐしまいらせてもたん。その刀につけて無益(むやく)なり」と云ければ、「誠(まこと)に」とてなげおこせたりければ、取(とり)て、「いづちも御身をはなれ申まじきぞ」とて、あいずりの直垂(ひたたれ)をぞ着たりける。やがて義朝は甲(かぶと)の緒(を)をしめて打出(うちいで)ける。馬のしりにうちぐしてありけれど、京の小路(せうぢ)に入にける上は、散々(ちりぢり)にうちわかれにけり。さて六波羅よりはやがて内裏へよせけり。義朝は又、「いかさまにも六波羅にて尸(かばね)をさらさん。一(ひと)あてしてこそ」とてよせけり。平氏が方(かた)には左衛門佐重盛(しげもり)清盛(きよもり)嫡男・三河守頼盛(よりもり)清盛(きよもり)舎弟、この二人こそ大将軍(だいしやうぐん)の誠にたゝかいはしたりけるはありけれ。重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖(ゆみづゑ)つきて立て、のりかへにのりける、ゆゝしく見へけり。鎧(よろひ)の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける。かちての上は心もおち居て見物(みもの)にてこそありけれ。義朝は又六波羅のはた板(いた)のきはまでかけ寄(より)て、物さはがしくなりける時、大将軍清盛(きよもり)はひた黒にさうぞきて、かちの直垂に黒革おどしの鎧にぬりのゝ矢おいて、黒き馬に乗(のり)て御所(ごしよ)の中門(ちゆうもん)の廊(らう)に引(ひき)よせて、大鍬形(おほくはがた)の甲(かぶと)取て着て緒しめ打出ければ、歩武者(かちむしや)の侍(さぶらひ)二三十人馬にそひて走りめぐりて、「物さはがしく候。見候はん」と云て、はた/\と打出けるこそ、時にとりてよにたのもしかりけれ。義朝が方には郎等(らうどう)わづか二十人が内(うち)になりにければ、何わざをかはせん、やがで落(おち)て、いかにも東国(とうごく)へ向ひて今一度会稽(くわいけい)を遂(とげ)んと思ひければ、大原(おほはら)の千束(ちづか)ががけにかゝりて近江(あふみ)の方へ落にけり。正清(まさきよ)もなをはなれずぐしたりけり。此時内(うち)の護持僧(ごぢそう)にて山の重輸(ぢゆうゆ)僧正候(さふらひ)ける。六波羅に参(まゐり)て香染(かうぞめ)にて丑寅(うしとら)の方に向(むかひ)て、「南無叡山三宝(なむえいざんさんばう)」とて如法(によほふ)に立(たち)、ぬかをつきて拝(をが)みけるこそ、よにたのもしかりけれ。かやうの時はさる者の必(かならず)候べきなり。又清盛(きよもり)は大内裏(だいだいり)に信頼が宿所(しゆくしよ)に咋日かきてやりたる名簿(なづき)を、そのまゝにて今日とりかへしつるとてこそわらひけれ。信頼は仁和寺(にんなじ)の五の宮の御室(おむろ)へ参りたりけるを、次の日五の宮よりまいらせられたりけるに、清盛(きよもり)は一家者(いつかのもの)どもあつめて、六原(ろくはら)のうしろに清水(しみづ)ある所に平ばりうちており居たりける所へ、成親(なりちか)中将と二人をぐして前に引(ひき)すへたりけるに、信頼があやまたぬよし云(いひ)ける、よに/\わろく聞へけり。かう程の事にさ云ばやは叶べき。清盛(きよもり)はなんでうとて顔をふりければ、心ゑて引たてゝ六条河原にてやがて頚きりてけり。成親は家成(いへなり)中納言が子にて、ふようの若殿上人(わかてんじやうびと)にてありけるが、信頼にぐせられてありける。ふかゝるべき者ならねば、とがもいとなかりけり。武士どもゝ何(いづれ)も/\程々(ほどほど)の刑罰は皆行はれにけり。さて義朝は又馬(うま)にもゑのらず、かちはだしにて尾張国まで落行(おちゆき)て、足もはれつかれたれば、郎等(らうどう)鎌田次郎正清(かまだのじらうまさきよ)がしうとにて内海荘司(うつみしやうじ)平忠致(たひらのただむね)とて、大矢(おほや)の左衛門むねつねが末孫(ばつそん)と云者の有(あり)ける家にうちたのみて、かゝるゆかりなれば行(ゆき)つきたりける。侍(まち)よろこぶ由にていみじくいたはりつゝ、湯わかしてあぶさんとしけるに、正清事のけしきをかざどりて、こゝにてうたれなんずよと見てければ、「かなひ候(さふら)はじ。あしく候」と云(いひ)ければ、「さうなし。皆存(ぞんじ)たり。此頚打てよ」と云ければ、正清主(〈しう〉)の頚打落(うちおとし)て、やがて我身自害してけり。さて義朝が頚はとりて京へまいらせてわたして、東の獄門のあての木にかけたりける。その頚のかたはらに歌をよみてかきつけたりけるをみければ、下(しも)つけは木の上(かみ)にこそなりにけれよしともみへぬかけづかさ哉となんよめりける。是(これ)をみる人かやうの歌の中に、これ程一文字もあだならぬ歌こそなけれとのゝしりけり。九条の大相国(だいしやうごく)伊通(これみち)の公(きみ)ぞかゝる歌よみて、おほくおとし文(ぶみ)にかきなどしけるとぞ、時の人思ひたりける。かくて二条院当今(たうぎん)にておはしますは、その十二月廿九日に、美福門院の御所八条殿へ行幸なりてわたらせ給ふ。後白河院をばその正月六日、八条堀河の顕長(あきなが)卿が家におはしまさせけるに、その家にはさじきのありけるにて、大路(おほち)御覧(ごらん)じて下(げ)すなんどめしよせられければ、経宗(つねむね)・惟方(これかた)などさたして堀河の板(いた)にて桟敷を外(そと)よりむず/\と打つけてけり。かやうの事どもにて、大方(おほかた)此二人して世をば院にしらせまいらせじ、内(うち)の御沙汰にてあるべし、と云けるをきこしめして、院は清盛(きよもり)をめして、「わが世にありなしはこの惟方・経宗にあり。これを思ふ程(ほど)いましめてまいらせよ」となく/\仰(おほせ)ありければ、その御前には法性寺殿(ほつしやうじどの)もおはしましけるとかや。清盛(きよもり)又思ふやうどもゝありけん。忠景(ただかげ)・為長(ためなが)と云(いふ)二人の郎等(らうどう)して、この二人をからめとりて、陣頭(ぢんとう)に御幸なして御車の前に引(ひき)すへて、おめかせてまいらせたりけるなど世には沙汰しき。その有さまはまが/\しければかきつくべからず。人(ひと)皆(みな)しれるなるべし。さてやがて経宗(つねむね)をば阿波国、惟方(これかた)をば長門国へ流してけり。信西(しんぜい)が子どもは又かずを尽(つく)してめしかへしてけり。これらからむることは永暦元年二月廿日の事なり。これら流しける時、義朝が子の頼朝をば伊豆国へ同(おなじ)くながしやりてけり。同(おなじ)き三月十一日にぞ、この流刑(るけい)どもは行はれける。惟方をば中小別当(なかのこべつたう)と云(いふ)名(な)付(つけ)て世の人云さたしけり。さてこの平治元年より応保二年まで三四年が程は、院・内(うち)、申し合(あはせ)つ、同じ御心にていみじくありける程に、主上をのろひまいらせけるきこゑありて、賀茂(かも)の上(かみ)の宮に御かたちをかきてのろひまいらする事見あらはして、実長(さねなが)卿申(まうし)たりけり。かうなぎ男からめられたりければ、院の近習者(きんじふしや)資賢(すけかた)卿など云恪勤(かくご)の人々の所為(しよゐ)とあらはれにけり。さてその六月二日資賢が修理大夫(しゆりだいぶ)解官(げくわん)せられぬ。又時忠(ときただ)が高倉院(たかくらのゐん)の生(うま)れさせ給ひける時、いもうとの小弁(こべん)の殿(との)うみまいらせけるに、ゆゝしき過言(くわごん)をしたりけるよし披露(ひろう)して、前の年(とし)解官せられにけり。かやうの事どもゝゆきあいて、資賢・時忠は応保二年六月廿三日に流されにけり。さて長寛二年四月十日関白中殿をば清盛(きよもり)おさなきむすめにむことり申て、北政所(きたのまんどころ)にてありけり。さて主上二条院世の事をば一向に行はせまいらせて、押小路(おしこうぢ)東洞院(ひがしのとうゐん)に皇居つくりておはしまして、清盛(きよもり)が一家の者さながらその辺にとのゐ所(どころ)どもつくりて、朝夕に候(さふら)はせけり。いかにも/\清盛(きよもり)もたれも下(した)の心には、この後白河院の御世(みよ)にて世をしろしめすことをば、いかゞとのみおもへりけるに、清盛(きよもり)はよく/\つゝしみていみじくはからひて、あなたこなたしけるにこそ。我妻(わがつま)のおとゝ小弁の殿は、院のおぼゑして皇子うみまいらせなどしてければ、それも下(しも)に思ふやうどもありけん。さて後白河院は多年の御宿願(しゆくぐわん)にて、千手観音千体(せんじゆくわんおんせんたい)の御堂をつくらんとおぼしめしけるをば、清盛(きよもり)奉(うけたまは)りて備前国にてつくりてまいらせければ、長寛二年十二月十七日に供養(くやう)ありけるに、行幸あらばやとおぼしめしたりけれど、二条院は少(すこ)しもおぼしめしよらぬさまにてありけるに、寺(てら)づかさの勧賞(けんじやう)申されけるをも沙汰もなかりけり。親範(ちかのり)職事(しきじ)にて奉行(ぶぎやう)して候ける、御使(おんつかひ)しける。この御堂をば蓮華王院(れんげわうゐん)とつけられたり。その御所にて御前へ召(めし)て、「いかに」と仰(おほせ)られければ、親範、「勅許候はぬにこそ」と申たりければ、御目に涙を一(ひ)とはたうけて、「やゝ、なんのにくさに/\」とぞ仰(おほせ)られて、「親範がとがとまでおぼしめされ候(さふらひ)にし。おそれ候て」とぞ親範はかたり侍りける。此御堂は、真言(しんごん)の御師(おんし)にてこまの僧正行慶(ぎやうけい)は白河院の御子なり、三井門流(みゐもんりう)にたうとき人なりしかば、院は偏(ひとへ)にたのみおぼしめしたりけるが、ことにさたして中尊(ちゆうそん)の丈六(ぢやうろく)の御面相(ごめんざう)を手づからなをされけり。万(よろづ)の事に心きゝたる人とぞ人は云(いひ)ける。六宮(ろくのみや)の御師(おんし)なり。二条院は御出家の義にて、仁和寺(にんなじ)の五宮(ごのみや)へわたりはじめておはしけるを、王胤(わういん)なを大切(たいせつ)なりにて、とりかへして遂(つひ)に立坊ありけり。その御むつびにて五の宮は位(くらゐ)の御時、この二条内裏(だいり)の辺に三条坊門烏丸(ばうもんからすま)に壇所(だんしよ)手づからつくりて、あさゆふにひしと候はせ給(たまひ)ければ、万機(ばんき)の御口入(くにふ)もありけり。さて六宮の天王寺別当(てんわうじべつたう)とりてならせ給て、人々いはれさせ給ひけり。さて応保二年三月七日、又経宗(つねむね)大納言はめしかへされて、長寛二年正月廿二日には大納言にかへりなりて、後には左大臣一(いち)の上(かみ)にて多年職者(しきしや)にもちゐられてぞ候ける。この経宗の大納言はまさしき京極大殿(きやうごくおほとの)のむまごなり。人がら有(あり)て祖父の二位大納言経実(つねざね)には似ず、公事(くじ)よくつとめて職者がらもありぬべかりければ、知足院殿(ちそくゐんどの)の知足院にうちこめられて腰いておはしける、人まいりてつねに世の事ならひまいらせければ、法性寺殿(ほつしやうじどの)の方(かた)にはいよ/\あやしみ思ひけり。世には、「二条院の外舅(ぐわいきう)なり。摂禄(せつろく)もや」など云和讒(わざん)ども有けれど、いまだこの科(とが)には及ばずぞ有ける。大方(おほかた)世の人の口(くち)のにくさ、すこしもよりくるやうにのみ人は物を云なり。返々(かへすがへす)これも心うべき事なり。又惟方(これかた)はのちに永万二年三月にぞ召(めし)かへされたりける。かくてすぐる程に法性寺殿のおとむすめ入内(じゆだい)立后(りつごう)ありて、中宮(ちゆうぐう)とておはしましゝかども、なのめならぬおぼへながら、猶御懐姙(ごくわいにん)はゑなかりけり。さて二条院は又永万元年六月に御(おんやまひ)病重くて、二歳なる皇子のおはしましける、御母はたれともさだかにきこゑず、この皇子に御譲位ありて、七月廿二日に御年廿三にてかくれさせ給ひにけり。永万元年八月十七日に清盛(きよもり)は大納言になりにけり。中の殿むこにて世(よ)をばいかにも行ひてんと思ひける程に、やがて仁安元年十一月十三日に内大臣に任じて、同二年二月十一日に太政大臣にはのぼりにけり。さる程に其年の七月廿六日俄にこの摂政のうせられにければ、清盛(きよもり)の君、「こはいかに」と、いふばかりなきなげきにてある程に、邦綱(くにつな)とて法性寺殿のちかごろ左右(さう)なき者にて、伊予播磨守・中宮(の)亮(すけ)などまでなしてめしつかふものありき。この邦綱が清盛(きよもり)公(きみ)が許(もと)にゆきて云けるやうは、「この殿下の御あとの事は、必しもみな一(いち)の人(ひと)につくべき事にも候(さふら)はぬなり。かた/゛\にわかれてこそ候(さふらひ)しを、知足院殿の御時の末(すゑ)にこそ一(ひとつ)になりて候しを、法性寺殿(ほつしやうじどの)ばかりこそみなすべておはしまし候へ。この北政所殿(きたのまんどころどの)かくておはします。又故摂政殿(せつしやうどの)の若君(わかぎみ)もこの御はらにてこそ候はねども、おはし候へば、しろしめさ(れ)んにひが事にて候はじものを」と云(いひ)けるを、あだに目をさまして聞(きき)よろこびて、そのまゝに云あはせつゝかぎりあることゞもばかりをつけて、左大臣にて松殿(まつどの)おはすれば左右(さう)なき事にて摂政にはなされて、興福寺(こうぶくじ)・法成寺(ほふじやうじ)・平等院(びやうどうゐん)・勧学院(くわんがくゐん)、又鹿田(しかだ)・方上(かたがみ)など云所ばかりを摂禄(せつろく)にはつけてたてまつりて、大方(おほかた)の家領鎮西(ちんぜい)のしまづ以下、鴨居殿(かもゐどの)の代々の日記宝物、東三条(ひがしのさんでう)の御所にいたるまで総領(そうりやう)して、邦綱北政所の御後見(おんうしろみ)にて、この近衛殿(このゑどの)の若君なる、やしなひて、世(よ)の政(まつりこと)はみな院の御さたになして、建春門院(けんしゆんもんゐん)はその時小弁殿(こべんどの)とて候ける。時信(ときのぶ)がむすめ、清盛(きよもり)が妻の弟なりければ、これと一(ひとつ)にとりなして、後白河院の皇子小弁殿うみまいらせてもちたりけるを、やがて東三条にわたしまいらせて、仁安二年十月十日東宮にたてまいらせてけり。清盛(きよもり)は同三年二月十一日、病(やまひ)に沈みて、出家(しゆつけ)して後(のち)やみにけり。さて同年四歳の内(うち)をおろしまいらせて、八歳の東宮高倉院を位(くらゐ)につけまいらせてけり。この新院(しんゐん)をば六条院(ろくでうのゐん)とぞ申(まうし)ける。それは十三にて御元服(ごげんぶく)だにもなくてうせ給(たまひ)にけり。邦綱(くにつな)がむすめ嫡女(ちやくぢよ)を御めのとにしたりけり。大夫三位(たいふのさんみ)とて成頼(なりより)が妻なり。成頼(なりより)入道が出家には物語どもあれど無益(むやく)なり。二のむすめをば又この高倉院の東宮の御めのとにして別当(べつたう)の三位(さんみ)と云けり。この事かくはからひたるめでたさに、邦綱は法性寺殿は上階(じやうかい)などまではおぼしめしもよらざりけるに、やがて蔵人頭(くらうどのとう)になして三位(さんみ)・宰相(さいしやう)・東宮権大夫(とうぐうのごんのだいぶ)になして、御めのとにて後(のち)には正二位(にゐ)の大納言までなしてけり。かくて清盛(きよもり)が子ども重盛・宗盛、左右大将になりにけり。我身(わがみ)は大政大臣にて、重盛は内大臣左大将にてありける程に、院は又この建春院になりかへらせ給て、日本国女人(によにん)入眼(じゆがん)もかくのみありければ誠(まこと)なるべし。先(まづ)は皇后宮(くわうごうのみや)、のちに院号(ゐんがうの)国母(こくも)にて、この女院宗盛を又子にせさせ給てけり。承安元年十二月十四日、この平太相国(たひらのだいしやうごく)入道がむすめを入内(じゆだい)せさせて、やがて同二年二月十日立后(りつごう)、中宮とてあるに、皇子を生せまいらせて、いよ/\帝(みかど)の外祖(ぐわいそ)にて世を皆(みな)思(おも)ふさまにとりてんと思ひけるにや、様々(やうやう)の祈(いのり)どもしてありけるに、先(まづ)は母の二位日吉(ひえ)に百日祈(いのり)けれどしるしもなかりければ、入道云やう、「われが祈るしるしなし。今(いま)見給(みたま)へ祈出(いのりい)でん」と云て、安芸国厳島(いつくしま)をことに信仰したりけるへ、はや船つくりて月(つき)まうでを福原よりはじめて祈りける。六十日ばかりの後(のち)御懐姙(ごくわいにん)ときこゑて、治承二年十一月十一日六波羅にて皇子誕生思ひの如くありて、思(おもふ)さまに入道、帝(みかど)の外祖になりにけり。かくて建春門院は安元(あんげん)二年七月八日瘡(かさ)やみてうせ給ひぬ。そのゝち院中あれ行(ゆく)やうにて過(すぐ)る程に、院の男のおぼへにて、成親(なりちか)とて信頼が時あやうかりし人、流(ながさ)れたりしも、さやうの時の師仲(もろなか)まで、内侍所(ないしどころ)、又かのこいとりたし小鈎(かぎ)など持(も)て参(まゐ)りつゝ、かへりて忠ある由申(まうせ)しかば、皆(みな)かやうの物(もの)はめしかへされにける。この成親をことになのめならず御寵(ちよう)ありける。信西(しんぜい)が時の師光(もろみつ)・成景(なりかげ)は、西光・西景とてことにめしつかひけり。康頼(やすより)など云(いふ)さるがうくるい物などにぎ/゛\とめしつかひて、又法勝寺執行(ほつしようじしゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)と云者(いふもの)、僧都(そうづ)になしたびなどして有(あり)けるが、あまりに平家の世のまゝなるをうらやむかにくむか、叡慮(えいりよ)をいかに見けるにかして、東山(ひがしやま)辺に鹿谷(ししのたに)と云所に静賢法印(じやうけんほふいん)とて、法勝寺の前(さきの)執行、信西が子の法師(ほふし)ありけるは、蓮華王院(れんげわうゐん)の執行にて深くめしつかひける。万(よろづ)の事思ひ知(しり)て引(ひき)いりつゝ、まことの人にてありければ、これを又院(ゐん)も平相国(へいしやうごく)も用(もちひ)て、物(もの)など云あはせけるが、いさゝか山荘(さんさう)を造りたりける所へ、御幸(ごかう)のなり/\しける。この閑所(かんじよ)にて御幸の次(ついで)に、成親・西光(さいくわう)・俊寛など聚(あつま)りて、やう/\の議をしけると云事の聞ゑける。これは一定(いちぢやう)の説は知(しら)ねども、満仲(みつなか)が末孫(ばつそん)に多田蔵人行綱(ただのくらうどゆきつな)と云し者を召(めし)て、「用意して候へ」とて白(しろ)しるしの料(れう)に、宇治布(うぢぬの)三十段たびたりけるを持(もち)て、平相国は世の事しおほせたりと思ひて出家して、摂津国の福原(ふくはら)と云所に常にはありける。それへもて行(ゆき)て、「かゝる事こそ候(さふら)へ」と告(つげ)ければ、その返事をばいはで、布(ぬの)ばかりをばとりてつぼにて焼捨(やきすて)て後(のち)、京に上(のぼ)りて安元三年六月二日かとよ、西光法師をよびとりて、八条の堂にてや行にかけてひし/\と問(とひ)ければ、皆おちにけり。白状(はくじやう)かゝせて判(はん)せさせて、やがて朱雀(すざく)の大路(おほぢ)に引(ひき)いでゝ頚(くび)切(きり)てけり。この日は山(やま)の座主(ざす)明雲(めいうん)が方(かたの)大衆(だいしゆう)西坂本(にしさかもと)までくだりて、あくまかり下(くだ)りて侍(はべ)るよし云たりけり。世の中の人あきれまどひたることにて侍(はべり)き。この西光が頚切る前の日、成親の大納言をばよびて、盛俊(もりとし)と云ちからある郎従(らうじゆう)、盛国(もりくに)が子に(て)ありき、それしていだきて打(うち)ふせて、ひきしばりて部屋(へや)に押篭(おしこめ)てけり。公卿(くぎやう)の座に重盛と頼盛と居たりける所へ、「何事にかめしの候へば参(まゐり)て候」とて、諒闇(りやうあん)にて建春門院母后(けんしゆんもんゐんぼごう)にてうせ給(たまひ)て後(のち)の事にてぞ、諒闇のなをしにて、よによくてきたりけり。「出候(いでさふら)はんにこまかに見参(げざん)はせん」とてありけるを、やがてかくしてければ、重盛も思もよらであきれながら、こめたる部屋のもとにゆきて、こしうとのむつびにや、「このたびも御命(おんいのち)ばかりの事は申候はんずるぞ」と云けり。さやうなりけるにや。肥前国へやりて、七日ばかり物を食(くは)せで後、さうなくよき酒を飲(のま)せなどしてやがて死亡してけり。俊寛と検非違使(けびゐし)康頼とをば硫黄島(いわうがしま)と云所(いふところ)へやりて、かしこにて又俊寛は死にけり。安元(あんげん)三年七月廿九日に讚岐院に崇徳院(しゆとくゐん)と云名をば宣下(せんげ)せられけり。かやうの事ども怨霊(をんりやう)をおそれたりけり。やがて成勝寺(じやうしようじ)御八講(ごはつこう)、頼長(よりなが)左府に贈(ぞう)正一位太政大臣のよし宣下(せんげ)などありけり。さて又この年京中大焼亡(ぜうまう)にて、その火大極殿(だいごくでん)に飛付(とびつき)てやけにけり。これによりて改元(かいげん)、治承(ぢしよう)とありけり。入道(にふだう)かやうの事ども行(おこな)ひちらして、西光(さいくわう)が白状(はくじやう)を持(もち)て院へ参りて、右兵衛督(うひやうゑのかみ)光能卿(みつよしきやう)を呼出(よびいだ)して、「かゝる次第にて候へばかく沙汰し候(さふらひ)ぬ。是は偏(ひとへ)に為世為君に候。我身の為は次の事にて候」とぞ申(まうし)ける。さてやがて福原へ下(くだ)りにけり。下りざまの出たちにて参りたりけり。これより院にも光能までも、「こはいかにと世はなりぬるぞ」と思ひける程に、小松内府(こまつないふ)重盛治承三年八月朔日うせにけり。この小松内府はいみじく心うるはしくて、父入道が謀叛心(むほんしん)あるとみて、「とく死なばや」など云と聞(きこ)へしに、いかにしたりけるにか、父入道が教(をしへ)にはあらで、不可思議の事を一(ひと)つしたりしなり。子にて資盛(すけもり)とてありしをば、基家中納言(もといへちゆうなごん)婿(むこ)にしてありし。さて持明院(ぢみやうゐん)の三位中将(さんみちゆうじやう)とぞ申(まうし)し。それがむげにわかゝりし時、松殿(まつどの)の摂禄臣(せつろくのしん)にて御出(ぎよしゆつ)ありけるに、忍びたるありきをしてあしくいきあひて、うたれて車の簾(みす)切れなどしたる事のありしを、ふかくねたく思(おもひ)て、関白嘉応(かおう)二年十月廿一日高倉院御元服(ごげんぶく)の定(さだめ)に参内(さんだい)する道にて、武士等をまうけて前駈(ぜんく)の髻(もとどり)を切(きり)てしなり。これによりて御元服(の)定のびにき。さる不思議ありしかど世に沙汰もなし。次の日より又松殿も出仕うちしてあられけり。このふしぎこの後(のち)のちの事どもの始(はじめ)にてありけるにこそ。この松殿は摂禄(せつろく)の後(のち)、年比(としごろ)の北方(きたのかた)三条の内大臣公教(きみのり)の女(むすめ)にむことられて、その子ども実房(さねふさ)・実国(さねくに)など云人々ともして沓(くつ)とり簾(みす)もたげて、法性寺殿(ほつしやうじどの)の存日(ぞんじつ)よりの事にていみじかりけるを、花山太相国(くわさんだいしやうごく)忠雅(ただまさ)むすめをもちたりける、摂禄の北政所(きたのまんどころ)になしたがりて、むこにとり申てけり。世間のゆゝしき沙汰にて、最愛(さいあい)の中(なか)になりて、師家(もろいへ)と云子うみて、八歳にて中納言(ちゆうなごん)になして、かゝる事ども出きにけり。その後はわざと、殿下(でんか)御出(ぎよしゆつ)とてあれば実房は直衣(なほし)の袖(そで)中門廊(ちゆうもんらう)の妻戸(つまど)にさし出すやうにて、無愛(むあい)にのみふるまひければ、あれみよなど人云けり。兼雅(かねまさ)は又かはりて、そのたうこそは家礼(けらい)はしけめ。あはれたゞ器量(きりやう)と云もの一(ひとつ)にぞ大切なれ。さて白河殿(しらかはどの)と云し北政所も、延勝寺(えんしようじ)の西にいみじく家(いへ)つくりてありしも、治承(ぢしよう)三年六月十七日うせられにけり。これは中一年(なかいちねん)ありて小松内府(こまつないふ)は八月朔日うせて後(のち)、かれが年比(としごろ)しりける越前国を、入道にもとかくの仰(おほせ)もなくて左右(さう)なくめされにけり。又白河殿うせて一(いち)の所(ところ)の家領(けりやう)文書(もんじよ)の事など松殿申(まう)さるゝ旨ありけり。院もやう/\御沙汰どもありけりなど聞(きこえ)て、をとゝしの事どもふかくきざして上に、いかなるこの外(ほか)のやうかありけん、入道福原より武者(むしや)だちてにはかにのぼりての、我身(わがみ)も腹巻(はらまき)はづさずなどきこゑき。かくして同(おなじ)き治承三年十一月十九日に解官(げくわん)の除目(ぢもく)、同廿一日に任官(にんくわん)除目と云(いふ)ものを行ひて、この近衛殿(このゑどの)の二位中将(にゐのちゆうじやう)とて年は二十にてありしを、一どに内大臣になしてき。重盛が内大臣(の)闕(けつ)いまだならざりし所なり。さてやがて関白(くわんぱく)内覧臣(ないらんのしん)になしてき。九条(くでう)の右大臣兼実(かねざね)は右大臣にて法性寺殿(ほつしやうじどの)の三男(さんなん)、さゝいなくて、天下の事預顧問て、兵杖(ひやうぢやう)の大臣にて候(さふら)はれしをこゑて、しかもこの右大臣に、「殊に扶持(ふち)し給へ」とて、子の二位の中将とて良通(よしみち)十二にてありしを、一度にこの除目に中納言の右大将(うだいしやう)になしなどして、やがて関白をば備前国へながすともなく、邦綱(くにつな)が沙汰にてくだし申(まうし)ければ、俄(にはか)に鳥羽(とば)にて大原(おほはら)の本覚房(ほんかくばう)よびて出家せられにけり。院の近習(きんじふ)の輩(やから)散々(ちりぢり)に国々へやりて、やがて院をばその廿日鳥羽殿(とばどの)に御幸(ごかう)なして、人ひとりもつけまいらせず、僅(わづか)に琅慶(らうけい)と云僧一人など候はする体(てい)にて置(おき)まいらせて、後(のち)に御思(おんおも)ひ人(びと)浄土寺(じやうどじ)の二位(にゐ)をば、其時は丹後と云し、そればかりはまいらせられたりけり。同四年五月十五日に、高倉(たかくら)の宮(みや)とて、院(の)宮に、高倉の三位とておぼゑせし女房(にようばう)うみまいらせたる御子(みこ)おはしき。諸道(しよだう)の事沙汰(さた)ありて王位に御心(おこころ)かけたりと人思ひたりき。この宮をさうなくながしまいらせんとて、頼政源三位(よりまさげんざんみ)が子に兼綱(かねつな)と云検非違使(けびゐし)を追(おひ)つかいにまいらせて、三条高倉の御所へまいれりけるを、とに逃(のがれ)させ給(たまひ)て、三井寺(みゐでら)に入(いら)せ給たりけるを、寺法師(てらのほふし)どももてなして道々切(きり)ふたぎたりけるに、頼政はもとより出家したりけるが、近衛河原(このゑかはら)の家やきて仲綱(なかつな)伊豆守、兼綱などぐして参りにけり。宮をにがしまいらせたる一(ひと)すぢにやとぞ人は思へりける。こはいかにと天下は只今たゞいまとのゝしりき。さてたゞへておはしますべきならねば、落(おち)て吉野(よしの)の方(かた)へ奈良をさしておはしましける。頼政三井寺へ廿二日に参(まゐり)て、寺より六波羅へ夜打(ようち)いだしたてゝある程(ほど)に、おそくさして松坂(まつさか)にて夜明(よあけ)にければ、この事のとげずして、廿四日に宇治へ落させ給て、一夜(いちや)おはしましける。廿五日に平家押(おし)かけて攻寄(せめよせ)て戦ひければ、宮の御方にはたゞ頼政が勢誠にすくなし。大勢(おおぜい)にて馬いかだにて宇治河わたしてければ、何わざをかはせん。やがて仲綱は平等院(びやうどうゐん)の殿上(てんじやう)の廊に入て自害(じがい)してけり。にゑ野の池を過(すぐ)る程にて、追(おひ)つきて宮(みや)をば打(うち)とりまいらせてけり。頼政もうたれぬ。宮の御ことはたしかならずとて御頚(おくび)を万(よろづ)の人(ひと)にみせける。御学問(ごがくもん)の御師(おんし)にて宗業(むねなり)ありければ、召(めし)て見せられなんどして一定(いちぢやう)なりければ、さてありける程に、宮はいまだおはしますなど云事云(い)ひ出して、不可思議の事どもありけれど、信じたる人のおこにてやみにき。さてやがて寺(てら)へは武士いれて、堂舎(だうしや)をのぞきて房々(ばうばう)はおほくやきはらはせてき。さて宮の三井寺よりならへおはします事は、奈良・吉野の方(かた)にうけとりまいらせんと支度(したく)したりければ、ふかくやす(か)らぬことにして、南都(なんと)を追討(つゐたう)せんとて公卿僉議(くぎやうせんぎ)行ひけり。隆季(たかすゑ)・通親(みちちか)など云(いふ)公卿一(ひと)すぢに、平禅門(へいぜんもん)になりかへりたりければ、さるべきよし申(まうし)けるを、左右(さいう)大臣にて経宗(つねむね)・兼実(かねざね)多年ならびておはしける、右大臣(うだいじん)おもひきりて、「一定(いちぢよう)謀叛(むほん)の証拠(しようご)なくて、さうなくさ程(ほど)の寺を追討はさらにゑ候(さふら)はじ。就中春日大明神(かすがだいみやうじん)日本第一守護(しゆご)の神明(しんめい)也。王法(わうぼふ)仏法(ぶつぽふ)如牛角。不可被滅」之由、愚詞(ぐし)申(まう)されにければ、左大臣経宗は昔のならひにおそれてよもこれに同ぜじと人思(おも)へりけるに、「右大臣申さるゝ旨(むね)一言(ひとこと)あだならず。ひしとこれに同じ申(まうす)」と申たりければ、さすがに左右大臣申さるゝ旨然(しか)るべしとてその時はやみにけり。又治承四年六月二日忽(たちまち)に都(みやこ)うつりと云(いふ)事行ひて、都を福原へ移して行幸なして、とかく云ばかりなき事どもになりにけり。乍去さてあるべき事ならねば、又公卿僉議行ひて、十一月廿三日還都(くわんと)ありて、すこし人も心(こころ)おちいて有(あり)けるに、猶(なほ)十二月廿八日に遂に南都へよせて焼(やき)はらひてき。その大将軍(たいしやうぐん)は三位(さんみ)中将重衡(しげひら)なり。あさましとも事もおろかなり。長方(ながかた)中納言が云けるは、「こはいかにと思ひしに、さらに公卿僉議とてありしに、かへりなんと思ふよと推知してしかば、放詞さてよかるべき由申(まうし)てき」とぞ云ける。さてかう程に世の中の又なりゆく事は、三条宮(さんでうのみや)寺(てら)に七八日おはしましける間(あひだ)、諸国七道へ宮の宣(せん)とて武士を催(もよほ)さるゝ文(ふみ)どもを、書(かき)ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、伊豆国に義朝が子頼朝兵衛佐(ひやうゑのすけ)とてありしは、世の事をふかく思(おもひ)てありけり。平治(へいぢ)の乱に十三にて兵衛佐とてありけるを、その乱は十二月なり、正月に永暦(えいりやく)と改元(かいげん)ありける二月九日、頼盛(よりもり)が郎等(らうどう)に右兵衛尉(じよう)平宗清(むねきよ)と云者ありけるが、もとめ出してまいらせたりける。この頼盛が母と云は修理権大夫宗兼(しゆりごんのだいぶむねかね)が女(むすめ)なり。いひしらぬ程(ほど)の女房(にようばう)にてありけるが、夫(をつと)の忠盛(ただもり)をももたへたる者なりけるが、保元の乱にも、頼盛が母が新院(しんゐん)の一宮(いちのみや)をやしなひまいらせければ、新院の御方(おんかた)へまいるべき者にて有けるを、「この事は一定新院の御方はまけなんず。勝(かつ)べきやうもなき次第なり」とて、「ひしと兄(あに)の清盛(きよもり)につきてあれ」とおしへて有ける。かやうの者にて、この頼朝はあさましくおさなくて、いとおしき気(け)したる者にてありけるを、「あれが頚(くび)をばいかゞは切(きら)んずる。我(われ)にゆるさせ給へ」となく/\こひうけて、伊豆には流刑(るけい)に行ひてけるなり。物(もの)の始終(しじゆう)は有興不思議なり。其時もかゝる又打(うち)かへして世(よ)のぬしとなるべき者なりければにや、頼盛をもふかく(た)のみたる気色(けしき)にて有(あり)けるなりけり。この頼朝、この宮の宣旨(せんじ)と云物(いふもの)をもて来(きた)りけるを見て、「さればよ、この世の事はさ思(おもひ)しものを」とて心(こころ)おこりにけり。又光能卿(みつよしきやう)院の御気色(みけしき)をみて、文覚(もんがく)とてあまりに高雄(たかを)の事(こと)すゝめすごして伊豆に流されたる上人(しやうにん)ありき。それして云やりたる旨(むね)も有けるとかや。千但(ただし)これはひが事なり。文覚・上覚(じやうがく)・千覚(せんがく)とてぐしてあるひじり流されたりける中、四年同じ伊豆国にて朝夕(てうせき)に頼朝に馴(なれ)たりける、その文覚、さかしき事どもを、仰(おほせ)もなけれども、上下(じやうげ)の御の内をさぐりつゝ、いゝいたりけるなり。さて治承四年より事をおこしてうち出けるには、梶原平三景時(かぢはらへいざうかげとき)、土肥次郎実平(どひのじらうさねひら)、舅(しうと)の伊豆の北条四郎時政(ほうでうしらうときまさ)、これらをぐして東国(とうごく)をうち従へんとしける程(ほど)に、平家世を知(しり)て久(ひさし)くなりければ、東国にも郎等(らうどう)多(おほ)かりける中に、畠山荘司(はたけやましやうじ)、小山田別当(こやまだべつたう)と云者兄弟にてありけり。これらはその時(とき)京にありければ、それらが子どもの荘司次郎(しやうじじらう)など云者どもの押寄(おしよせ)て戦(たたかひ)て、筥根(はこね)の山に逐(おひ)こめてけり。頼朝よろひぬぐ程になりにければ、実平ふるき者にて、「大将軍(たいしやうぐん)のよろひぬがせ給ふは、やうある事ぞかし」とて、松葉(まつば)をきりて冑(かぶと)の下にしかせて、甲(よろひ)を取(とり)て上におきなんどして、いみじき事どもふるまひけるとかや。かくてこれらぐして船に乗(のり)て、上総(かづさ)の介(すけ)の八郎広経(ひろつね)が許(もと)へ行(ゆき)て勢(せい)つきにける後(のち)は、又東国の者(もの)皆(みな)従ひにけり。三浦党(みうらたう)は頼朝がりきける道(みち)にて畠山とは戦ひたりけり。それより一所(いつしよ)にあつまりにけり。北国(ほつこく)の方(かた)には、帯刀先生(たちはきせんじやう)義方(よしかた)が子にて、木曾冠者(きそのくわざ)義仲(よしなか)と云者などおこりあひけり。宮(みや)の御子(みこ)など云人くだりておはしけり。清盛(きよもり)は三条の以仁の宮うちとりて、弥(いよいよ)心おごりつゝ、かやうにしてありけれど、東国に源氏(げんじ)おこりて国の大事になりにければ、小松内府嫡子三位中将維盛(これもり)を大将軍にして、追討(つゐたう)の宣旨下(くだ)して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人(ひと)見物(けんぶつ)して有し程に、駿河の浮島原(うきしまばら)にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆(みな)落(おち)て敵の方へゆきにければ、かへりのぼりけるは逃(にげ)まどひたる姿にて京へ入(いり)にけり。其後(そののち)平相国入道(へいしやうごくにふだふ)は同五年閏二月五日、温病(をんびやう)大事(だいじ)にて程(ほど)なく薨逝(こうせい)しぬ。その後(のち)に法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣(つぎ)て沙汰しける。高倉院は先立(さきだち)て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて、このいくさにかたん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成(なり)にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程(ほど)すぎけるに、先づ北陸道の源氏すゝみて近江国にみちけり。これよりさき越前の方(かた)へ家(いへ)の子(こ)どもやりたりけれど、散(さん)/゛\に追(おひ)かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かゝりける程に七月廿四(日)の夜、事(こと)火急(くわきふ)になりて、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、「治承三年冬の比(ころ)あしざまなる事ども聞(きこ)ゑしかば、ながく弓箭(ゆみや)のみちはすて候(さふらひ)ぬる由(よし)故入道殿(こにふだどの)に申(まうし)てき。遷都(せんと)のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」と云(いひ)けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。かやうにしてけふあす義仲・東国武田(たけだ)など云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるにてをのゝきあいける程に、廿四日の夜半(よは)に法王(ほふわう)ひそかに法住寺殿(ほふじゆうじどの)をいでさせ給ひて、鞍馬(くらま)の方(かた)よりまはりて横川(よかは)へのぼらせをはしまして、あふみの源氏がりこの由仰(おほせ)つかはしけり。たゞ北面下臈(ほくめんげらふ)にともやす、つゝみの兵衛と云(いふ)男(をとこ)御輿(みこし)かきなんどしてぞ候ける。暁(あかつき)にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午(たつみうま)両三時(じ)ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽(とば)の方(かた)へ落(おち)て、船にのりて四国(しこく)の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼(やき)ければ、京中に物とりと名付(なづけ)たる者いできて、火の中へあらそい入(いり)て物とりけり。その中(なか)に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞(きき)て先(まづ)子(こ)の兵衛佐為盛(ためもり)を使(つかひ)にして鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事(へんじ)をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、やがて追様(おひざま)に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛(すけもり)はそのころ院のおぼゑしてさかりに候ければ、御気色(みけしき)うかゞはんと思(おもひ)けり。この二人鳥羽より打(うち)かへり法住寺殿に入り居ければ、又京中地(ち)をかへしてけるが、山へ二人ながら事由(ことのよし)を申たりければ、頼盛には、「さ聞食(きこしめし)つ。日比(ひごろ)よりさ思食(おぼしめし)き。忍(しのび)て八条院(はちでうゐんの)辺(へん)に候へ」と御返事承(うけたまは)りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅(くわんが)法印が妻はしうとめなれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申いるゝ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落てあいぐしてけり。さて廿五日東塔(とうたふ)円融房(ゑんゆうばう)へ御幸なりてありければ、座主(ざす)明雲(めいうん)はひとへの平氏の護持僧(ごぢそう)にて、とまりたるをこそわろしと云ければ、山(やま)へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂禄(せつろく)の近衛殿(このゑどの)は一定(いちぢやう)ぐして落ぬらんと人は思ひたりけるも、ちがいてとゞまりて山へ参りにけり。松殿入道(まつどのにふだう)も九条右大臣も皆のぼりあつまりけり。その刹那(せつな)京中はたがいについぶくをして物もなく成(なり)ぬべかりければ、「残(のこり)なく平氏は落(おち)ぬ。をそれ候まじ」にて、廿六日のつとめて御下京(ごげきやう)ありければ、近江に入(い)りたる武田先(まづ)まいりぬ。つゞきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条(ろくでう)堀川なる八条院のはゝき尼が家(いへ)を給(たまは)りて居(ゐ)にけり。かくてひしめきてありける程に、いかさまにも国王は神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)・内侍所(ないしどころ)あいぐして西国(さいごく)の方(かた)へ落給(おちたま)ひぬ。この京に国主(こくしゆ)なくてはいかでかあらんと云(いふ)さたにてありけり。「父法皇をはしませば、西国王(にしのこくわう)安否之後(のち)歟」などやう/\にさたありけり。この間(あひだ)の事は左右(さいう)大臣、松殿入道(まつどのにふだう)など云人に仰合(おほせあはせ)けれど、右大臣の申さるゝむねことにつまびらか也とて、それをぞ用ひられける。さていかにも/\践祚(せんそ)はあるべしとて、高倉院の王子三人をはします。一人は六はらの二位(にゐ)やしないて船にぐしまいらせてありけり。いま二人は京にをはします。その御中(おんなか)に三宮(さんのみや)・四宮(しのみや)なるを法皇よびまいらせて見まいらせられけるに、四宮御をもぎらいもなくよびをはしましけり。又御うらにもよくをはしましければ、四宮を寿永二年八月廿日御受禅(ごじゆぜん)をこなはれにけり。よろづ新儀どもなれど、仰合(おほせあはせ)つゝ、右大臣ことに申(まうし)をこなひて、国王こゝに出きさせをはしまして、世(よ)はさればいかに落居(おちゐ)なんずるぞと、日本国(にほんこく)のなれる様(やう)今はかうにこそとて、摂禄臣(せつろくのしん)こそ如此はさたすることを、山よりくだらせ給ふまゝに、近衛殿(このゑどの)摂禄もとのごとしと被仰にけり。一定(いちぢやう)平氏にぐして落(おつ)べき人のとまりたればにや。又いかなるやうかありけん。されど近衛殿はかやうの事申(まうし)さたすべき人にもあらず。すこしもをぼつかなき事は右大臣に問(とひ)つゝこそをはしければ、たゞ名(な)ばかりの事にて、庄園文書まゝ母の我よりも弟なりしが手よりゑたる由にて、清盛(きよもり)にかくしなされたる人にてあるが、猶かくてあら(は)るゝ。いかにも/\人は心ゑぬことにてありしをば皆心ゑられたり。かう程にみだれん世は事もいはれたる事はあるまじき時節(じせつ)なるべし。大方(おほかた)摂禄臣はじまりて後(のち)これ程に不中用(ふちゆうよう)なる器量(きりやう)の人はいまだなし。かくてこの世はうせぬる也。贈(ぞう)左大臣範季(のりすゑ)の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院(ゐん)は今熊野(いまくまの)にこもらせ給て候(さふらひ)しに、近習(きんじふ)にめしつけられて候しかば、ひまの候しに、「いかにも/\今は叶(かなひ)候まじ。東国武士は夫(〈ふ〉)までも弓箭(ゆみや)にたづさいて候へば、此平家(へいけ)かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しかば、ゑませをはしまして、「いまその期(ご)にこそは」と仰の候し」とかたりけり。もとより(の)御案なりけり。この範季は後鳥羽院(ごとばゐん)をやしないたてまいらせて、践祚の時もひとへにさたしまいらせし人也。さて加階(かかい)は二位までしたりしかども、当今(たうぎん)の母后(ぼごう)のちゝなり。さて贈位(ぞうゐ)もたまはれり。範季がめい刑部卿(ぎやうぶきやう)の三位(さんみ)と云しは能円(のうゑん)法師が妻也。能円は土御門院(つちみかどゐん)の母后承明門院(しようめいもんゐん)の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹(はら)也。その上御めのとにて候(さふらひ)しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落(おち)し時あいぐして平氏の方(かた)にありしかば、其後(そののち)は刑部卿の三位もひとへに範季をぢにかゝりてありしなり。それを通親(みちちか)内大臣又思(おもひ)て、子をいくらともなくむませて有(あり)き。故卿(きやう)の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君につきまいらせて、かゝる果報(くわはう)の人になりたるなり。かやうにてすぐる程に、この義仲は頼朝を敵(かたき)に思ひけり。平氏は西海(さいかい)にて京へかへりいらんと思ひたり。この平氏と義仲と云(いひ)かはして、一(ひとつ)になりて関東(くわんとう)の頼朝をせめんと云事出きて、つゝやきさゝやきなどしける程に、是も一定(いちぢやう)もなしなどにてありけるに、院(ゐん)に候北面下臈(ほくめんげらふ)友康(ともやす)・公友(きみとも)など云者、ひた立(たて)に武士を立て、頼朝こそ猶本体(ほんたい)とひしと思て、物(もの)がらもさこそきこへければ、それををもはへて頼朝が打(うち)のぼらんことをまちて、又義仲何ごとかはと思けるにて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)院御所を城(しろ)にしまはしてひしとあふれ、源氏山々寺々(やまやまてらでら)の者(もの)をもよほして、山の座王(ざす)明雲(めいうん)参りて、山の悪僧ぐしてひしとかためて候けるに、義仲は又今は思ひきりて、山田・樋口(ひぐち)・楯(たて)・根(ね)の井(ゐ)と云四人の郎従(らうじゆう)ありけり、我勢(わがせい)をちなんず、落ぬさきにとや思ひけん、寿永二年十一月十九日に、法住寺殿へ千騎内(うち)五百余きなんとぞ云けるほどの勢にてはたとよせてけり。義仲が方に三郎先生(さぶらうせんじやう)と云源氏ありけるも、かく成(なり)にければ皆御方(みかた)へまいりたりけるが、猶義仲に心をあはせて、最勝光院(さいしようくわうゐん)の方をかためたりける山の座主が方にありけるが内より、座主の兵士(ひやうじ)なにばかりかはあらんを、ひし/\と射(い)けるほどに、ほろ/\と落にけり。散(さん)/゛\に追(おひ)ちらされて、しかるべき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)宮(みや)なにか皆武士にとられにけり。殿上人己上の人には美乃守信行(のぶゆき)と云者ぞ当座(たうざ)にころされにける。そのほかは死去(しきよ)の者は上臈(じやうらふ)ざまにはさすがになかりけり。さるやうなる武士も皆にげにけり。院の御幸は清浄光院(しやうじやうくわうゐん)の方へなりたりけり。武士参りてうるはしく六条(ろくでう)の木曾が六条のかたはらに信成(のぶなり)が家あるにすゑまいらせてけり。当時の六条殿はこれなり。さて山の座主明雲、寺の親王八条宮(はちでうのみや)と云院の御子(みこ)、これ二人はうたれ給(たまひ)ぬ。明雲が頚(くび)は西洞院河(にしのとうゐんがは)にてもとめ出(いだし)て顕真(けんしん)とりてけり。かゝりけるほどにそれにぐして見たる者の申(まうし)けるは、「我(わが)かためたる方(かた)落(おち)ぬと聞(きき)て、御所(ごしよ)に候けるが、長絹(ちやうけん)の衣(ころも)に香(かう)のけさぞきたりける、こしかきも何もかなはで馬にのせて弟子(でし)少々ぐして、蓮花王院の西のついぢのきはを南ざまへ逃(にげ)けるに、その程にてをゝく射かけゝる矢の、鞍のしづはの上より腰に立(たち)たりけるを、うしろより引(ひき)ぬきける。くゝりめより血ながれ出でけり。さて南面のすゑに田井のありける所にて馬より落(おち)にけり。武者(むしや)ども弓をひきつゝ追(おひ)ゆきけり。弟子に院の宮、後には梶井(かぢゐ)宮とてきと座主(ざす)になられたりしは、十五六にて有(あり)けるは、かしこく「「われは宮なり」と名のられければ、生(いけ)どりに取(とり)て武者の小家(こいへ)に唐櫃(からびつ)の上にすゑたりけり」とぞ聞(きこ)へし。八条宮はぐしたりける人あしく、衣(ころも)けさなんどをぬがせ申(まうし)て、こんのかたびらをきせたてまつりたりければ、はしりかゝりて武者のきらんとしけるに、うしろに少将房とてちかくつかはれける僧は、院の御所に候(さふらふ)源馬助俊光(みなもとのうまのすけとしみつ)と云(いふ)があに也、その僧の、「あに」と云て手をひろげたりけるかいなを、打落(うちおと)すまでは見きと申者ありけり。山座主(やまのざす)が頚(くび)をとりて木曾にかう/\と云ければ、「なんでうさる者」と云ければ、たゞ西洞院川にすてたりけるなめり。「院の御前(ごぜん)に御室(おむろ)のをはしける、一番に逃給(にげたま)ひにけり。口惜(くちをし)き事也」とぞ人申(まうし)し。明雲は山にて座王あらそいて快修(くわいしう)とたゝかいして、雪の上に五仏院より西塔まで四十八人ころさせたりし人なり。すべて積悪(しやくあく)をゝかる人なり。西光(さいくわう)が頚きらるゝ日は、山大衆(のだいしゆう)西坂本にくだりて、「これまで候」などいはせて、平人道(へいにふだう)は、「庭にたゝみしきて、大衆大(おほ)だけへかへりぼらせ給ふ火のみゑ候しまでは、をがみ申候き」など云けるとぞ聞へし。かやうにて今日(けふ)は又この武者して候ことこはいかにと、さすがに世の末にもふかくかたぶく人多かりけり。寺(てら)の宮(みや)は尊星王法(そんしやうわうほふ)をこなはれけり。院(ゐん)事(こと)をはしますべくはかはりまいらせんと祭文(さいもん)にかゝれたりけりとぞ申し。又三条宮寺にをはせしを、追いだす方(かた)の人なりきなども申き。いかにも/\この院の木曾と御たゝかいは、天狗(てんぐ)のしわざうたがいなき事也。これをしづむべき仏法もかく人の心わろくきはまりぬれば、利生(りしやう)のうつは物にあらず。術(すべ)なき事なり。さて義仲は、松殿(まつどの)の子十二歳なる中納言、八歳にて中納言になられて八歳の中納言と云異名(いみやう)ありし人を、やがて内大臣に成(な)して摂政(せつしやう)長者(ちやうじや)になり、又大臣の闕(けつ)もなきに実定(さねさだ)の内大臣を暫(しばし)とてかりてなしたれば、世にはかるの大臣と云異名又つけてけり。さて松殿世をおこなはるべきにて有りき。さしも平家にうしなはれ給(たまひ)てしかば、この時だにもなど云心(こころ)にこそ。さて除目(ぢもく)おこなひて善政(ぜんせい)とをぼしくて、俊経宰相(としつねさいしやう)になしなどしてありし程に、かゝる次第なれば、一(いち)の所(ところ)の家領(けりやう)文書(もんじよ)は松殿皆すべてさたせらるべきにて、近衛殿(このゑどの)はほろ/\と成りぬるにてありければ、法皇の近衛殿をいかにも/\いとをしき人に思はせ給て、賀陽院(かやゐん)方の領と云は、近衛殿のてゝの中殿(なかどの)賀陽院の御子(みこ)になりてつたへ(給へ)る方(かた)なれば、そればかりをば近衛殿にゆるさるべしやと、その世にも猶院(ゐん)より仰(おほせ)られたりけるを、しかるべからぬやうに返事を申されたりける、くちをしくをぼしめしたりける也。松殿なんど程の人も、かくて木曾が世にて、世をながくしらんずとをぼしけるにやと返返(かへすがへす)くちをしき事也。九条殿はうるせく、その時(とき)とりいだされずして松殿になりけるをば、事がらも十二歳のをもて方こそあさましけれど、松殿の返(かへ)りなりたるにてこそあれ、いみじ/\とて、我(わ)れのがれたるをば仏神のたすけとよろこばれけり。かゝる程にやがて次の年正月の廿日、頼朝この事きゝて、弟に九郎と云ひし者に、土肥実平(どひのさねひら)・梶原景時(かぢはらのかげとき)・次官親能(すけのちかよし)など云者(いふもの)さしのぼせたるが、左右(さう)なく京へ打(うち)いりて、その日の内(うち)に打取(うちとり)て頚とりてき。その時すでに坂東武者(ばんどうむしや)せめのぼると聞(きき)て、義仲は郎等(らうどう)どもを、勢多(せた)・宇治(うぢ)・淀(よど)なんどの方へちらしてふせがせんと、手びろにくはだてゝ有(あり)けるほどに、すゝどに宇治の方より、九郎、ちかよしはせ入りて川原に打立(うちたち)たりときゝて、義仲はわづかに四五騎にてかけ出でたりける。やがて落(おち)て勢多の手にくはゝらんと大津(おおつ)の方へをちけるに、九郎をひかゝりて大津の田中にをいはめて、伊勢三郎と云(いひ)ける郎等、打てけりときこへき。頚もちて参りたりければ、法皇は御車(おくるま)にて御門(ごもん)へいでゝ御覧(ごらん)じけり。さて平氏宗盛内大臣は、我主(わがしゆ)とぐしたてまつりて、義仲と一(ひとつ)にならんずるしたくにて、西国より上洛せしめて、福原につきてありける程に、同寿永三年二月六日やがて此頼朝が郎従(らうじゆう)等をしかけて行(ゆき)むかいてけり。それも一(いち)の谷(たに)と云ふ方に、からめ手にて、九郎は義経(よしつね)とぞ云ひし、後(のち)の京極殿(きやうごくどの)の名にかよひたれば、後(のち)には義顕(よしあき)とかへさせられにき、この九郎その一の谷より打いりて、平家の家(いへ)の子(こ)東大寺やく大将軍重衡(しげひら)いけどりにして、其外(そのほか)十人ばかりその日打取てけり。教盛(のりもり)中納言の子の通盛(みちもり)三位、忠度(だだのり)など云者どもなり。さて船にまどいのりて宗盛又をちにけり。其後やがて寿永三月四月十六日に、崇徳院(しゆとくゐん)■宇治贈太政大臣宝殿(はうでん)つくりて社壇(しやだん)春日河原(かすがはら)保元戦場にしめられて、範季(のりすゑ)朝臣奉行(ぶぎやう)して霊蛇(れいじや)出きたり。又預(あづかり)になされたる神祇権大副(じんぎごんのおほすけ)卜部兼友(うらべかねとも)夢相(むさう)ありなんどきこへき。この事はこの木曾が法住寺(ほふぢゆうじ)いくさのこと、偏(ひとへ)に天狗(てんぐ)の所為(しよゐ)なりと人をもへり。いかにもこの新院(しんゐん)の怨霊(をんりやう)ぞなど云事にて、たちまちにこの事出きたり。新院の御をもい人の烏丸殿とてありし、いまだいきたりければ、それも御影堂(みゑいだう)とて綾小路河原(あやのこうぢかはら)なる家につくりて、しるしども有りとてやう/\のさたどもありき。かやうにて平氏は西国に海にうかびつゝ国々領したり。坂東(ばんどう)は又あきたれど末落居京中の人あざみなげきてある程に、元暦二年三月廿四日に船いくさの支度(したく)にて、いよ/\かくと聞(きき)て、頼朝が武士等かさなりきたりて西国にをもむきて、長門の門司関(もじのせき)だんの浦と云ふ所にて船のいくさして、主上をばむばの二位(にゐ)宗盛母いだきまいらせて、神璽(しんじ)・宝剣(はうけん)とりぐして海に入りにけり。ゆゝしかりける女房(にようばう)也。内大臣宗盛以下かずをつくして入海(にふかい)してける程に、宗盛は水練(すいれん)をする者にて、うきあがり/\して、いかんと思ふ心(こころ)つきにけり。さていけどりにせられぬ。主上の母后(ぼごう)建礼門院をば海よりとりあげて、とかくしていけたてまつりてけり。神璽・内侍所(ないしどころ)は同(おなじ)き四月廿五日にかへりいらせ給(たまひ)にけり。宝剣は海にしづみぬ。そのしるしの御はこはうきて有(あり)けるを、武者(むしや)とりて尹明(これあき)がむすめの内侍にてありけるにみせなんどしたりけり。内侍所は、大納言時忠(ときただ)とて二位がせうと有りき、ぐしてある者どもの中に、時信子(ときのぶのこ)にてつかへし者にて、さかしきことのみして、たび/\ながされなんどしたりし者、とりてもちたりけり。これ皆とりぐして京へのぼりにけり。二宮(にのみや)もとられさせ給て上西門院(じやうさいもんゐん)にやしなはれてをはしけり。宝剣の沙汰(さた)やう/\にありしかど、終(つひ)にゑあまもかづきしかねて出でこず。其間(そのあひだ)の次第はいかにともかきつくすべき事ならず。たゞをしはかりつべし。大事(だいじ)のふし/゛\ならぬ事はその詮(せん)もなければ書(かき)をとすことのみ有り。其後(そののち)この主上をば安徳天皇とつけ申(まうし)たり。海にしづませ給ひぬることは、この王(きみ)を平相国(へいしやうごく)いのり出しまいらする事は、安芸のいつくしまの明神(みやうじん)の利生(りしやう)なり。このいつくしまと云ふは龍王(りゆうわう)のむすめなりと申つたへたり、この御神(おんかみ)の、心ざしふかきにこたへて、我身のこの王(きみ)と成(なり)てむまれたりけるなり、さてはてには海へかへりぬる也とぞ、この子細しりたる人は申ける。この事は誠(まこと)ならんとをぼゆ。抑(そもそも)この宝剣うせはてぬる事こそ、王法(わうぼふ)には心うきことにて侍(は)べれ。これをもこゝろうべき道理さだめてあるらんと案をめぐらすに、これはひとへに、今は色(いろ)にあらはれて、武士のきみの御まもりとなりたる世になれば、それにかへてうせたるにやとをぼゆる也。そのゆへは太刀(たち)と云ふ剣(つるぎ)はこれ兵器の本(もと)也。これは武(ぶ)の方(かた)のをほんまもり也。文武(ぶんぶ)の二道(にだう)にて国主は世をおさむるに、文は継体守文(けいていしゆぶん)とて、国王のをほん身につきて、東宮には学士(がくし)、主上には侍読(じとく)とて儒家(じゆか)とてをかれたり。武の方をばこの御まもりに、宗廟(そうべう)の神ものりてまもりまいらせらるゝなり。それに今は武士大将軍(ぶしのたいしやうぐん)世をひしと取(とり)て、国主、武士大将軍が心をたがへては、ゑをはしますまじき時運(じうん)の、色(いろ)にあらはれて出きぬる世ぞと、大神宮八幡大菩薩(だいじんぐうはちまんだいぼさつ)もゆるされぬれば、今は宝剣もむやくになりぬる也。高倉院をば平民たてまいらする君なり。この陛下(へいか)の兵器の御まもりの、終(つひ)にこのをりかくうせぬる事こそ、あらはに心ゑられて世のやうあはれに侍(はべ)れ。大方(おほかた)は上下(じやうげ)の人の運命も三世(さんぜ)の時運(じうん)も、法爾自然(ほふにじねん)にうつりゆく事なれば、いみじくかやうに思ひあはするも、いはれずとをもふ人もあるべけれど、三世に因果(いんぐわ)の道理と云物(いふもの)をひしとをきつれば、その道理と法爾の時運とのもとよりひしとつくり合(あは)せられて、ながれくだりもゑのぼる事にて侍(はべる)なり。それを智ふかき人はこのことはりのあざやかなるをひしと心へつれば、他心智(たしんち)末来智(みらいち)などをゑたらんやうに、すこしもたがはずかねてもしらるゝ也。漢家(かんか)の聖人(せいじん)と云孔子・老子よりはじめてみなこの定(ぢやう)にかねていゝあつるなり。この世にもすこしかしこき人の物をおもひはからふは、随分(ずゐぶん)にはさのみこそ候(さふら)へ。さる人をもちいらるゝ世はをさまり、さなき人の、たゞさしむかいたることばかりをのみさたする人の、世をとりたる時は、世はたゞうせにをとろへまかるとこそはうけ玉(たま)はれ。さて九郎は大夫尉(たいふのじよう)になされて、いけどりの宗盛公、重衡などぐして、五月七日頼朝がりくだりにけり。二人ながら又京へのぼせて、内大臣宗盛をば六月廿三日に、このせたの辺(へん)にて頚きりてけり。重衡をば、まさしく東大寺大仏やきたりし大将軍(だいしやうぐん)なりけり。かく仏の御敵うちてまいらするしるしにせんとて、わざと泉(いづみ)の木津(こつ)の辺にて切(きり)て、その頚は奈良坂にかけてけり。前内大臣(の)頚をば使庁(しちやう)へわたしければ、見物(けんぶつ)にて院も御覧じけり。重衡をば頼政入道が子にて頼兼(よりかね)と云者をその使(つかひ)にさたしのぼせて、東大寺へぐしてゆきて切(きり)てけり。大津(おほつ)より醍醐とをり、ひつ川へいでゝ、宇治橋わたりて奈良へゆきけるに、重衡は、邦綱(くにつな)がをとむすめに大納言(の)すけとて、高倉院に候(さふらひ)しが安徳天皇の御めのとなりしにむことりたるが、あねの大夫三位(たいふのさんみ)が日野と醍醐とのあはいに家つくりて有りしにあいぐして居たりける、このもとの妻のもとに便路(びんろ)をよろこびてをりて、只今死なんずる身にて、なく/\小袖(こそで)きかへなどしてすぎけるをば、頼兼もゆるしてきせさせけり。大方(おほかた)積悪(しやくあく)のさかりはこれをにくめども、又かゝる時にのぞみてはきく人かなしみの涙にをぼ(ほ)ゆる事なり。範源(はんげん)法印とて季通(すゑみち)入道が子(〈こ〉)ありき。天台宗碩学(せきがく)題者(だいしや)なり。そのかみ吉野山(よしのやま)にかよふ事ありけるは、相人(さうにん)にてよく人相するをぼゑありき。それが吉野よりのぼりけるに、くぬ木原の程にこの重衡あいたりければ、「これは何事ぞ」とと(ゝ)はせけるに、かう/\と云ひければ、只今死なんずと云者の相(さう)こそをぼつかなけれ、見てんと思ひて、輿よりをりてその辺に武士わりごなんどのれうに馬どもやすめける所にて、すこしちかくよりて見けるに、つや/\と死相みへず。こはいかにと思ひてたちまはりつゝみけれど、ゑ見いださですぎにき。ふかしぎの事かなとこそ申(まうし)けれ。相(さう)と云物(いふもの)はいかなるべきにか。頼朝かやうのさたどもよの人舌(した)なきをしてあふぎたりけり。頼兼は頼政をつぎて猶大内(おほうち)の守護(しゆご)せさせられき。久(ひさし)くもなくてゑ思ふやうならでうせにき。それが子(〈こ〉)とて頼茂(よりもち)と云者ぞ又つぎて大内に候(さふらひ)ける。かやうにて今は世の中をち居(ゐ)ぬるにやとをもいしほどに、元暦二年七月九日午時ばかりなのめならぬ大地震ありき。古き堂のまろばぬなし。所々のついがきくづれぬなし。すこしもよはき家のやぶれぬもなし。山の根本中堂(こんぽんちゆうだう)以下ゆがまぬ所なし。事もなのめならず龍王動とぞ申し。平相国(へいしやうごく)龍になりてふりたると世には申(まうし)き。法勝寺九重塔(ほつしようじくぢゆうたふ)はあだにはたうれず、かたぶきてひえんは重(ぢゆう)ごとに皆をちにけり。そのゝち九郎は検非違使五位尉伊与守などになされて、関東が鎌倉のたちへくだりて、又かへり上りなどして後(のち)、あしき心出(いで)きにけり。さて頼朝は次第に、国(くに)にありながら、加階して正二位までなりにけり。さて平家知行所領かきたてゝ、没官の所と名付(なづけ)て五百余所さながらつかはさる。東国・武蔵・相模をはじめて、申うくるまゝにたびてけり。義仲京中にいりてとりくびらんとせしはじめに、頼盛大納言は頼朝がりくだりにけり。二日(ふつか)の道こなたへ頼朝はむかいて如父もてなしける。又頼朝がいもうとゝ云女房一人ありけるを、大宮権亮(おほみやごんのすけ)能康(よしやす)と云ふ人の妻にして年来(としごろ)ありけり。このゆへによしやす又妻ぐして鎌倉へくだりにき。かやうにしかるべき者どもくだりあつまりて、京中の人の程ども何もよく/\頼朝しりにけり。さて頼朝がかはりにて京に候(さふらふ)この九郎判官(はうぐわん)、たちまちに頼朝をそむく心をおこして、同文治元年十一月三日、頼朝可追討宣旨給(たまは)りにけり。人/\に被仰合ければ、当時のをそれにたへず皆可然と申ける中に、九条右府一人こそ、追討宣旨など申事は依其罪過候事也、頼朝罪過なにごとにて候にか、いまだ其罪をしらず候へば、とかくはからい申がたき由申されたりけれ。この披露(ひろう)の後(のち)、頼朝郎従(らうじゆう)の中に土佐房と云ふ法師ありけり、左右(さう)なく九郎義経がもとへ夜打(ようち)にいりにけり。九郎をきあいてひし/\とたゝかいて、その害をのがれにけれど、きすさへられてはか/゛\しく勢(せい)もなくて、宣旨を頚にかけて、文治元年十一月三日、西国方(がた)へとて船にのりて出にけりときこへしに、その夜京中ことにさはぎけり。人ひとりしちにやとらんずらんと思ひけれどたゞぞ落(おち)にける。川尻(かはじり)にて頼朝が方の郎従どもをいかゝりて、ちり/゛\にうせにけり。十郎蔵人行家(ゆきいへ)とてありしは木曾義仲にぐしたりし。それと又ひとつにてありしもはなれて、北石蔵(きたいはくら)にてうたれてその頚なんど云者きこへき。九郎はしばしはとかくれつゝありきける。无動寺(むどうじ)に財修(ざいしう)とてありける堂衆が房(ばう)には、暫(しばし)かくしをきたりけるとのちに聞(きこ)へき。ついにみちのくにの康衡(やすひら)がもとへ逃(にげ)とをりて行(ゆき)にける。をそろしき事なりと聞へしかども、やすひらうちてこの由頼朝がり云(いひ)けるをば、「それにもよらじ、わろきことしたり」とぞかの国にもいひける。同(おなじき)十二月廿八日に九条右大臣に内覧(ないらん)宣旨くだされにけり。この頼朝追討の宣旨くだしたる人/\、皆勅勘(ちよくかん)候べき由申したりけり。蔵人頭(くらうどのとう)光雅(みつまさ)・大夫史(たいふのし)隆職(たかもと)など解官(げくわん)せられにけり。上卿(しやうけい)は左大臣経宗(つねむね)なり。それをばとかくも申さゞりけれど議奏の上卿とて申(まうし)たりけるには、左大臣をばかきいれざりけり。これにてさよと人に思はせけり。これまでもいみじくはからいたりけるにや。又院(ゐん)の近習者(きんじふしや)泰経三位(やすつねさんみ)など皆をいこめてけり。同二年十一月廿六日に、又九郎(くらう)を可搦進之由宣下ありけり。あさましき次第ども也。又其後(そののち)文治五年七月十九日に鎌倉をいでゝ、奥(おく)いりとて、終(つひ)にみちの国のひでひらがあとやすひらと云、打(うち)とらんと頼朝の将軍思ひけり。尤(もつとも)いはれたり。かれは誰(たれ)にもしたがはぬやうにて、みちの国ほどの国をひとへに領(りやう)してあれば、いかでか我物(わがもの)にせざらん。ゆゝしく出でたちてせめいりて、同九月三日やす/\と打はらいてけり。さてみちの国も皆郎従どもにわけとらせて、この由(よし)上(うへ)へ申てうるはしく国司なされて、年比(としごろ)にもにず国司のためもよくてありけり。ひでひらが子に母(はは)太郎・父(ちち)太郎とて子二人ありけり。やすひらは母太郎也。それにつたへて父太郎は別の所(ところ)をこしゑてありける。父太郎は武者がらゆゝしくて、いくさの日もぬけ出てあはれ物やと見へけるに、こなたよりあれを打とらんと心をかけたりけるにも、庄司次郎重忠こそ分入(わけいり)てやがて落合(おちあひ)てくびとりて参(まゐり)たりけれ。すべて庄司次郎を頼朝は一番にはうたせ/\してありけり。ゆゝしき武者なり。終にいかなる納涼(なふりやう)をしけるにも、かたへの者ちかく膝をくみて居る事ゑせでやみける者とぞきこゆる。頼朝は鎌倉を打出(うちいで)けるより、片時もとり弓せさせず。弓を身にはなつ事なかりければ、郎従どもゝなのめならずをぢあいけり。手のきゝざま狩などしけるには、大鹿にはせならびて角(つの)をとりて手どりにもとりけり。太郎頼家(よりいへ)は又昔今ふつになき程の手きゝにてありけり。のくもりなくきこゑき。

 

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