富山県 更新日 2005.05.31.火

愛・地球博

 

富山県は、知名度が低く、県外の方々は、その場所さえ、知らない人もいます。西に石川県、東に新潟県と隣接しています。

少しづつ、紹介していきたいと思います。

 

(1)平家物語と富山県

 

富山県には、平家物語に関連する地域が、何ヶ所か、有ります。

1.雨晴(あまはらし) 「源義経が奥州へ行く途中に、雨が降ってきて、雨を晴らした(雨宿りをした)ので、その名が付きました。」という話を、保育園で聴いたような記憶が、有ります。『越中志徴』に、「むかし、義経奥州下りの時、この磯を通られしに折ふし虚雨(にわかあめ)せしに、供奉の人は諸共にこの岩の下に入りて雨晴らしせられたるにより」と、由来を記しています。JR氷見線雨晴駅の近くです。

 

2.倶利伽羅峠 小矢部市に有ります。古戦場。1183年木曾義仲が平維盛軍を破りました。4月末が、八重桜の見頃です。 倶利伽羅の場面 2003.04.30.水

 

3.義経如意の渡し跡(よしつねにょいのわたしあと) 高岡市伏木に有ります。

射水川(現小矢部川)河口の渡船場の古名で、左岸の伏木と右岸の六渡寺(中伏木)を結び、又の名を六渡寺渡、古くは籠(鹿子)の渡などと呼ばれ、重要な地点でした。

室町時代に書かれた軍記物語『義経記』に文治三年(1187)春、源義経が奥州平泉の藤原秀衡を頼って落ちのびる際に、この地を経たとの伝承があります。
 渡守の平権守(たいらのごんげんのかみ)が「判官殿ではないか」と怪しみますが、弁慶が「あれは加賀の白山より連れて来た御坊様だ」と叫び、嫌疑を晴らすために扇で義経をさんざんに打ちのめすという機転で切り抜け、無事に乗船できたという一説です。

平成2年に、銅像が寄贈されました。

 これとよく似た伝説は全国にあり、特に加賀安宅の関の伝説が有名で、謡曲「安宅」、江戸時代に入ると歌舞伎十八番「勧進帳」として知られています。
 この他にも、高岡には義経の雨晴し(上記1.)、八幡社の義経衣掛けの古樹跡、気多神社の弁慶のこぶし跡や足跡等、義経弁慶にまつわる伝説が多数有ります。
乗船料 大人200円 小人100円 定休日 無休 自転車も乗れます。
交通 JR氷見線伏木駅下車徒歩5分伏木経由氷見行バス伏木駅下車徒歩5分
 川とは離れたところに、昭和二十九年に如意渡保存会が、「渡し守」の館跡の礎石を集めて建てた「かきよせ」の碑と昭和三十年に高岡市が建てた「如意の渡」の石碑がありますが、そこは八幡社の境内で普段はあまり人が来ません。

義経記より 

四十七 如意(によい)の渡(わたり)にて義経を弁慶打(う)ち奉る事

夜も明(あ)けければ、如意(によい)の城を船(ふね)に召(め)して、渡(わたり)をせんとし給ふに、渡守(わたしもり)をば平権守(へいごんのかみ)とぞ申(まうし)ける。彼(かれ)が申(まうし)けるは、「暫(しばら)く申(まうす)べき事候。是は越中(ゑつちう)の守護(しゆご)近(ちか)き所(ところ)にて候へば、予(かね)て仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて候ひし間(あひだ)、山伏(やまぶし)五人三人は言(い)ふに及(およ)ばず、十人にならば、所(ところ)へ仔細(しさい)を申さで、わたしたらんは僻事(ひがごと)ぞと仰(おほせ)つけられて候。すでに十七八人御わたり候へば、あやしく思ひ参(まゐ)らせ候。守護(しゆご)へその様(やう)を申候ひてわたし参らせん」と申(まうし)ければ、武蔵坊(むさしばう)これを聞(き)きて、妬(ねた)げに思(おも)ひて、「や殿(との)、さりとも北陸道(ほくろくだう)に羽黒(はぐろ)の讚岐坊(さぬきばう)を見知(みし)らぬ者(もの)やあるべき」と申(まうし)ければ、中乗(のり)に乗(の)りたる男(おとこ)、弁慶(べんけい)をつくづくと見(み)て、「実(げ)に/\見参(まゐ)らせたる様(やう)に候。一昨年(おとゝし)も一昨々年(さおとゝし)も、上下向毎(かうごと)に御幣(ごへい)とて申(まうし)下(くだ)し賜(たま)はりし御坊(ごばう)や」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)嬉(うれ)しさに、「目、よく見られたり/\」とぞ申(まうし)ける。権守(ごんのかみ)申(まうし)けるは、「小賢(こざか)しき男(おとこ)の言(い)ひ様(やう)かな。見知(し)り奉りたらば、和男(わおとこ)が計(はか)らひにわたし奉(たてまつ)れ」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)これを聞(き)て、「そも/\この中にこそ九郎判官(はうぐはん)よと、名を指(さ)して宣へ」と申(まうし)ければ、「あの舳(へさき)に村千鳥(むらちどり)の摺(すり)の衣(ころも)召(め)したるこそあやしく思(おも)ひ奉(たてまつ)れ」と申(まうし)ければ、弁慶(べんけい)「あれは加賀(かゞ)の白(しら)山より連(つ)れたりし御坊(ごばう)なり。あの御坊故(ゆへ)にところどころにて人々にあやしめらるゝこそ詮(せん)なけれ」と言(い)ひけれども、返事もせで打俯(うちうつぶ)きて居(ゐ)給ひたり。弁慶(べんけい)腹立(はらだ)ちたる姿(すがた)になりて、走(はし)り寄(よ)りて舟端(ばた)を踏(ふ)まへて、御腕(かいな)を掴(つか)んで肩(かた)に引懸(ひつか)けて、浜(はま)へ走上(はしりあが)り、砂(いさご)の上(うへ)にがはと投(な)げ棄(す)てて、腰(こし)なる扇(あふぎ)抜(ぬ)き出(いだ)し、労(いた)はしげもなく、続(つゞ)け打(う)ちに散々(さんざん)にぞ打(ち)たりける。見(み)る人目もあてられざりけり。北(きた)の方(かた)は余(あま)りの御こゝろ憂(う)さに声(こゑ)を立(た)てても悲(かな)しむばかりに思召(おぼしめ)しけれども、流石(さすが)人目の繁(しげ)ければ、さらぬ様(やう)にておはしけり。平権守(へいごんのかみ)これを見(み)て、「すべて羽黒山伏(はぐろやまぶし)程情(なさけ)なき者(もの)はなかりけり。「判官(はうぐはん)にてはなし」と仰(おほ)せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程痛(いた)はしく情(なさけ)なく打(う)ち給へるこそこゝろ憂(う)けれ。詮(せん)ずる所(ところ)、これは某(それがし)が打(う)ち参(まゐ)らせたる杖(つえ)にてこそ候へ。かゝる御労(いた)はしき事こそ候はね。これに召(め)し候へ」とて、船(ふね)を差(さ)し寄(よ)する。梶取(かぢとり)乗(の)せ奉りて申(まうし)けるは、「さらばはや船賃(ふなちん)なして越(こ)し給へ」と言(い)へば、「何時(いつ)の習(ならひ)に羽黒(はぐろ)山伏(ぶし)の船賃(ふなちん)なしけるぞ」と言(い)ひければ、「日比取(り)たる事はなけれども、御坊(ごばう)の余(あま)りに放逸(はういつ)におはすれば、取(と)りてこそわたさんずれ。疾(と)く船賃(ふなちん)なし給へ」とて船(ふね)をわたさず。弁慶(べんけい)、「和殿(わどの)斯様(かやう)にわれ等(ら)に当(あた)らば、出羽(ではの)国へ一年二年のうちに来(きた)らぬ事はよもあらじ。酒田(さかた)の湊(みなと)は此少人(せうじん)の父、酒田(さかた)次郎殿(じらうどの)の領(りやう)なり。只今(たゞいま)当(あた)り返(かへ)さんずるものを」とぞ威(おど)しけり。されども権守(ごんのかみ)、「何(なに)とも宣(のたま)へ、船賃(ふなちん)取(と)らで、えこそ渡すまじけれ」とてわたさず。弁慶(べんけい)、「古(いにし)へ取(と)られたる例(れい)はなけれ共(ども)、此僻事(ひがごと)したるによつて取(と)らるゝなり」とて、「さらばそれ賜(た)び候へ」とて、北(きた)の方(かた)の著給へる帷(かたびら)の尋常(じんじやう)なるを脱(ぬ)がせ奉りて、渡守(わたしもり)に取(と)らせけり。権守(ごんのかみ)これを取(と)りて申(まうし)けるは、「法(はう)に任(まか)せて取(と)りては候へども、あの御坊(ごばう)のいとほしければ参らせん」とて、判官(はうぐわん)殿にこそ奉(たてまつ)りけれ。武蔵坊(むさしばう)是を見(み)て、片岡(かたおか)が袖を控(ひか)へて、「痴(おこ)がましや、たゞあれもそれもおなじ事ぞ」と囁(さゝや)きける。かくて六動寺(ろくだうじ)を越(こ)えて、奈呉(なご)の林(はやし)をさして歩(あゆ)み給ひける。武蔵(むさし)忘(わす)れんとすれ共(ども)、忘(わす)られず。走(はし)り寄(よ)りて判官の御袂(おんたもと)に取付(とりつ)きて、声(こゑ)を立(た)てて泣(な)く/\申(まうし)けるは、「何時(いつ)まで君(きみ)をかばひ参(まゐ)らせんとて、現在(げんざい)の主(しう)を打(う)ち奉るぞ。冥顕(みやうけん)の恐(おそれ)もおそろしや。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)も許(ゆる)し給へ。浅(あさ)ましき世の中かな」とて、さしも猛(たけ)き弁慶(べんけい)が伏転(ふしころ)び泣(な)きければ、侍(さぶらひ)ども一つ所(ところ)に並み居て、消(き)えいる様(やう)に泣(な)き居(ゐ)たり。判官(はうぐはん)「これも人の為(ため)ならず。斯程(かほど)まで果報(くはほう)つたなき義経(よしつね)に、斯様(かやう)に心ざし深(ふか)き面々(めん/\)の、行末(ゆくすゑ)までも如何(いかゞ)と思へば、涙(なみだ)のこぼるゝぞ」とて、御袖を濡(ぬ)らし給ふ。各々(おのおの)この御ことばを聞(き)きて、猶(なほ)も袂(たもと)を絞(しぼ)りけり。かくする程に日も暮(く)れければ、泣(な)く/\辿(たど)り給(たま)ひけり。やゝありて北の方(かた)、「三途(さんづ)の河をわたるこそ、著(き)たる物を剥(は)がるゝなれ。少(すこ)しも違(たが)はぬ風情(ふぜい)かな」とて、岩瀬(いはせ)の森(もり)に著(つ)き給ふ。その日はこゝに泊(とま)り給ひけり。明(あ)くれば黒部(くろべ)の宿(やど)に少(すこ)し休(やす)ませ給(たま)ひて、黒部(くろべ)四十八か瀬(せ)の渡りを越(こ)え、市振(いちふり)、浄土(じやうど)、歌(うた)の脇(わき)、寒原(かんばら)、なかはしといふ所(ところ)を通(とほ)りて、岩戸(いはと)の崎(さき)といふ所(ところ)に著(つ)きて、海人(あま)の苫(とま)屋に宿(やど)を借(か)りて、夜と共(とも)に御物語(ものがたり)ありけるに、浦(うら)の者(もの)ども、搗布(かちめ)といふものを潛(かづ)きけるを見給ひて、北(きた)の方(かた)かくぞ続(つゞ)け給ひける。

四方(よも)の海(うみ)浪(なみ)の寄(よ)る/\来(き)つれどもいまぞ初(はじ)めてうきめをば見(み)る

弁慶これを聞(き)きて、忌々(いま/\)しくぞ思(おも)ひければ、かくぞ続(つゞ)け申(まうし)ける。

浦(うら)の道(みち)浪(なみ)の寄(よ)る/\来(き)つれどもいまぞ初(はじ)めてよきめをば見(み)る

かくて岩戸(いはと)の崎(さき)をも出(い)で給ひて、越後(ゑちご)の国府(ふ)、直江(なほえ)の津(つ)花園(はなぞの)の観音堂(くわんをんだう)といふ所(ところ)に著(つ)き給ふ。この本尊(ほんぞん)と申(まうす)は、八幡殿(はちまんどの)安倍(あべ)の貞任(さだたう)を攻(せ)め給ひし時(とき)、本国の御祈祷(きたう)の為(ため)に直江(なをえの)次郎と申(まうし)ける有徳(うとく)の者に仰(おほ)せつけて、三十領(りやう)の鎧(よろひ)を賜(た)びて、建立(こんりう)し給ひし源氏重代(げんじぢうだい)の御本尊(ほんぞん)なりければ、その夜はそれにて夜もすがら御祈念(ごきねん)ありけり。

明治四十四年 学生文庫より 後日J−TEXTにて全巻公開予定です。

 

4.巴御前終焉の地(の説の一つです) 

 『源平盛衰記』(国民文庫)より S3506 巴関東下向事 の全文です。漢文を書き下し、表記を改めました。

畠山は、九郎義経と院(ゐん)の御所(ごしよ)に候ひけるが、木曾漏れやしぬらん覚束(おぼつか)なしとて、三条河原の西の端まで打ち出でたり。義仲(よしなか)は三条白河を東へ向けて引きけるを、重忠は本田半沢左右に立て歩み出だし、東へ向ひて落ち給(たま)ふは大将と見るは僻事(ひがこと)か、武蔵国の住人(ぢゆうにん)秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也(なり)、返し合せ給(たま)へや返し合せ給(たま)へやと云ひければ、木曾馬の鼻を引き返し、誰人に合うて軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思ひ切れと下知して河を阻てて射合ひたり。流石(さすが)敵は大勢也(なり)、木曾(有朋下P338)は僅(わづ)かに十三騎、畠山が郎等の放つ矢は、雨の降るが如くに飛びければ、わづか小勢堪へ兼ねて、三条小河へ引き退く。重忠勝つに乗りて責め懸りければ、木曾も引き返し引き返し、弓箭に成り、打物に成り、追ひつ返しつ返しつ追ひつ、半時計戦ひける。其(そ)の中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽の征矢負ひて、滋籐の弓真中取り、葦毛馬の太く逞しきに、少し巴摺りたる鞍置きて乗りたりける武者、一陣に進みて戦ひけるが、射るも強く切るも強く、馳せ合せ馳せ合せ責めけるに、指しも名高き畠山、河原へ颯と引きて出づ。畠山半沢六郎を招きて、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会ひ初めて、度々の戦ひに合ひたれども、是程軍立ちのけはしき

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事に合はず、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞きしに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ひければ、成清、あれは木曾の御乳母(おんめのと)に、中三権頭が娘巴と云ふ女也(なり)、つよ弓の手だり荒馬乗りの上手、乳母子(めのとご)ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候(さうら)ふと申す。畠山さてはいかが有るべき、女に追ひ立てられたるも云ひ甲斐なし、又責め寄せて女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多き者共の中に、巴女に合ひけるこそ不祥なれ、但し木曾の妾といへば懐しきぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取りて返し、木曾を中に取り籠めて散々(さんざん)に蒐く、畠山は巴に目(有朋下P339)をぞ懸けたりける。進み退き廻り合はん廻り合はんと廻りければ、木曾巴を組ませじと蒐け阻て蒐け阻てて、二廻り三廻りが程廻りける処に、畠山、巴強ちに近く廻り合ふ。是は得たる便宜と思ひ、馬を早めて馳せ寄りて、巴女が弓手の鎧の袖に取り付きたり。巴叶はじとや思(おも)ひけん、乗りたる馬は春風とて、信濃第一の強馬也(なり)。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引き切れて、二段計ぞ延びにける。畠山、是は女には非(あら)ず、鬼神の振舞ひにこそ、加様の者に矢一つをも射籠められて、永代の恥を残すべからず、引くに過ぎたる事なしとて、河原を西へ引き退き、院(ゐん)の御所(ごしよ)へぞ帰り参りける。

木曾は此彼を打ち破りて、東を指して落ち行きけり。竜華越に北国へ伝ふとも聞えけり。長坂にかかり、播磨へ共云ひけり。其の口様々也(なり)けれども、大津へ向けて打たれけるが、四宮河原にて見給(たま)へば、僅(わづ)かに七騎に残りたり。巴は七騎の内にあり。生年二十八、身の盛りなる女也(なり)。去る剛の者也(なり)ければ、北国度々の合戦にも手をも負は

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ず、百余騎(よき)が中にも七騎に成るまで付きたりけり。四宮河原、神無社、関清水、関明神打ち過ぎて、関寺の前を粟津(あはづ)に向けてぞ進みける。巴は都を出でける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂(よろひひたたれ)を著たりけるが、関寺の合戦には、紫隔子を織り付けたる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付けて、五枚甲(ごまいかぶと)の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指したる真羽の矢の射残したるを負ひ、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置きてぞ乗りたり(有朋下P340)ける。七騎が先陣に進みて打ちけるが、何とか思(おも)ひけん甲を脱ぎ、長に余る黒髪を、後へさと打ち越して、額に天冠を当てて、白打出の笠をきて、眉目も形も優なりけり。歳は二十八とかや。爰(ここ)に遠江国の住人(ぢゆうにん)、内田三郎家吉と名乗りて、三十五騎の勢にて巴女に行逢ひたり。内田敵を見て、天晴れ武者の形気哉、但し女か童か覚束(おぼつか)なしとぞ問ひける。郎等能々見て女也(なり)と答ふ。内田聞き敢へず、去る事あるらん、木曾殿(きそどの)には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討たれぬ、巴は未だ在りときく、是は強弓(つよゆみ)精兵、あきまを数ふる上手、岩を畳み金を延べたる城也(なり)共、巴が向ふには落さずと云ふ事なし、去る癖者と聞(きこ)し召(め)して、鎌倉殿(かまくらどの)、彼の女相構へて虜にして進らすべき由仰せを蒙りたり。巴は荒馬乗りの大力、尋常の者に非(あら)ずと聞く、如何がすべきと思ひ煩ひけるが、郎等共(らうどうども)に云ふ様は、女強しといふとも百人(ひやくにん)が力によも過ぎじ、家吉は六十人が力あり、殿原三十(さんじふ)余人(よにん)、既(すで)に百人(ひやくにん)にあまれり、殿原左右より寄せて、左右の手を引つ張れ、家吉中より寄せて、などか巴を取らざらんと云ひけるが、内田又思ひ返す様、待て待て暫し、槿花の朝に咲きて夕べに萎むだにも、己が盛りは有る物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡びん命も同じ事、女程の者に

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組むとて、兎角計ごとを出だしけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一条の思(おも)はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺ふべからず、家吉一人打ち向ひて巴女が頸とらんと云ひければ、(有朋下P341)三十(さんじふ)余騎(よき)の郎等は、日本(につぽん)第一に聞えたる怖しき者(もの)に組むまじき事を悦びて、尤(もつと)も尤(もつと)もと云ひければ、内田只一人、駒を早めて進む処に、巴是を見て先づ敵を讃めたりけり。天晴れ武者の貌哉。東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、覚束(おぼつか)な誰人ぞ、角問ふは木曾殿(きそどの)の乳母子(めのとご)に、中三権頭兼遠が娘に巴と云ふ女也(なり)、主の遺の惜しければ、向後を見んとて御伴に侍ると云ふ。鎌倉殿(かまくらどの)の仰せを蒙り、勢多の手の先陣に進るは、遠江国の住人(ぢゆうにん)内田三郎家吉と名乗り進みけり。巴は、一陣に進むは剛の者、大将軍に非(あら)ずとも、物具(もののぐ)毛の面白きに、押し並べて組、しや首ねぢ切りて軍神に祭らんと思(おも)ひけるこそ遅かりけれ。手綱かいくり歩ませ出だす。去れ共内田が弓を引かざれば、女も矢をば射(い)ざりけり。互ひに情を立てたれば、内田太刀を抜かざれば、女も太刀に手を懸けず。主は急ぎたり馬は早りたり。巴、内田、馬の頭を押し並べ、鐙と鐙と蹴合はするかとする程に、寄り合ひ互ひに音を揚げ、鎧の袖を引き違へたり。やをうとぞ組んだりける。聞ゆる沛艾の名馬なれ共、大力が組み合ひたれば、二匹の馬は中に留まりて働かず。内田勝負を人に見せんと思(おも)ひけるにや、弓箭を後へ指し廻し、女が黒髪三匝(さんさう)にからまへて、腰刀を抜き出だし、中にて首をかかんとす。女是を見て、汝は内田三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とこそ名乗りつれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其の手の郎等かと問ひければ、内田我が身こそ大将よ、郎等には非(あら)ず、行(有朋下P342)跡何にと申せば、女答へて云はく、女に組む程の男が、中にて刀を抜き、目に見する様やは有るべき、軍は敵に依(よ)つて振舞ふべし、故実も知らぬ内田

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哉とて、拳を握り、刀を持ちたる臂(ひぢ)のかかりをしたたかに打つ。余りに強く打たれて、把る刀を打ち落され、やをれ家吉よ、日本一(につぽんいち)と聞えたる木曾の山里に住みたる者也(なり)、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘(ひぢ)を指し出だし、甲の真顔取り詰めて、鞍の前輪に攻め付けつつ、内甲に手を入れて、七寸(しちすん)五分の腰刀を抜き出だし、引あほのけて首を掻く、刀も究竟の刀也(なり)、水を掻くよりも尚安し。馬に乗り直り、一障泥あふりたれば、身質(むくろ)は下へぞ落ちにける。首を持ち木曾殿(きそどの)に見せ奉れば、穴(あな)無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛の者にて在つる者を、討たれけるこそ無慙なれ、是も運尽きぬれば汝に討たれぬ、義仲(よしなか)も運尽きたれば、何者(なにもの)の手に懸り、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思(おも)はぬ薄金が、肩に引きて思ふ也(なり)、我討たれて後に、木曾こそ幾程命を生きんとて、最後に女に先陣懸けさせたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給(たま)ふ、疾々落ち下れとぞ宣(のたま)ひける。巴申しけるは、我幼少の時より君の御内に召し仕はれ進らせて、野の末山の奥までも、一の道にと思ひ切り侍り、今懸る仰せを承るこそ心うけれ、君の如何にも成り給(たま)はん処にて、首を一所に並べんと掻(か)き詢(くど)き云ひければ、木曾誠にさこそは思(おも)ふらめ共、我去年の春信濃国(しなののくに)を出でし時妻子を捨て置き、又再び見ずして、永き別れの(有朋下P343)道に入らん事こそ悲しけれ、去れば無からん跡までも、此の事を知らせて後の世を弔はばやと思(おも)へば、最後の伴よりも然るべきと存ずる也(なり)、疾々忍び落ちて、信濃へ下り、此の有様(ありさま)を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣(のたま)ひければ、巴遺は様々惜しけれ共、主命に随ひ、落つる涙を拭ひつつ、上の山へぞ忍びける。粟津(あはづ)の軍終りて後、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語り、互ひに袖をぞ絞りける。世静まりて右大将家(うだいしやうけ)より召されければ、巴則ち

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鎌倉へ参る。主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無双の剛の者、打ち解くまじきとて森五郎に預らる。和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也(なり)、心の剛も無双也(なり)、あの様の種を継がせばやとぞ思(おも)ひける。明日頸切べしと沙汰有りけるに、和田義盛申し預からんと申しけるを、女なればとて心ゆるし有るまじ、正しき主親が敵也(なり)、去る剛の者なれば、隙もあらば伺ひ思ふ心有るらん、叶ふまじと仰せられけるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨て、子孫眷属二心なく、君を守護し奉りて、年来奉公し奉る、争でか思(おぼ)し召(め)し忘れ給(たま)ふべき、義盛相具して候(さうら)ふ共(とも)、僻事(ひがこと)更に在まじきと、様々申し立て預かりにけり。即ち妻と憑みて男子を生む。朝比奈三郎義秀とは是なりけり。母が力を継ぎたりけるにや、剛も力も并びなしとぞ聞えける。和田合戦の時朝比奈討たれて後、巴は泣(な)く泣(な)く越中に越え、石黒は親しかりければ、此にして出家して巴尼とて、仏に花香を奉り、主親朝比奈が後世弔ひけるが(有朋下P344)九十一まで持ちて、臨終目出(めで)たくして終りにけるとぞ。

 < 或る説には、赤瀬の地頭の許に仕ふると言(い)へり。>

 < 高望王より九代の孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也(なり)。>

 

5.平村(たいらむら) 平家落人伝説は、日本各地にありますが、世界遺産の合掌造りで有名な、五箇山地方も、その一つです。

名前がずばりそれを表しています。そこでは、いまでも、「お父さん、いらっしゃいますか?」(Is there your farther)を、

「とうちゃん、ござる?」と、武士の言葉を使用しています。(『・・・ござる?』は、天草版平家物語で、出てきます。)。

6.俊寛の伝説もあります。【後日詳しく書きます。】

 

「平家物語考」の著者、山田孝雄(やまだよしお)氏は富山市の出身でお墓は呉羽山の長慶寺に有ります。そこの五百羅漢の下にひっそりと有ります。2001.02.05.月に、お墓参りに行って来ました。お墓の近くに「富山市名誉市民 文学博士 故山田孝雄之墓」という石の表示が有ります。墓石の右側には、「昭和三十三年十一月二十日歿 享年八十五」と有ります。

呉羽山は県の中央部にあり、呉羽梨が有名です。展望台もあり、見晴らしも大変素晴らしいです。

 

富山県は、呉羽山を境に「呉東(ごとう)」と「呉西(ごせい)」に分かれます。ここで東西の天候も文化もがらりと変わります。

 

富山のイベント(見に行ったもの)や行った所

2005.05.07.土

 交流人口拡大と新たな地域おこしを目指す「ど〜んと高岡・伏木」(実行委員会主催、県後援)は七日、高岡市伏木古国府の国重要文化財・勝興寺でメーン行事を行った。「みなと・古刹(こさつ)・みらいへ」をテーマに、記念式典や地元ゆかりの女優、涼風真世さん=古府小、伏木中卒=のトークショー、コンサート、クルージングなど多彩なイベントを展開、大勢の人々が伏木の魅力を再発見した。 記念式典で、実行委会長の梅沢北日本新聞社長があいさつし、橘市長が「地域の魅力を見直し、発信することで伏木地区のさらなる活性化につながることを期待する」と述べた。酒井三郎県経営管理部次長が石井知事の祝辞を代読。梅沢社長から橘市長に記念品が贈られた。
 JR伏木駅前には伏木曳山祭の山車(やま)六基が勢ぞろいし、回船問屋の主人が小判をまいたという言い伝えにちなみ、もちまきが行われた。涼風さん、橘市長、畠起也高岡市議会議長、梅沢社長が、二基の山車から小判のレプリカや紅白のもちをまき、周囲を埋めた大勢の人たちが手を伸ばした。小判二百枚、もち三百個があっという間になくなった。
 例年四月に行う「伏木観光まつり」を日程をずらして開催し、伏木測候所では「写真で見る伏木今昔展」も開かれた。
 地元の小学生が勝興寺を描いた「ぼくたち、わたしたちのふるこはん絵画展」の表彰式や高岡市在住の作曲家、山口道明さんのコンサートも行われた。
 如意の渡しクルージングは計四回運航、海上保安庁の巡視船クルージングは約六百人が参加。小矢部川や富山湾上から伏木の景色を満喫した。
 「ど〜んと高岡・伏木」は北日本新聞社と高岡市などでつくる実行委主催。「ど〜んと」事業は一昨年の氷見、滑川両市、昨年の小矢部市、朝日町に続き五回目となる。
 

2005.03.01.火

 JR高岡駅の新発車音制定を記念したフォーラム「高岡から未来へ 今発車の音が響く」(北日本新聞社共催)が一日、高岡市開発本町の高岡地場産センターで開かれた。高岡銅器で作った楽器「お鈴(りん)」を使ったコンサートやパネルディスカッションがあり、来場者約千人が聴き入った。
 パネルディスカッションは「伝統の明日 高岡の未来」がテーマ。橘市長と柘植元一東京芸大教授、荒井公夫末広開発社長、鶴木義直北日本新聞高岡支社編集部次長がパネリストとなり、相本芳彦北日本放送アナウンサーが司会を務めた。
 銅器の音色を発車音にと取り組んだ地元有志の活動について、柘植教授は「音は人の記憶に残る無形文化財。駅に降り立った人にまちの文化や歴史を思い起こさせる有意義な取り組み」と強調。荒井社長は「銅器の新しい使い道として期待が膨らんだ」と話した。
 コンサートは小矢部市出身の雅楽奏者、太田豊さん(東京)、和太鼓奏者の山本綾乃さん(小矢部市)らが出演した。山本さんがお鈴を奏で、透き通った音色と余韻が特徴の新発車音を演奏。高岡市出身の室崎琴月作曲の童謡「夕日」や雅楽古典曲、ジャズなどを

次々と披露した。

 

2004.05.15.土

伏木曳き山祭り

 

2004.05.05.水

城光寺球場へ高校野球春季大会準決勝第二試合目を見に行く。高岡−富山商業 2−9

 

2004.05.03.月

高岡市伏木錦町の棚田家を見学に行く。

伏木曳き山フェスティバルを見に行く。

 

2004.04.17.土

第2回平家琵琶演奏会 宇奈月の法福寺にて18:30〜。

昼から宇奈月の山をずっと歩き回っていました。崖っぷちの細い道で足を踏み外したら数百mの谷底に転落するような道でした。桜の花も、残雪も綺麗で、心が洗われるようでした。

 

2004.01.01.木

雨晴海岸に初日の出を見に行くが、曇りのため見えず。勝興寺にも行く。昨晩の行く年来る年の照明の片付けをしていた。如意の渡しの碑を見に行く。

 

2003.11.02.日

宇奈月のトロッコ電車に久しぶりに乗る。

 

2003.11.01.土

第1回平家琵琶演奏会 宇奈月の法福寺にて。

 

2003.10.08.水

辛坊治郎氏(KNB5:30〜8:30のズームインSUPERに出演しています。)の講演会「政治・経済−情報の裏を読む−」を聴きに行きました。大門町総合会館にて、主催は、射水圏政経懇話会です。

 

2003.06.07.土

第22回全国城下町シンポジウム高岡大会

大会式典 13:00

記念フォーラム「もうひとつの加賀百万石物語−高岡400年の歴史はこうして始まった」 14:00

作家の童門冬二氏とNHKエグゼクティブアナウンサーの松平定知氏の対談を前から四番目で聞きました。

「あっかり高岡」 古城公園をライトアップ 19:00〜21:00

2003.05.15.木

伏木曳き山祭り

2003.05.14.水

伏木 宵山ライトアップ

2003.04.18.金

気多神社春季例大祭 高岡市伏木

 高岡市指定無形民俗文化財

御神幸の儀 09:00 

にらみ獅子舞奉納 10:00

2003.04.11.金

安田城跡

中央植物園

2002.09.14.土

JR氷見線全開通九十周年を記念し、蒸気機関車(SL)「シーサイド号」が、本日より三日間、高岡−氷見間を一日に二往復します。沿線まで見に行く。

2002.09.13.金

北陸最大の複合型ショッピングセンター「イオン」が、9:00に先行オープン。見学に行く。8:50に着く。

高岡市の国宝瑞龍寺の大茶堂にて、四津谷道昭住職と前田家18代当主前田利祐氏(東京)による「加賀百万石を支えた人と文化」という対談がある。

 

2002.08.23.金

伏木の岩崎ノ鼻灯台に10数年ぶりに行く。国分浜。

2002.08.04.日

高岡庄川花火

2002.08.02.金

伏木の花火

2002.08.01.木

高岡小矢部川花火 自転車で片道55分も掛かる。

2002.05.15.水

伏木曳き山祭り

2002.05.14.火

伏木 宵山ライトアップ

2002.05.01.水

高岡御車山祭り

2002.04.18.木

気多神社春季例大祭 高岡市伏木

 高岡市指定無形民俗文化財

御神幸の儀 09:50 

にらみ獅子舞奉納 10:20 

2001.08.05.日

富山新港新湊まつりの「大花火」 海王丸パーク

2001.06.13.水

高岡商工会議所青年部35周年記念 講演会 鈴木ひとみ氏 「道は必ず開ける」

2001.05.19.土

高岡ロータリークラブ創立50周年記念 第10回利長公シンポジウム

来年のNHK大河ドラマ「利家とまつ」チーフ・ディレクター佐藤峰世氏講演会『ドラマの狙い』 高岡市関本町 国宝瑞龍寺の大茶堂にて

前田利家の長男の利長は高岡の開祖です。

2001.05.15.火

伏木曳き山祭り

2001.05.09.水

早坂茂三氏講演会『有能な指導者と無能な指導者』 高岡商工会議所

2001.05.05.土

歴史国道イベント くりから夢街道 小矢部市

2001.05.01.火

高岡御車山祭り

2001.04.30.月

御車山の魅力を探る講演会

2001.04.23.月

二上山の山頂に登る。快晴で、北西に能登半島と富山湾、東側には、富山平野と立山連邦が、きれいに見えました。そこで昼食を取りましたが、昨晩食べた所たいしたことがなかった朴葉寿司が、とてもおいしかったです。

→仏舎利塔→鐘突堂→展望台より城光寺の滝経由で下りる。

13:30〜15:30 二上射水神社で築山行事 二上射水神社は、続日本紀にも載っている由緒ある神社です。

2001.04.19.木

9:00 新湊漁港より 観光船に乗る。

海竜マリンパーク→海王丸→富山新港→ぼんぼこ祭り

12:30 帰港 新湊観光協会の主催で六十数人乗りましたが、誰一人船酔いしなかった。富山県民は、船酔いしないのだろうか?

2001.04.18.水

気多神社春季例大祭 高岡市伏木

 高岡市指定無形民俗文化財

御神幸の儀 09:50 

にらみ獅子舞奉納 10:20 

 

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