平家物語 二 目録、一～三十五
平家物語 一 目録、一～十五 以下未入力
平家物語 五 目録、一～四
平家物語 六 目録、一～四
平家物語 七 目録、一～卅八（全）
平家物語 九 目録、一～卅二（全）
平家物語 十一 目録、一～卅九（全）
平家物語 十二 目録、一～卅九（全）
平家物語 二 （第一末）
Ｐ１２０５（一オ）
一 天台座主明雲僧正被止公請事 二 七宮天台座主ニ補給事
三 明雲僧正流罪ニ定ル事 四 明雲僧正伊豆国ヘ被流事
五 山門ノ大衆座主ヲ奉取返事 六 一行阿闍梨流罪事
七 多田蔵人行綱仲言ノ事 八 大政入道軍兵被催集事
九 大政入道院御所ヘ使ヲ進ル事 十 新大納言召取事
十一 西光法師搦取事 十二 新大納言ヲ痛メ奉ル事
十三 重盛大納言ノ死罪ヲ申宥給事 十四 成親卿ノ北方ノ立忍給事
十五 成親卿無思慮事 十六 丹波少将成経西八条へ被召事
十七 平宰相丹波少将ヲ申請給事 十八 重盛父教訓之事
十九 重盛軍兵被集事付周幽王事 廿 西光頸被切事
Ｐ１２０６（一ウ）
廿一 成親卿流罪事付鳥羽殿ニテ御遊事成親備前国ヘ着事 廿二 謀叛ノ人々被召禁事
廿三 師高尾張国ニテ被誅事 廿四 丹波少将福原ヘ被召下事
廿五 迦留大臣之事 廿六 式部大夫章綱事
廿七 成親卿出家事付彼北方備前ヘ使ヲ被遣事 廿八 成経康頼俊寛等油黄嶋ヘ被流事
廿九 康頼油黄嶋ニ熊野ヲ祝奉事 卅 康頼本宮ニテ祭文読事
卅一 康頼ガ歌都ヘ伝ル事 卅二 漢王ノ使ニ蘇武ヲ胡国ヘ被遣事
卅三 基康ガ清水寺ニ籠事付康頼ガ夢ノ事 卅四 成親卿被レ失ハ給事
卅五 成親卿ノ北方君達等出家事 卅六 讃岐院之御事
卅七 西行讃岐院ノ墓所ニ詣ル事 卅八 宇治ノ悪左府贈官等ノ事
卅九 三条院ノ御事 四十 彗星東方ニ出ル事
Ｐ１２０７（二オ）
平家物語第一末
一 〔天台座主明雲僧正被止公請事〕 Ｓ０２０１
五月五日、天台座主明雲僧正、公請ヲ止ラル。蔵人ヲ
遣シテ如意輪ノ御本尊ヲ召返シ、御持僧ヲ改易
セラル。即庁ノ使ヲ付テ、今度神輿ヲ捧奉テ陣頭
へ参タル大衆ノ張本ヲ被召一。加賀国ニ座主ノ御坊
領アリ。師高是ヲ停廃之間、其宿意ニ依テ門
徒ノ大衆ヲ語テ、訴訟ヲ出ス。已ニ朝家ノ御大事ニ及
之由、西光法師父子讒奏之間、法皇大ニ逆鱗ア（ッ）テ、
殊ニ重科ニ可行之由思召ケリ。明雲ハカヤウニ法
ヤク
皇ノ御気色アシカリケレバ、印鎰ヲ返シ奉リテ、
Ｐ１２０８（二ウ）
座主ヲ辞申サレケリ。
1
〔二〕 〔七宮天台座主ニ補給事〕
十一日、七宮、天台座主ニナラセ給。鳥羽院第七宮、故
青蓮院大僧正、行玄ノ御弟子也。
〔三〕 〔明雲僧正流罪ニ定ル事〕
十二日、先座主所職ヲ被止之上、検非違使二人付テ水
火ノ責ニ及。此事ニヨリテ、大衆又奏状ヲ捧テ憤申ス。
猶可（二）参洛一之由聞ケレバ、内裏并ニ法住寺殿ニ軍兵ヲ
被ル召集一メ。京中ノ貴賤騒アヘリ。大臣、公卿馳参ル。廿日、
前座主罪科事僉議有ベシトテ、大政大臣以下、公
卿十三人参内シテ陣座着テ被定申一。八条中納
言長方卿、其時ハ右大弁宰相ニテオワシケルガ、被
1 「二」底本になし。〔 〕に入れて示す。以下同様。
Ｐ１２０９（三オ）
申ケルハ、「法家ノ勘申ニ任テ、死罪一等ヲ減ジテ、可（レ）ト被（二）遠流一
云ドモ、明雲僧正ハ顕密兼学シテ浄行持律也。戒珠
光リ明シテ、耀（二）キ一天之下一ニ、定水流レ深シテ、澄（二）メリ四海之上一ニ。三
密之教法究テ源一ヲ、遙ニ扇（二）ギ恵果法全之古風一ヲ、五瓶之智
水払（二）テ底一ヲ、遠ク汲（二）ム不空無畏之清流一ヲ。智恵高貴ニシテ
一山之為貫首一、徳行無双ニシテ三千之為和尚一。其上明
王聖主ニハ一乗法花ノ師範タリ。大政法皇ニハ円頓受戒ノ
和尚タリ。御経御戒ノ師重科ニ被行一事、冥ノ照覧難
測一。還俗遠流ノ儀ヲ宥セラレバ、天下泰平ノ基タルべキカ」
ト、無憚所一被申一ケレバ、大政大臣師長公ヨリ始テ、十三
Ｐ１２１０（三ウ）
人公卿各、「長方定メ被申一儀ニ同ズ」ト被申ケレドモ、法皇ノ
御鬱リ深カリケレバ、猶流罪ニ定ニケリ。 大政入道モ此
事申止トテ被参一タリケレドモ、御風ノ気ト被仰ーテ、
御前ヘモ被召ザリケレバ、憤リ深シテ被出一ニケリ。
〔四〕〔明雲僧正伊豆国ヘ被流事〕
廿一日、前座主明雲僧正ヲバ、僧ノ流罪セラルヽ例トテ、
度縁ヲ被召返一テ、大納言大夫藤井松枝ト云俗名ヲ付テ、
伊豆国ヘ可被流一之由、被宣下一。皆人傾申ケレドモ、西
光法師ガ無実ノ讒奏ニヨリテ、カク被行一ケリ。
其時イカナル者カ読タリケン、札ニ書テ立タリケリ。
松枝ハミナサカモギニ切ハテヽ山ニハザスニスべキモノナシ
Ｐ１２１１（四オ）
〔五〕 〔山門ノ大衆座主ヲ奉取返事〕
衆徒是ヲ聞テ、西光法師父子ガ名字ヲ書ツヽ、根本中
堂ニ御坐ス十二神ノ寅神ニ当リ給ヘル、金毘羅大将ノ
御足ノ下ニフマセ奉テ、「十二神将、七千夜叉、時尅ヲ廻サ
ズ、西光師高父子ガ一魂ヲ召取給ヘ」卜、呪咀シケルコソ、
聞モ怖シケレ。「今夜都ヲ出シ奉」ト、院宣キビシクテ、
追立ノ検非違使、白川ノ御坊ニ参テ、其由ヲ申ケレバ、
廿三日、白川御坊ヲ出サセ給テ、伊豆国ノ配所ヘ
趣キ給フ御有様コソ悲ケレ。昨日マデハ三千人ノ
貫首ト仰ガレテ、四方輿ニコソ乗給ツルニ、アヤシゲ
ナル伝馬ニ、結鞍ト云物ヲ置テ乗セ奉ル。イツクシゲ
Ｐ１２１２（四ウ）
ナル御手ニ、皆水精ノ御念珠ヲ持給ヘルヲ、縄手綱ニ取
具テ前輪ニウツブシ入テ、見馴給シ御弟子一人モ不
付奉一、門徒ノ大衆モ見送リ奉ラズ。官人共ノ先ニ追立
ラレテ、関ヨリ東ニ趣給フ御心ノ内、中有ノ旅トゾ思
食ケル。夢ニ夢ミル心地シテ、流ルヽ涙ニ御目クレ、
行先モ見ヘ給ハズ。是ヲ奉見一上下ノ諸人、涙ヲ流ヌハナ
カリケリ。日モ既ニ晩ニケレバ、粟田口ノ辺、一切経ノ別所ト
云所ニ、シバシヤスラヒ給フ。夜ヲ待アカシテ、次日ノ午時
バカリニ、粟津ノ国粉寺ノ堂ニ立入テ、シバラクヤスミ給フ。
依之一満山ノ大衆、一人モ残留マラズ東坂本へ下ツヽ、十禅師ノ
Ｐ１２１３（五オ）
御前ニ集会シテ僉議シケルハ、「抑我山者、仏日照臨之
地、法水交流之砌也。所以ニ旧学之高才、継テ踝一ヲ、翫（二）ビ天
台三観ノ之月一ヲ、後進之翔楚、為（二）テ林妙一ヲ、瑩（二）ク四教権実之玉一ヲ。
月氏雲モ幽ニシテ、雖（レ）モ隔（二）ト鷲嶺之視聴ヲ於西天之昔一ニ、日
域光リ朗ニシテ、全ク得り（二）鵞王之大法於東漸之今一ニ。霊山ノ
ノツ
八万替テ質一チヲ、象（二）トリ三千余人之学徒一ニ、地誦ノ十界、弊躰一ヲ
捧（二）グ東西楞厳之文巻一ヲ。仏日和テ光一ヲ、弘（二）メ四明ノ峯ニ於一乗
之法一ヲ、覚月同シテ塵一ニ、調（二）フ台嶺ノ麓ニ於八相之磯一ヲ。誠ニ日域無
二之霊山、天下無双之勝地也。又座主和尚ト者、究（二）テ仏
教之奥旨一ヲ、昇（二）リ高位之崇斑（一）ニ、仰（二）テ一山之貫首一ト、為（二）リ三
六以下『澄憲作文集』第二 二「叡山歎徳」による。
七「高」去声、「才」平声。
八「翔」「楚」ともに平声。
一「法（ノ）リ」（澄憲作文集）。「法ノリ」（名義抄）。
二以下同じく第一七「座主」による。
Ｐ１２１４（五ウ）
千之棟梁一。両界三部ハ万練之鏡、大日遍照之秘法ニ無ク
陰一リ、一乗五律ハ深淵之水、仏衆法海之勝文ニ波静
也。威風遠ク扇テ靡シ梢一ヲ、慈雲厚ク覆テ満山受ク潤一ヲ。
クタシ
朽（二）テ止観ノ窓一ニ於臂一ヲ、多年尋（二）ネ南岳天台之源一ヲ、澄（二）テ瑜
伽ノ壇ニ於心一ヲ、数歳汲（二）ム龍智龍猛之流一ヲ。云貫首一ト、云山上一ト、誰カ
是ヲ軽シメム。就中一、伝教、慈覚、智証三代之御事ハ申ニ
不及一。義兵和尚ヨリ以来五十五代、未ズダ（レ）聞（二）カ天台座主流
罪ノ之例一ヲ。末代ト云ドモ争カ我山ニ疵ヲバ付ベキ。所詮一三
千ノ大衆、身ヲ我山ノ貫首ニ代ヘ奉リ、命ヲバ伊王山王ニ進ラ
ス。粟津ヘ罷向テ、貫首ヲ可奉ル取リ留一メ。但シ追立ノ官人、領
三以下同じく第二〇「顕密兼学」による。最初の句は「しくわんのまどにひぢをくたして」とよむ。
Ｐ１２１５（六オ）
送使アムナレバ取得奉ム事難シ。山王大師ノ御カヨリ外
憑方ナシ。事故ナク取得奉ルベクハ、只今験シ見セ給ヘ」ト、三
千人ノ衆徒一同ニ肝胆ヲ摧テ祈念ス。良久クアリテ、一人ノ物付
狂出テ、暫ク狂ヒ躍ル。五躰ヨリ汗ヲ流シテ申ケルハ、「世ハ末ナレドモ
日月未ズダ地ニ落一。国ハ賤ケレドモ霊神光ヲ耀ス。爰ニ貫
首明雲ハ、我山ノ法燈、三千ノ依怙タリ。而ヲ罪ナクシテ他
国ニ遷レム事、一山ノ瑕瑾、生々世々ニ心憂カルべシ。サラムニ
取テハ、我此山ノ麓ニ跡ヲ留テモ、ナニカハセム。本土ヘコソ帰ラ
ムズラメ」トテ、袖ヲ皃ニヲシアテヽ、サメ＜”ト泣ケレバ、
大衆是ヲ怪テ、「実ニ山王ノ御詫宣ナラバ、我等ガ念珠ヲ
四「等」虫損。あるいは「上」かも。
Ｐ１２１６（六ウ）
献リタラムヲ少モ違ヘズ本ノ主々ヘ返給ベシ」トテ、衆徒
等念珠ヲ同時ニ宝前ヘ投タリケレバ、物付足ヲ悉ク
拾集テ、本ノ主々ヘ一々ニ賦リ渡シテケリ。誠ニ我山ノ七社
権現ノ霊験ノ新ニオワシマス忝ケナサニ、大衆涙ヲ流ツヽ、
「サラバトウ＜迎ヘ奉レヤ」トテ、或ハ眇々タル志賀唐崎ノ
浜路ニ小馬ニ鞭打衆徒モアリ。或ハ漫々タル山田矢馳
ノ湖上ニ、舟ニ棹ス大衆モアリ。東坂本ヨリ粟津へ
ツヾキテ、国分寺ノ堂ニオワシマシケル座主ヲ取留奉リ
ケレバ、キビシゲナリツル追立ノ官人モミヘズ、領送使モ
イヅチカ行ヌラム、失ニケリ。座主ハ大ニ怖給テ、「勅勘ノ者ハ
五「賦クハル」（名義抄）。
Ｐ１２１７（七オ）
月日ノ光ニダニモアタラズトコソ申セ。時剋ヲ廻サズ追下
サルベキ由宣下セラルヽニ、暫モヤスラフベカラズ。衆徒
トク＜返上給ヘ」トテ、ハシ近ク居出テ宣ケルハ、「三台
槐門ノ家ヲ出テ、四明荊蕀ノ窓ニ入シヨリ以来、広ク円宗ノ
教法ヲ学シテ、只我山ノ興隆ヲノミ思、国家ヲ祈奉ル
事モ疎ナラズ。門徒ヲ省ム志モ深カリキ。身ニ誤ツ事
ナシ。両所三聖定テ照覧シ給ラム。無実ノ讒奏ニヨリ
テ遠流ノ重科ヲ蒙ル、是先世ノ宿業ニテコソハ有
ラメト思へバ、世ヲモ人ヲモ神ヲモ仏ヲモ、更ニ恨奉ル事
ナシ。是マデ訪来リ給ヘル衆徒ノ芳心コソ申尽シガ
Ｐ１２１８（七ウ）
タケレ」トテ、涙ニ咽給フ。香染ノ御袖モ絞ル計也。是ヲ見
奉テ、ソコバクノ大衆モ皆涙ヲ流ス。ヤガテ御輿ヨセテ
乗奉ラムトシケレバ、「昔コソ三千人ノ貫首タリシカド
モ、今ハカヽルサマニナリタレバ、争カ無止事修学者、智
恵深キ大徳達ニハカヽゲサヽゲラレテ、我山へハ帰リ可
登一ル。藁履ナムド云物ハキテ、同サマニ歩ツヾキテコソ
上リ候ハメ」トテ、乗リ給ハザリケレバ、カヽル乱逆ノ中ナレ
ドモ、万ヅ物哀ナリケルニ、西塔ノ西谷ニ戒浄房阿闍梨
祐慶トテ、三塔ニ聞ヘタル悪僧有ケリ。三枚甲ヲ居
頸ニキナシ、黒革威ノ大荒目ノ草摺長ナルニ、三尺五
一底本「止」に「ヤ」と振仮名を付す。「ヤムゴトナシ」の「ヤ」を示したもの。
二「枚」、底本「牧」。
Ｐ１２１９（八オ）
寸ノ大擲刀ノ茅葉ノ如ナルヲツキ、「大衆ノ御中ニ申候ワム」
トテ、サシコヘ＜分行テ、座主ノ御前ニ参リテ、甲ヲ
抜テ、藪ノ方ヘガハト投入ケレバ、下部ノ法師原取テケリ。
擲刀脇ニ挟ミ、膝ヲカヾメテ申ケルハ、「加様ニ御心弱ク
渡セ給ニヨリテ、一山ニ疵ヲモ付サセ給、心憂目ヲモ御
覧ゼラレ候ゾカシ。貫首ハ三千人ノ衆徒ニ代テ流罪ノ
宣旨ヲ蒙給ニ、三千人ノ衆徒者、貫首ニ代リ奉リテ
命ヲ失トモ、何ノ愁カアラム。トク＜御輿ニ奉リ候ベシ」ト申
テ、座主ノ御手ヲムズト取テ、御輿ニカキノセ奉リ
ケレバ、座主ワナヽク＜乗給ヌ。ヤガテ祐慶輿ノ先
三「抜」底本のまま。
Ｐ１２２０（八ウ）
陣ヲカク。後陣ハ若キ大衆、行人ナムドカキ奉ル。粟
津ヨリ鳥ノ飛ガ如クシテ登山スルニ、祐慶阿闍梨ハ一度モ
カワラザリケリ。擲刀ノ柄モ輿ノ長柄モ、クダク計ゾ見ヘ
タリケル。後陣コラヘズシテ各代リケリ。サシモサガ
シキ東坂ヲ平地ヲ歩ニコトナラズ、大講堂ノ庭ニ舁スヘ奉
ル。粟津ヘ下ラヌ、行歩ニ叶ワヌ老僧共ハ、「此事何様ニ
可有一ゾヤ。日来ハ一山ノ貫首ト仰奉リツレドモ、今ハ勅勘ヲ
蒙給テ被遠流一人ヲ、横取ニ取留ル事、始終イカヾ有ベカ
ルラム」ナムド義スル輩モアリケレバ、祐慶少モ憚ラズ、
扇開仕テ、胸ヲシアケ、胸板キラメカシテ申ケルハ、
Ｐ１２２１（九オ）
「吾山者是日本無双之霊地、鎮護国家之道場
也。山王ノ御威光弥盛ニシテ、仏法王法牛角也。衆
徒ノ意趣モ余山ニ越、賤キ小法師原ニ至ルマデ、世以テ
猶軽シメズ。何況明雲僧正ハ智恵高貴ニシテ一
山ノ和尚タリ。徳行無双ニシテ三千ノ貫首タリ。
而ヲ今罪ナクシテ罪ヲ蒙リ給事、是併山上洛
中ノ鬱リ、興福園城之嘲歟。悲哉。此時ニ当テ、顕
密ノ主ヲ失テ、止観ノ窓ノ前ニハ螢雪ノ勤廃レ、三密ノ
壇ノ上ニ護摩ノ煙絶事、心憂事ニ非ヤ。誠ニ中
途ニシテ留奉ル違勅ノ罪科難ハ遁一、 所詮、祐慶今
1 底本 「广」。「摩」の略字。
Ｐ１２２２（九ウ）
度三塔ノ張本ニ被差一テ、被（二）禁獄流罪一、被（二）首ヲ刎一
事、全ク痛存ベカラズ。且ハ今生ノ面目、冥途ノ思出
タルべシ」ト高声ニ詈テ、双眼ヨリ涙ヲ流ケレバ、満山ノ
衆徒是ヲ聞テ、老タルモ若モ、皆衣ノ袖ヲ絞リツヽ、
「尤々」ト一同ス。ヤガテ座主ヲ舁奉リテ、東塔ノ南
谷妙光坊ヘ入奉ル。其ヨリ祐慶ヲバ、異名ニハ、イカメ
房ト名タリ。其ノ弟子、恵海律師ヲバ小イカメ其
テキ
弟子〓慶備前注記ヲバ孫イカメト申ケルトカヤ。
六〔一行阿闍梨流罪事〕
時ノ横災ハ権化ノ人モ遁レザリケルニヤ、大唐ノ一行阿闍梨
ハ、玄宗皇帝ノ時、無実ノ疑ニヨリテ罪ヲ蒙ル事有
Ｐ１２２３（一○オ）
ケリ。其故ハ玄宗ノ后ニ陽貴妃ト云人オワシキ。元ヨリ
仙女ナリケレバ、蓬莱宮ヘ帰給ベキ期モ近クナリニケ
リ。御〓［女+夫］ノ楊国忠ヲ召テ宣ケルハ、「生（二）レテ仏前仏後之中間一ニ、
漏（二）レ釈尊慈氏之記別一ニ、沈（二）テ行住坐臥之妄念一ニ、結（二）ブ生死
流転之業因一ヲ。三界処広ケレドモ、皆是有為無常之
境ヒ、四生形多レドモ、又是生者必滅之類ナリ。依之、十
力無畏之尊、任（二）セ寂滅於双林之嵐一ニ、六天浄妙之楽、悲（二）シム
退没於五衰之露一ニ。会者定離之理リ、見（二）へ東岱之煙一ニ、
老少不定之習、聞（二）ユ南門之風一ニ。帝ニ可奉別一期ノ近付
タルヤラム、此程ハ胸騒打シテ、ハカナキ夢ノミ見ヘ
一「陽貴妃」底本のまま。「楊貴妃」が正しい。
二「期トキ」（名義抄）。
三底本「尺」とある「釈」の略字。
四以下「悲退没於五衰之露」まで、『澄憲作文集』第六二「為児追善」による。
Ｐ１２２４（一〇ウ）
スマイ
テ、常ニ心ノスムゾトヨ」ト宣ケレバ、「南浮不定之棲、奉（レ）リ
憑（二）ミ諸尊ノ妙躰一ヲ、息災延寿之基、無（レ）シ如（二）ハ菩薩浄戒一ニ。彼
一行者、戒珠ヲ瑩テ光ヲ増シ、尸羅ヲ織テ色鮮ナリ。
彼ヲ召請ジテ三摩耶戒ヲ受サセ給ベシ」ト申ケ
レバ、一行ヲ召テ道場ヲ飾ル。所捧一者、山野四季之花、
備テ仏前一ニ色鮮ナリ。所供一者、草木百菓之香、薫テ
道場一ニ匂芳シ。然ドモ、帝ノ御ユルサレナカラムニハ輙ク戒ヲ
難授奉一旨ヲ申サル。其時貴妃ノ宣ク、「和尚ハ菩薩ノ行ヲ
立テ、一切衆生ヲ導給ナルニ、 何ゾ我身一人ニ限テ、戒ヲ授ケ
給ザルベキヤ」ト恨給ケレバ、サラバトテ、七日七夜、菩薩
Ｐ１２２５（一一オ）
浄戒ヲ授奉ラル。 其比、安禄山ト云ケル大臣、奸心ヲ挾テ、楊
国忠ヲ失テ、国ノ務ヲ執バヤト思心深シテ、次デヲ求ケ
ル折節、此事ヲ漏聞テ、密ニ皇帝ニ申ケルハ、「后既ニ帝ニ
二心オワシマシテ、楊国忠ニ御心ヲ合テ、一行ニ近付給事
アムナリ。君打解給ベカラズ」ト。帝是ヲ聞召テ、「貴妃我ニ
志浅カラズ。一行又貴僧也。何故ニカ只今猿事アルベキ」
ト思給ケレドモ、実否ヲ知給ムガ為ニ、陽貴妃ノ真ノ躰ヲ
少モ違ヘズ画ニ書テ、献ルベキ由ヲ一行ニ仰ラル。一行大唐一ノ
ニセ絵ノ上手ニテオワシケレバ、カヽル謀有トモ知給ハズ、筆ヲ
尽シテ貴妃ノ形ヲ移シテ進セラルヽ程ニ、イカヾシタリ
Ｐ１２２６（一一ウ）
ケム、筆ヲ取ハヅシテ、貴妃ノ臍ノ程ニ当リテ、墨ヲ付テケリ。「貴妃ノ膚ニハ黒子ト云物ノアリケルトカヤ。書ナヲサバヤ」トハ被思ケレドモ、帝ヲソシト責給ケレバ献ヌ。帝此ヲ見給テ、「安禄山ハ実ヲ云ケリ。一行、貴妃ニ近付ズハ争カ膚ナル黒子ヲバ知ベキ」トテ、即一行ヲ火羅国ト云国へ流サル。件国ハ古キ王宮ナリケレバ、彼国ヘ下ル道三アリ。一ノ道ヲバ林池道ト云。此道ハ御幸路也。一ノ道ヲバ遊池道ト名ク。貴賤上下ヲ嫌ハズ行通フ道也。今一ノ道ヲバ闇穴道ト名タリ。犯科ノ者出キヌレバ、流遣ス路也。此道ハ下ニ水湛々トシテ際ゾナク、上ニハ日月星宿ノ光モミヘ給ハズ。
五「膚ハダヘ」 （名義抄）。
六「黒子ハハクソ」（前田本色葉）。
七「ソ」虫損あり。あるいは「ヲ」かも。長門本「も」。
Ｐ１２２７（一二オ）
七日七夜空ヲミズシテ行道ナリケレバ、冥々トシテ
天闇ク、行歩ニ前途ノ路ミヘ
Ｂ１１２０
ズ。深々トシテ人モナク、函谷ノ鶏ノ一声モナク、サコソハ心細ク悲ク思給ケメ。思遣レテ哀也。一行無実ニヨリテ遠流之罪ヲ被ル事ヲ天道憐給テ、九曜ノ形ヲ現ジテ守給フ。一行随喜ノ余ニ、右ノ指ヲクヒキリテ、左ノ三衣ノ袂ニ、九曜ノ形ヲ写留メ給ニケリ。火羅ノ図トテ、吾朝マデモ世ニ流布スル、九曜ノ蔓茶羅ト申ハ、即是也。一行阿闍梨ト申ハ龍猛菩薩ヨリハ六代、龍智アザリヨリハ五代、金剛智三蔵ヨリハ四代、不空三蔵ヨリハ三代、善無畏三蔵ノ御弟子也。
一「九」「曜」ともに上声。
Ｐ１２２８（一二ウ）
Ｐ１２３１（一四オ）
ム事無疑一。甲斐ナキ命コソ大切ナレ。他人ノ口ヨリ漏レヌ先ニ返中シテ、命生ナム」ト思テ、五月廿九日、夜打深テ大政入道ノ許ヘ行向テ、「行綱コソ可申一事ア（ッ）テ参テ候ヘ」ト申ケレバ、「常ニモ参ヌ者ノ只今夜中ニ来タルコソ心得ネ。何事ゾ。聞」トテ、平権守盛遠ガ子、主馬判官盛国ヲ出サレタリ。「人ヅテニ可申一事ニ非ズ。直ニ見参ニ入テ申ベシ」ト申ケレバ、入道、右馬頭重衡相具テ、中門廊ニ出合テ、入道宣ケルハ、「六月無礼トテ紐トカセ給へ。入道モ白衣ニ候」トテ、
Ｂ１１２２
白帷ニ白大口フミクヽミテ、スヾシノ小袖打カケテ、左ノ手ニ打刀ヒ（ッ）サゲ
Ｐ１２３２（一四ウ）
テ、蒲打輪仕ハル。「此夜ハマウニフケヌラム。イカニ何事
ニオワシタルニカ」。行綱近々卜指寄テ、小音ニナリテサヽ
ヤキ申ケルハ、「イト忍テ可申一事候テ、昼ハ人目ノ
ツヽマシサニ、態ト夜ニマギレテ参テ候。院中ノ人々兵具
ヲトヽノヘ、軍兵ヲ召集ラルヽ事ヲバ、知食レテ候ヤラ
ム」ト申ケレバ、「イサ、ソレハ山ノ大衆ヲ可被責一トコソ承レ」
ト、イト事モナゲニ宣ケレバ、「其儀ニテハ候ハズ」トテ、
日来月来、新大納言ヲ始トシテ、俊寛ガ鹿谷ノ山庄ニテ
ヨリアヒ＜内議支度シケル事、「其レハトコソ申
候シカ、カクコソ申候シカ」ト、人ノ吉事云タルヲバ
Ｐ１２３３（一五オ）
我申タリシト云、我悪口シタリシヲバ人ノ申タルニ語リ
ナシ、五十端ノ布ノ事ヲバー端モ云出サズ、有ノマヽニハ指過
テ、ヤウ＜サマ＜ノ事共取付テ細ク申ケレバ、入道
大ニ驚テ宣ケルハ、「保元平治ヨリ以来、君ノ御為ニ命ヲ
捨ル事既ニ度々也。人々イカニ申トモ、キミ君ニテ
渡ラセ給ハヾ、争カ入道ヲバ子々孫々マデモ捨サセ
給ベキ。乍恐一君モクヤシクコソ渡ラセ給ハムズラメ。
抑此事ハ院ハ一定被知食一夕ルカ」ト宣ケレバ、「子細ニ
ヤ及候。大納言ノ軍兵被催一候シモ、院宣トテコソ
催サレ候シカ」。其外モ様々ノ事共云チラシテ、「暇申テ」
一「細クハシ」（名義抄）。
Ｐ１２３４（一五ウ）
トテ帰ニケリ。入道大声ニテ侍共ヲヨビテ、詈リシカ
ラレケル気色、門外マデ聞ヘケレバ、行綱慥ナル
証人ニモゾ立トテ、穴怖シトテ、野ニ火ヲ付タル心地
シテ、人モヲハヌニ取袴ヲシテ、怱ギ馳帰リヌ。
八〔大政入道軍兵被催集事〕 入道貞能ヲ召テ、「謀叛ノ者共ノ有ナルゾ。侍共キト召
集ヨ。一家ノ人々ニモ各フレ申セ」ト宣ケレバ、面々ニ使
ヲハシラカシテ此山ヲ申ニ、凡ソイヅレモ＜騒アヒ
テ、我先ニト馳集ル。右大将宗盛、三位中将知盛、
右馬頭重衡ヲ始トシテ、人々、侍、郎等、各甲冑ヲ
ヨロヒ、弓箭ヲ帯シテ馳ツドフ。其勢雲霞ノ如シ。
Ｐ１２３５（一六オ）
夜中ニ五千余騎ニナリニケリ。
九〔大政入道院御所ヘ使ヲ進ル事〕 六月一日、未ホノグラキ程ニ、入道ノ検非違使安倍ノ資
成ヲ召テ、「院御所ヘ参テ大膳大夫信業ヲ呼出テ申サム
様ハヨナ、『近習ニ候者共ノ恣ニ朝恩ニ誇ル余ニ、世ヲ乱ラムト
仕ル由承候ヘバ尋沙汰仕ルベシ』ト申セ」トテ、進ラスル。資
成怱ギ院ノ御所ヘ参テ、信業ヲ呼出シテ此由ヲ申
ケレバ、信業色ヲ失テ、御前ニ参ジテ奏聞シケレドモ、
分明ノ御返事ナカリケリ。「此事コソエ御心得ナケ
レ。コハ何事ゾ」ト計仰アリ。資成怱ギ馳帰テ此由ヲ
申ケレバ、入道、「ヨモ御返事アラジ。何ニトカハ仰有ベキ。
Ｐ１２３６（一六ウ）
ハヤ君モ知セ給タリケリ。行綱ハ実ヲ云ケリ」トテ、
イカラレケリ。
十〔新大納言召取事〕 其後雑色ヲ以テ、「新大納言ノ許ニ行テ、『可奉申合一事
アリ。怱渡セ給ヘ』ト申ベシ」ト宣ケレバ、使走付テ此様ヲ
申ス。大納言、「哀レ、是ハ例ノ山ノ大衆ノ事ヲ院ヘ申サムズルニヤ。
此事ハユヽシク御憤深ゲナリ。叶フマジキ物ヲ」ナド
思テ、我身ノ上トハ露知リ給ハデ、怱被出一ケルコソハカ
1ハシリ
ナケレ。八葉ノ車ノ鮮ナルニ、前駈三人、侍三四人召具シテ、
上キヨゲナル布衣タヲヤカニキナシテ、雑色、牛飼ニ
至ルマデ、常ノ出仕ヨリハ少シ引ツクロヒタル躰ニテ
1「ハシリ」の訓に従えば、「前駆」は「サキハシリ」と読むことになるか。通常は「セングウ」と読む。
Ｐ１２３７（一七オ）
ゾ被出一ケル。其モ最後ノアリキトハ後ニコソ思合セ給ケメト哀也。入道ノヲワスル西八条近クヤリヨセテ、其程ヲ見給ヘバ、四五丁ニ軍兵充満セリ。「穴ヲビタヽシ。何ナル事ゾ」ト胸打騒ギテ、車ヨリ下リ給タレバ、門ノ内ニモ兵ノ所モナク立コミテ、只今事ノ出タル躰也。中門ノトニ怖シゲナル者二人立向テ、大納言ノ左右ノ手ヲ
イマシメ
取テ引張リテ、ウツブサマニ投臥テ、「可（二）警奉一カ」ト
申。入道殿、「昨日マデハ院ノ御所、私所ニテモ肩ヲ比べシ卿相也。今コソ敵トハナラムカラニ」ト、イカレル心ニモカハユクヤ思レケム、「シカラズトモ」トテ、ツト入給ヌ。
Ｐ１２３８（一七ウ）
其後、兵ノ十余人来テ前後左右ニ立カコミ、天ニモ上ズ地ニモツケズ、中ニ引クヽ（ッ）テ、上ヘ引ノボセ奉リ、一間ナル所ニヲシコメツ。大納言夢ノ心地シテ、アキレテ物モ宣ハズ。是ヲ見テ、共ニ有ツル諸大夫、侍モ、雑色、牛飼童モ、牛、車ヲ捨テ四方ヘ逃失ヌ。大納言ハ六月ノサシモ熱キ比、一間ナル所ニコメラレ
人ガ中ニ追立テ行テ、八条ニテ、「カク」ト申入タリケレバ、門ヨリ内へモ入ラ
Ｐ１２４１（一九オ）
レズ。即重俊ガ奉ニテ事ノ発ヲ尋ラレケレバ、初ハ大ニ
アラガヒ申テ、我身ニアヤマラヌ由ヲ陳ジケレバ、入道
大ニ腹ヲ立テ、乱形ニカケテ打セタメテ問ケレバ、有事
無事落ニケリ。白状カヽセテ判セサセテ入道ニ
奉ル。入道是ヲ見給テ、「西光取テ参レ」ト宣ケレバ、重俊
ガ家子郎等、空ニモ付ズ地ニモ付ズ、中ニサゲテ
参タリ。ヤガテ面道ノマガキノ前ニ引スヘタリ。入道ハ、
長絹ノ直垂ニ、黒糸威ノ腹巻ニ、金作 ノ大刀、カモメ尻ニハキナ
シテ、上ウラナシフミチギリテ、スノコノ辺ニタヽレタリ。
其気色益ナゲニゾミヘラレケル。サテ西光ヲニラマヘテ
1『名語記』に「問、人ヲ『セタム』 如何。答、『セメトハマク』ノ反、『セメトガメル』ノ反」とある。
2「面道」は「馬道（めだう）」のこと。
Ｐ１２４２（一九ウ）
宣ケルハ、「イカニ己程ノヤツハ入道ヲバ傾ケムトハスルゾ。元ヨリ
下臈ノ過分シツルハカヽルゾトヨ。 アレ程ノ奴原ヲ召上テ、
ナサルマジキ官職ヲナシタビテ召仕ハセ給之間、ヲヤコ
共ニ過分ノ振舞スル者哉トミシニ合セテ、罪モオハセヌ
天台座主讒シ奉テ、遠流ニ申行テ、天下ノ大事引出
シテ、剰ヘ此事ニ根元与力ノ者ト聞置タリ。其子細具ニ
申セ」ト宣ケレバ、西光元ヨリサルゲノ者ナリケレバ、
少モ色モ変ゼズ、ワルビレタル気色モナクテ、アザ咲
テ、「イデ後言セム」トテ申ケルハ、「院中ニ被召仕一身
ニテ候へバ、執事別当、新大納言殿ノ院宣トテ被催
Ｐ１２４３（二〇オ）
候シ事ニ、与セズトハ、争カ申候ベキ。与シテ候キ。但
耳ニ止ル御詞ヲモツカハセ給者哉。他人ノ前ハシラズ、西光ガ
前ニテハ、過分ノ御詞ヲバ、エコソツカハセ給マジケレ。見
ザリシ事カ、殿ハ故刑部卿殿ノ嫡子ニテ渡ラセ給シカ
ドモ、十四五才マデハ叙爵ヲダニモシ給ハズ、冠ヲダニモ
給ラセ給ハデ、継母ノ池ノ尼公ノアハレミテ、藤中納言
家成卿ノ許ヘ時々申ヨリ給シ時ハ、『アハ、六波羅ノフカス
ミノ高平太ノ通ルハ』トコソ京童部ハ指ヲ指シテ
申シカ。其後、故卿殿、海賊張本卅余人搦メ出レ
タリシ勲功ノ賞ニ、去ジ保延ノ比カトヨ、御年十七カ八
Ｐ１２４４（二○ウ）
カノ程ニテ四位シテ、四位ノ兵衛佐ニ成給タリシヲコソ、
ユヽシキ事哉ト、世以テ傾キ申シカ。同王孫ト云ナガラ、
数代久成下テ、殿上ノ交リヲダニモ嫌レテ、闇打ニ
セラレムトシ給シ人ノ子ニテ、今忝モ即闕ノ官ヲ奪取
リテ、大政大臣ニ成上リテ、剰ヘ天下ヲ我マヽニ思給ヘ
リ。是ヲコソ過分トハ申べケレ。侍品ノ者ノ受領、
カウフ
検非違使、靭負尉ニナル事ハ傍例ナキニ非ズ。ナニカ
ハ過分ナルべキ。入道コソ過分ヨ。＜」ト、居長高ニナ
リテ、詞モタバワズ散々ニ申ケレバ、入道余ニ怒テ
物モ宣ハズ。暫アリテ、「西光メ左右ナク首切ナ。能々
Ｐ１２４５（二一オ）
二
サヒナメ」ト宣ケレバ、重俊ガ郎等ツトヨリテ、フトキ
シモトヲ以テ七十五度ノ考訊ヲ加タリ。西光心ハ武力
シ（もと）
リケレドモ、本ヨリ問損セラレタル上、枳身ニシミテ
術ナカリケレバ、残ナク落ニケリ。白状四五枚ニ被記一
タリ。良久アリテ、内ノ方ヨリ人ノ足音高ラカニシテ
来ケレバ、大納言ハ只今失ワレナムズルヤラムト、肝心ヲ
ケシテ居ラレタリケルニ、入道、大納言ノオハシケル後ノ
障子ヲアラヽカニサツトアケラレタリ。素絹ノ衣ノ短ラ
カナルニ、白大口フミクヽミテ、聖柄ノ刀ヲヲシクツロゲ
テ、大ニ怒レルケシキニテ、大納言ヲニラマヘテ
二「拷訊ガウジン」（文明本節用集）。「訊」平声濁。
Ｐ１２４６（二一ウ）
宣ケルハ、「ヤヽ大納言殿。一年、平治ノ逆乱之時、信頼、
義朝等ニ御同心ア（ッ）テ、朝敵トナリ給タリシ時、越後
中将トテ、嶋摺ノ直垂、小袴キテ、折烏帽子引
立テ、六波羅ノ馬屋ノ前ニ引スヘラレテオワセシ
カバ、罪二定テ既ニ被誅一給ベキニテオハセシヲ、内府
トカクシテ申宥タリシカバ、『七代マデノ守ノ
神トナラム』ト、手ヲ合テ泣々宣シ事ハ忘給タルナ。
人ハミメ皃ノナダラカナルヲバ人トハ申ヌゾ。恩ヲ知ヲ
以テ人トハ申ゾ。ワ殿ノ様ナル者ヲコソ、人ノ皮ヲキタル
畜生トハイヘ。サレバ何ノ科怠ニヨリテ、当家ヲ
Ｐ１２４７（二二オ）
可滅一之由ノ御結構アリケルヤラム。サレドモ微運ノ
尽ザルニヨリテ、此事顕テ迎申タリ。日来ノ御
結構ノ次第、只今直ニ承候ベシ」ト宣ケレバ、大納言涙ヲ流テ、
レン
「愍身ニ取テハ全ク誤タル事ナク候。人ノ讒言ニテゾ
候ラン。委ク御尋アルベク候」ト宣ケレバ、入道イハセモハテ
ズ、「西光法師ガ白状マヒラセヨ」ト宣ヘバ、持テ参タリ。
入道引広テ、クリカヘシ高ラカニ二返マデヨマレ
タリ。成親卿ヲ始トシテ、俊寛ガ鹿谷坊ニテ平家ヲ
滅スべキ結構ノ次第、法皇ノ御幸、康頼ガ答返、一事トシ
テ漏ルヽ所ナシ。四五枚ニ被記一タリ。「是ハイカニ。此上ハ
Ｐ１２４８（二二ウ）
破陳ニヤ及ベキ。是ハドコヲアラガフゾ。アラニクヤ」
トテ、白状ヲ大納言ニ投カケテ、障子ヲハタトタテヽ
返給ケルガ、猶腹ヲスヘカネ給テ、
十二〔新大納言ヲ痛メ奉ル事〕 「経遠、兼康ハナキカ」ト宣ケレバ、経遠、兼康、季貞、
盛国、盛俊ナムド参リタリケレバ、「誰ガ下知ニテ、アノ
大納言ヲバ障子ノ内へハノボセケルゾ。アレ坪ニ引下
シテ取テフセテ、シタヽカニサイナミテ、オメカ
セヨ」ト宣ケレバ、程遠已下ノ兵共ツトヨリテ、大納言ヲ
庭ニ引落ス。其中ニ季貞ハ元ヨリ情アル者ニテ、大
納言ヲ取テヲサヘテ、左手ニテ大納言ノ頸ヲツヨク
Ｐ１２４９（二三オ）
取様ニシテ、サスガニツヨクトラズ、右手ニテ大納言ノ
胸ヲヲス様ニシテ、ツヨクヲサズ。季貞ガ□ヲ大納言ノ
耳ニ指アテヽ、「入道ノキカセ給候ヤウニ、只御声ヲ立
テヲメカセ給ヘ」トサヽヤキケレバ、大納言声ヲア
ゲテ二声三声ヲメカレケルヲ、入道聞給テ、
「只ヲシ殺ヤ＜」トゾ宣ケル。其ノ有様目モアテラ
レズ。地獄ニテ獄卒阿防羅刹ノ浄頗梨ノ鏡ニ罪人
ヲ引向テ、前世ニ造シ所ノ業ニヨリテ、呵嘖ノ杖ヲ加へ、
業ノ秤ニ懸テ軽重ヲ糺シテ、「非二異－人作悪、異人受
苦報一ニ。自業自得果、衆生皆如是」ト云テ、刑罰ヲ行
一「糺」、底本「化」。長門本「たゞし」により改める。
二底本「異」に「イ」の振り仮名。
Ｐ１２５０（二三ウ）
ハン フウカンハウニニラギスサレタリ
ラムモカクヤト覚テ無慚也。「蕭樊、囚〓［幸+風］韓彭一、〓〓。
テウソ リク ギ ツミセ ヨ タスケ シ
晃錯一ニ受ケ戮一ヲ、周魏見ラル辜一。其ノ余、佐レ命一ヲ立レツ功一ヲ之士、
カ ギ ア ブ ト ラ マコト イダ ソナヘ
賈－誼、亜－夫之徒、皆信ニ命世ノ之才ナリ。抱ニケリ将相之具一ヲ。而
クワハイ ハン
受二テ少人之讒一ヲ、並ビニ受二ク禍敗之憂一へヲ」ト云ヘリ。蕭－荷、樊－
ヒ カム ハウエツ
会、韓－信、彭－越、皆高祖之功臣タリシカドモ、カクノ
ミコソ有ケレ。「唐朝ニモ不限一、我朝ニモ保元平治ノ比ハ
浅猿カリシ事共モ有シゾカシ。新大納言一人ニモ
限ルマジ。コハイカヾハセムズル」ト、人歎アヘリ。カクシテ
季貞ノキニケリ。大納言半死半生ニゾミヘラレ
ケル。内大臣此後イト久アリテ、烏帽子直垂ニテ、
三『文選』巻四一書上、李少卿「答二蘇武一書」による。
以下の訓読を示す。「せうはん、とらはれとらはれて、かんはう、にらぎすされたり。てうそ、りくをうけ、しうぎ、つみせらる。そのよ、めいをたすけ、こうをたつるし、かぎ、あぶのともがら、みなまことにめいせいのさいなり。しやうしやうのそなへをいだけり。しかるに、せうじんのざんをうけて、ならびにくわはいのうれへをうく」。
また以下の漢字に声点がある。「樊」平声、「韓」去声、「晃」平声、去声、「錯」上声、「賈」上声、「誼」上声濁、「亜」上声、「夫」上声濁。
四底本「田」と書いて見せ消ちにして「囚」と直す。またその右側に「トラハレトラハレテ イ」と記す。
五底本では「キ」の左肩（上声の位置）に濁点を付す。
六「韓」平声。
Ｐ１２５１（二四オ）
子息ノ少将、車ノ尻ニノセテ、衛府四五人、随身二三人
計召具テ、ソレラモ皆布衣ニテ、物具シタル者一人モ
具セズシテ、ノドヤカニテヲハシタリ。入道ヲ初奉リ
テ、人々思ハズニ思給ヘリ。「イカニ、是程ノ大事ノ出キ
タルニ」ト人々宣ケレバ、「何事カハ有べキ」ト宣ケルニコソ、
人々皆シラケニケレ。兵具ヲ帯シタル者、ソヾロキテゾ
有ケル。内府、「猿ニテモ大納言ヲバ何ニトシテケルヤラン。
今ノ程ニハ死罪流罪ニハヨモ及バレジ」ト思召テ、見廻給
ヘバ、侍ノ障子ノ上ニ、大ナル木ヲ以テ、クモデヲ結チガヘタル一
間ナル所アリ。日来カヽル所有トモ思ハヌニ、俄ニイデキ
Ｐ１２５２（二四ウ）
タリケレバ、「哀コヽニ大納言ヲバ籠タルヨナ」トオボシテ、
只今コソトホル由、キトヲトナハレタリケレバ、如案一大
納言クモデノ間ヨリ内府ヲ見付テ、地獄ニテ地蔵
菩薩ヲ見奉リタラムモ、是ニハ過ジトウレシクテ、「是ハ
イカナル事ニテ侯ゾ。誤タル事モ候ハヌ物ヲ。サテ
オハシマセバ、サリトモトコソ思奉テ候ヘ」トテ、ハラ＜
ト泣給モ無慚也。大臣ハ、「人ノ讒言ニテゾ候ラム。御命
計ハ申請バヤトコソ思給ヘドモ、ソレモイカヾ候ハンズ
ラム」ト、タノモシゲナク宣ヘバ、「心ウシ。平治ノ乱ノ時、失
ヌベカリシニ、御恩ヲ蒙テ、命ヲ被生一奉テ、正二位大納
一「ニ」虫損。長門本により補う。
Ｐ１２５３（二五オ）
言ニ至、年既ニ四十余ニ成侍ヌ。生々世々ニ報ジ尽シ奉リ
難クコソ思給ヘ。此度ノ命計ヲ同ハ生サセ給へ。頭ヲ剃テ
高野、粉河ニモ籠テ、一筋ニ後世ノ勤ヲセム」ト宣モ哀也。
「重盛カクテ候ヘバ、サリトモト思召ベシ。御命ニモ代リ
奉ルべシ」トテタヽレケレバ、カク宣ニ付テモ只甲斐ナ
キ涙ノミゾ流ケル。「少将モ召ヤ取レヌラム。残留ル跡ノ
有様モイカナルラム。少キ者共モ穴倉シ」。我身ノ御事ハ
猿事ニテ、是ヲオボシツヾクルニ、胸セキアゲテ、熱サモ
堪ガタキニ、晩ヲ待タデ、命モ可絶一ゾ覚シケル。内ノ大臣
ノオハシツル程ハ 聊ナグサム心地モシツルニ、イト詞少ニテ
二「ノ」虫損、あるいは「ナ」か。
Ｐ１２５４（二五ウ）
帰給テ後ハ、今少シ物モ怖シク悲クゾオボサレケル。
〔十三〕〔重盛大納言ノ死罪ヲ申宥給事〕 大臣殿、入道ノ前ニオワシタリケレバ、入道宣ケルハ、「大納言ノ
謀叛ノ事ハ被聞一タルカ」。「サ〔ン〕候。皆承リテ候」。「サテ何
様ナル罪ニ可被行一ニテ候ヤラム。事モ愚カヤ、只今
切ラムズル物ヲ」ト宣ケレバ、大臣宣ケルハ、「サテハ不便事
コソ候ナレ。大納言ヲ失ハン事ハ能々御計候ベシ。六条
修理大夫顕季卿、白川院ニ被召仕一奉リシヨリ以来、家
久ナリテ、既ニ位正二位、官大納言マデ昇テ、当時モ
君ノ御イトヲシミノ者ナルヲ、忽ニ首ヲ刎ラレン事、
イカヾ有ベカルラム。猿事争カ候ベキ。都ノ外ヘ被出一
Ｐ１２５５（二六オ）
タラムニ事足候ナン。カクハ聞食セドモ、若僻事ニ
テモ候ハヾ、弥不便ノ事ニ候ハズヤ。北野天神ハ時平ノ
1
大臣ノ讒奏ニヨ（ッ）テ、延喜ノ御門ニ被流一奉リ、西宮大神ハ
多田ノ新発ガ讒言ニヨ（ッ）テ、安和ノ御門ニ被流一給キ。各
無実ナリケレドモ、流罪セラレ給ニキ。是皆延喜ノ
聖主、安和ノ御帝ノ御僻事トコソ申伝タレ。上
古猶如此一。況ヤ末代哉。賢王猶御誤アリ。況ヤ凡
夫哉。委ク御尋モ可有一、能々御思惟モ有ベシ。物サハ
ガシキ事ハ、後悔先ニタヽズトコソ申セ。既ニカク被召
2
置一ヌル上ハ、怱ギ失レズトテモ何ノ苦ミカ有ベキ。『罪ノ疑キヲバ惟レ
1 「大神」は底本のまま。「大臣」とあるべきか。長門本「左大臣」。
2 『書経』大高課、「罪疑惟軽．功疑惟重」。
Ｐ１２５６（二六ウ）
軽ンゼヨ。功ノ疑キヲバ惟レ重モンゼヨ』トコソ申伝テ候ヘ。イカサマニモ今
夜首ヲ切ム事ハ不可然一」ト宣ケレバ、入道猶心ユカズ、返
事モシ給ハザリケレバ、内大臣重テ被申一ケルハ、「申
旨御承引ナクハ、先一人ニ仰付テ先重盛ガ頸ヲ可
被召一候。其後御心ニ任テ振舞オワシマシ候ヘ。重盛彼
大納言ノ妹ニ相具テ候。惟盛又大納言ノ聟也。カヤウニ
親ク罷成テ候ヘバトテ、申トヤ思召サレ候ラン。イカ
ニモ其儀ニテハ候ハズ。為世一為民一為君一為家一ヲ存ジテ
申候也。一年保元ノ逆乱之時、故少納言入道信西、適マ執
権ノ時ニ相当リ、本朝ニ絶テ久ナリニシ死罪ヲ申行テ、
Ｐ１２５７（二七オ）
左府ノ死骸ヲ実検セラレシ事ナムドハ、余ナル御政ト
コソ覚候シカ。古人ノ被申一候シハ、『死罪ヲ被レ行一バ、謀
叛ノ輩絶ベカラズ』ト。此詞ハタシテ中二年有テ、平治ニ
事出テ、信西ガ埋レタリシヲ堀ヲコシテ、首ヲ切テ渡キ。
保元ニ行シ事忽ニ報テ、身ノ上ニムカワリニケリト思合ラ
レテ、怖シクコソ候シカ。是ハサセル朝敵ニモアラズ。
方々怖有ベシ。御身ノ御栄花残所ナケレバ、今ハ思召
残ス御事ナケレドモ、子々孫々マデモ繁昌コソア
1 セキ
ラマホシケレ。『積善ノ家ニハ余慶アリ。積悪ノ門ニハ
余殃留ル』トコソ承レ。周ノ文王ハ大公望ニ命ゼラレテ、
1 『易経』坤、文言伝「積善之家、必有二余慶一。積不善之家、必有二余殃一。」
Ｐ１２５８（二七ウ）
シ ジ∃コ
四－如－己ヲ恐レ、唐ノ大宗ハ張－温－古ヲ切テ後、五復ノ奏ヲ用ラル。
1
又、『行善一ヲ則休テ（レ）徴報ズ之一ヲ。行悪一ヲ則咎テ（レ）徴随（レ）之』ナ
ムドモ申タリ。又、『世治ル事ハ琴ヲナラスガ如シ。大絃急
2
ナル時ハ、小絃絶デキル』トコソ、天暦ノ帝モ被仰一候ケレ」
ナムド、細々ト被誘申一ケレバ、ゲニモトヤ被思一ケム、今
夜切ルベキ事ハ思宥テ、其日ハクレニケリ。内大臣ハ
カク誘ヲキテ帰リ給ケルガ、猶心安カラズ覚テ、サモ
可然一侍共ヲ召テ宣ケルハ、「仰ナレバトテ、重盛ニ云合セ
ズシテ、左右ナク大納言ヲ失事不可有一。腹ノ立給
3サハガシ ヒガ
マヽニ物騒シキ事アラバ、後悔先ニ立マジ。僻事
1 底本「咎トカメ」と振り仮名。
2 「テ」に平声濁の声点がある。底本「絶デ」に傍線を付し、上欄に「不堪歟」と注記。
3 「サ」虫損。
Ｐ１２５９（二八オ）
シ出テ重盛恨ナ」ト被誡一ケレバ、武士共舌ヲ振テ
怖アヘリ。「経遠、兼保ナムドガ大納言ニ情ナク当リ
キクハイ
タリケル事、返々奇怪也。サレバ重盛ガ返リ聞ム
所ヲバ争カ憚ラザルべキ。忠清、景家躰ノ者ナラバ、縦
入道殿イカニ仰ラルトモ、カクハヨモアラジ。片田舎ノ
者ハカヽルゾトヨ」ト宣ケレバ、難波二郎、妹尾太郎モ恐
入タリケリ。
十四〔成親卿ノ北方ノ立忍給事〕 サテ大納言ノ共シタリケル者共走帰テ、「大納言殿ハ八条殿ニ
被召籠一給ヌ。ユフサリ失奉ルベシトテ、晩ルヲ待ト承リ
ツル」ト、アリツル有様ヲ粒々申ケレバ、北方ヨリ始テ、
Ｐ１２６０（二八ウ）
男女声ヲ揚テヲメキ叫。サコソ悲カリケメ。理リ押
ハカラル。夢カヤ＜ト思ドモ、ウツヽニテゾ有ケル。「イカ
ニカクテハ渡セ給ゾ。叶ハザラムマデモ立忍バセ給ヘ。
少将殿ヲ初奉テ、君達マデ被召一サセ給ベシトコソ承リ
ツレ」ト、涙モカキアヘズ申アヒケレバ、「是程ノ事ニナリ
ヲン
テ、残留ル身共安穏ニテモ、ナムノ甲斐カハ有ベキ。
イカニモ只一所ニテトモカクモナラムコソ本意ナレ。
ケサヲ限ト思ハザリケル事ノ悲シサヨ」トテ、臥マロ
ビテ泣給フ。「已ニ兵来ナム」ト人申ケレバ、カクテ
恥ガマシク有ム事モ、サスガナルべケレバ、「一マドナリ
Ｐ１２６１（二九オ）
トモ立忍給ハン」トテ出給フ。尻頭トモナキ少キ人共
取乗テ、何クヲ指テ行トモナク、遣出シツ。牛飼、「是ハイヅ
チヘ仕ルベキニテ候ヤラン」ト申ケレバ、「北山ノ方へ」ト車ノ
内ヨリ宣ヘバ、大宮ヲ上ニ、北山ノ雲林院ノ辺マデヲハシニケ
リ。其辺ナル僧坊ニオロシスへ奉リテ、送ノ者共モ身々ノ
イトマ
難レ捨ケレバ、各暇申テ帰ニケリ。今ハ甲斐ナキ少キ
人々計留リ居テ、憑シキ人一人モナクテオハシケム
北方ノ御心ノ内、押ハカラレテ糸惜シ。日ノ晩行影ヲ見給ニ
付テモ、大納言ノ露ノ命、コヨヒヲカギルナリト思遣レテ
1
消入心地ゾセラレケル。女房、侍共モカチハダシニテ恥
1 底本「タ」と書いて見せ消ちにして「チ」とする。
Ｐ１２６２（二九ウ）
ヲモ不知一迷出ニケリ。家中ノ見苦キ物ヲ取シタヽムルニモ
不及一。門ハ扉ヲ開トモ、押立ル又者モナシ。馬ハ馬厩ニ立レ
ドモ、草飼ナヅル人モナシ。夜アクレバ中馬門ニ立テ、
ヒンカク 1
賓客座ニ列レリ。遊ビ戯レ舞ヒ躍リ、世ヲ世トモ思ハズ。
近隣ノ人ハ物ヲダニモ高クイハズ、門前ヲスグル者モ怖
恐レテコソ、昨日マデモ有ツルニ、夜ノ間ニ替行有様、
アラハ
盛者必衰ノ理り、限ノ前ニコソ顕レケレ。夜モ漸フケヽレバ、
大納言ハ只今可被失一ト聞給ケレバ、「命ノ有ラン事モ
今計也。誰ニカ此世ニ思ヲク事云ヲカン。北方少キ者
共モイカヾナリヌラン。哀、事付ヲ今一度セバヤ。死ム
1 「列」、底本「烈」。
Ｐ１２６３（三〇オ）
事ハ力不及事ナレドモ、是ガ心ニカヽルコソヨミヂノ障リ
ナレ」ト覚シツヾケテ、サメ＜ト泣給モ理也。今夜計ノ命
ナレバ、「今ヤ＜」ト待程ニ、夜モ明方ニナリニケリ。「大納言殿ハ
今夜トコソ聞ツルニ、イカニ今マデハ沙汰ナキヤラン。
若御命ノ助リ給ハンズルニヤ」トテ、武士共モ悦アヘリ。
〔十五〕〔成親卿無思慮事〕 大方此大納言ハ、オヽケナク思慮ナキ心シタル人ニテ、人ノ
カヘリ 1
聞トガメヌベキ事ヲモ顧ミ給ハズ、常ニ戯レニガキ人ニテ、
キハカ
無レ墓一事共ヲモ宣ヒ過ゴス事モ有ケリ。後白川院ノ
近習者、坊門中納言親信ト云人ヲハシキ。父右京大夫信
2もうけ
輔朝臣、武蔵守タリシ時、彼国ヘ被下一タリシニ儲ラレタリ
1 以下、長門本「常にたはぶれにふかき人にて」とある。
2 「もうけ」は底本にある振り仮名。
Ｐ１２６４（三〇ウ）
ケル子ナリ。元服シテ叙爵シ給タリケレバ、坂東大
夫トゾ申ケル。院ニ候給ケレバ、兵衛佐ニ成ニケリ。又坂
東兵衛佐ナムド申ケルヲ、ユヽシク本意ナキ事ニ
思入ラレタリケル程ニ、新大納言、法皇ノ御前ニ候ハレケル
時、タハブレニヤ、「親信、坂東ニ何事共カ有」ト被申タ
リケレバ、取モアヘズ、「縄目ノ色革コソ多候ヘ」ト被返答一
タリケレバ、成親卿、顔気色少シ替テ、又物モ宣ハザリ
ケリ。人々アマタ候ハレケリ。按察入道資賢モ候ハレ
ケリ。後ニ宣ケルハ、「兵衛佐ハユヽシク返答シタリツル
1
者哉。事外ニコソニガリタリツレ」ト被申一ケルトカヤ。
1 「ニ」虫損。長門本により補う。
Ｐ１２６５（三一オ）
平治ノ逆乱之時、此大納言ノ事ニ合レシ事ヲ被申一
タリケリ。
十六〔丹波少将成経西八条ヘ被召事〕
新大納言ノ嫡子、丹波少将成経、歳廿一ニナリ給ハ、院ノ御所ニ
上臥シテ、未ダ罷出ラレヌ程ナリケルニ、大納言ノ御許
ハセ
ナリツル侍一人、院御所ヘ馳参テ申ケルハ、「大納言殿ハ、ケサ
西八条殿ニ被召籠一サセ給ヌ。今夜可奉失一之由聞ヘ候。
君達モ皆召サレ給ベシトコソ承ツレ」ト申ケレバ、「コハイ
カニ」トアキレ給テ、物モ覚ヘ給ハズ。「サリトモ宰相ノ許
ヨリハ、カクト申サレンズラン」ト思給シホドニ、宰相ノ許
ヨリ使アリ。「具シ奉テ来レト八条ヨリ被申一タリ。ト
Ｐ１２６６（三一ウ）
ヲロカ
ク＜渡給ヘ」。コハイカナル事ニヤ、浅猿トモ愚也。少将ハ
ジユ
近習ニテオハシケル兵衛佐ト云女房ヲ尋出シテ、「カヽル
勝事コソ候ナレ。 夜部ヨリ世間物サハガシト承レバ、
例ノ山ノ大衆ノ下ルヤランナムド、余所ニ思テ候ヘバ、身ノ
上ニテ候ケリ。御前ヘモ参候テ、今一度君ヲモ見
進ラセ候ベキニ、今ハカヽル身ニテ候へバ、憚存候テ
罷出候ヌト、披露セサセ給ヘ」ト宣モアヘズ泣給フ。日比
ナレ
馴給ツル女房達アマタ出来テ、アサマシガリテ
泣アヘリ。「成経八才ニテ見参ニ罷入テヨリハ、夜ル昼
候テ、所労ナムドノ候ハヌ限ハ、一日モ御所ヘ参ラヌ事
Ｐ１２６７（三二オ）
モ候ハザリツ。君ノ御イトヲシミ忝クテ、朝暮ニ龍顔ニ咫
尺シ奉テ、朝恩ニノミアキ満テ、明シ晩シ候ツルニ、何ナル目
ヲ見ルベキニテ候ヤラン、大納言モ今夜死罪ニ可被
行一ト承候。父ノサヤウニ罷成候ナン上ハ、成経ガ身モ同罪
ニコソ被行一候ハンズラメ」ト云ツヾケテ、狩衣ノ袖モ絞ル
計也。余所ノ袂モ絞リアヘズ。兵衛佐御前ニ参テ此由ヲ被
ハカ モ
申一ケレバ、法皇モ大ニ驚セ給テ、「是等ガ内々謀リシ事漏レ
ニケルヨナ」ト思食モ浅猿シ。「今朝相国ノ使ノ有ツルニ、事出ヌト
ハ思食ツ。サルニテモ是ヘ」ト御気色有ケレバ、「世ハ怖シケレドモ
今一度君ヲモ見奉ラン」ト被思一ケレバ、御前ヘ被参タリケ
Ｐ１２６８（三二ウ）
レドモ、君モ仰遣タル方モナシ。龍顔ヨリ御涙ヲ流サセ給フ。
少将モ申述タル方モナシ。袖ヲ顔ニヲシアテヽ罷出ラ
ヌ。又門マデ遙ニ見送リテ、御所中ノ女房達、限ノ余波ヲ
惜ミ、シボラヌ袂モナカリケリ。法皇モ後ヲ遙ニ見送ラセ給
テ、御涙ヲノゴハセ給テ、「又御ランゼヌ事モヤ」ト思食
ゾ忝ナキ。「末代コソウタテク心ウケレ。強ニカクシモヤ
有べキ」トゾ被仰一ケル。近ク召仕ヘケル人々モ、「更ニ人ノ上ト非
可ニ思一フ。何ナル事カ有ムズラン」ト、安キ心ナシ。少将ハ宰相ノ
許へオハシタレバ、此事聞ツルヨリ、少将ノ北方ハ、アキレ
迷テ物モ覚ヘズ、糸惜躰ニテゾオハシケル。近ク産シ
Ｐ１２６９（三三オ）
ナヤミ
給ベキ人ニテ、何ニトナク日比モ悩給ツルニ、カヽル浅猿キ事ヲ
聞給へバ、イトヾ臥沈給モ理也。少将ハ今朝ヨリ流ルヽ涙ダ
尽セヌニ、北方ノ気色ヲ見給ニ、イトヾセムカタナクゾオボサル。
セメテ
「責ハ此人身ヲ々トナラムヲ見ヲキテ、イカニモナラバヤ」ト被思
ケルモ、責ノ事ト覚テ糸惜シ。六条トテ年来付奉タル乳
母ノ女房有ケリ。此事ヲ聞ヨリ、臥マロビ、モダヘコガルヽ事
ナノメナラズ。少将ノ袖ニ取付テ、「イカニヤイカニ。君ノ血ノ中ニヲ
ハシマシヽヲ取上マヒラセテ、洗上奉テ、糸惜悲卜思ソメ奉
リシヨリ、冬ノ寒朝ニハ、シトネヲアタヽメテスヘ奉リ、夏ノ
熱キ夜ハ、冷キ所ニフセ奉テ、明テモ晩テモ此御事ヨリ外、又イ
Ｐ１２７０（三三ウ）
トナム事ナシ。我年ノ積ルヲバシラズ、人トナリ給ハン
事ヲノミ思テ、夜ノ明ヲモ日ノ晩ルヲモ心本ナクテ、
廿一年ヲ送リヲヽシ立奉テ、院内ヘ参リ給テモ、遅モ出
給ヘバ穴倉恋クノミ思奉リツルニ、コハイヅクヘオハシ
マスベキゾヤ。捨ラレ奉テ、一日片時モ生テ有ベシトコソ
1
覚ヘネ」ト、クドキ立テ泣クニモ、「サコソ思ラメ」トオボ
アヤ
セバ、少将涙ヲ押ヘテ、「イタクナ思ソ。我身誤マラネバ、
サリトモトコソ思ヘ。宰相サテオハスレバ、命計ハナ
ドカ申請ラレザルべキ」ト、ナグサメ給ヘドモ、人目モシ
2ザン
ラズ泣モダウルモ無慚也。八条ヨリトテ使アリ。
1 「ケ」を見せ消ちにして「ク」と書く。
2 「ザ」の濁点は底本にあるもの。
Ｐ１２７１（三四オ）
「遅」トアレバ、「イカサマニモ参リ向テコソハ、トモカクモ申
サメ」トテ宰相出給へバ、車ニ乗具テ、少将モ出給ヌ。
無人ヲ取出様ニ見送テ泣アヘリ。保元平治ヨリ
以来ハ、平家ノ人々ハ楽ミ栄ハ有ドモ、愁歎ハナカリツルニ、
門脇ノ宰相コソ、由ナカリケル聟故ニ、カヽル歎ヲセラレ
ケルコソ不便ナレ。
十七〔平宰相丹波少将ヲ申請給事〕
八条近ク遣リ寄テ見レバ、其四五丁ニ武士充満テ、幾千
万ト云数ヲ不知一。イトヾ怖シナムドハ云計ナシ。少将ハ
是ヲ見給ニ付テモ、大納言ノ御事オボスゾ悲キ。宰
相、車ヲバ門外ニ留テ、案内ヲ申給ヘバ、「少将ヲバ内ヘハ入
Ｐ１２７２（三四ウ）
給ベカラズ」ト有ケレバ、其辺近キ侍ノ家ニヲロシ置テ、宰
相内ヘ入給ヌ。見モシラヌ兵アマタ来テ、居メグリテ
守リ申ス。少将ハ恃ミタリツル宰相ハ入給ヌ、イトヾ心細ク
悲シ。宰相入テ見給へバ、大方内ノ有様、武士共ノヒソメキ
アヘルサマ、誠ニヲピタヽシ。「教盛コソ参テ候へ。見参ニ入ン」ト
宣ケレドモ、入道出合給ハザリケレバ、季貞ヲ呼テ
宰相被申ケルハ、「無由者ニ親クナリテ、返々クヤシ
ク候ヘドモ、甲斐モ候ハズ。成経ニ相具テ候物、イタク
モダヘコガレ 候ガ、恩愛ノ道、カ及バザル事ニテ、無慚ニ
覚候。近ク産スべキ者ニテ候ガ、イカニ候ヤラン。日
Ｐ１２７３（三五オ）
来ナヤミ候ツルガ、此歎打副候ナバ、身々トモナラヌ
先ニ、命モ絶候ナンズ。助ケバヤト思候テ、恐ナガラカク
申入候。成経計ヲバ申預候バヤ。教盛カクテ候ヘバ、
争カ僻事セサセ候ベキ。穴倉思召サルべカラズ」ト、泣々
申給。季貞此由ヲ入道ニ申ケレバ、ヨニ心得ズゲニテ、
トミニ返事モ宣ハズ。宰相中門ニテ、イカニ＜ト待給フ。
良久アリテ、入道宣ケルハ、「成親卿、此一門ヲ滅テ、天下ヲ乱
ラントスル企有ケリ。而ドモ一家ノ運尽ヌニヨ（ッ）テ、此事
顕レタリ。少将ハ既ニ彼ノ大納言ノ嫡子也。親クヲハストテモ、
エコソ宥申マジケレ。彼企遂マシカバ、其御辺トテモ
Ｐ１２７４（三五ウ）
ヲダシクテヤ御ワスべキ。イカニ御身ノ上ノ大事ヲバ
カクハ宣ゾ。聟モ子モ身ニ増ルベキカハ」ト、少モユルギナク
宣ヘバ、季貞返出テ、此由ヲ申ケレバ、宰相大ニ本意
ナゲニ思給テ、押返シ宣ケルハ、「加様ニ被仰ル上ヲ重テ
申ハ、其恐深ケレドモ、心ノ中ニ思ハン程ノ事ヲ残サムモ
口惜ケレバ申ゾ。季貞今一度ヨク／＼申セヨ。去ル
保元、平治両度ノ合戦ニモ、身ヲ捨テ御命ニ替リ奉
ラントコソ思シカ。是ヨリ後ナリトモ、荒キ風ヲバ先防
ムトコソ思給へ。教盛コソ今ハ年罷ヨリテ候ドモ、若者
共アマタ候ヘバ、御大事モ有ム時ハ、ナドカ一方ノ御固トモ
Ｐ１２７５（三六オ）
ナラデ候ベキ。夫ニ教盛ガ憑奉リタル程ハ、ツヤ＜被思食
候ハザリケリ。成経ヲ暫ク罷預ムト申ヲ、穴倉ク思召テ、
御ユルサレノナカラムハ、既ニ二心有ル者ト思食ニコソ。是程ニ
後メタナキ物ニ被思一奉テ、世ニ有テハ何ニカハスベキ。世ニ有バ
又何計ノ事カハ有ベキ。今ハ只、身ノ暇ヲ給テ、出家入道シテ、
片山寺ニモ籠居テ、後生菩提ノ勤ヲ可仕一。無由一憂世ノ
交リ也。世ニ有レバコソ望モアレ。望ノ叶ハネバコソ恨モアレ。
不如一、只世ヲ遁テ実ノ道ニ入ランニハ」ト宣へバ、季貞、ニガ／＼
シキ事哉ト思テ、此由ヲ委ク入道ニ申ケレバ、「物ニ心得ヌ
人哉」トテ、又返事モ宣ハズ。季貞申ケルハ、「宰相殿ハ
Ｐ１２７６（三六ウ）
思食切タル御気色ニテ渡ラセ給候メリ。能々御計有ベクヤ
候ラン」ト申ケレバ、其時入道宣ケルハ、「先御出家アルベシト
被仰候ナルコソ、驚存候ヘ。大方ハ、是程ニ被恨一進セ候ベシ
トコソ存ジ候ハネドモ、夫程ノ仰ニ及ム上ハ少将ヲバ暫ク御
宿所ニヲカレ候ベシ」ト、シブ／＼ニ有ケレバ、宰相悦テ出給ニ
ケリ。少将ハナニトナク憑シゲニ思テ、「イカニ」ト問給モ哀也。
宰相被思一ハケルハ、「穴無慚ヤナ。我身ニ替テ申ザラムニハ
叶マジカリツル者ノ命ゾカシ。人ノ子ヲアマタ持ツ事ハ無益
ノ事カナ。我子ノ緑ニムスボヲレザランニハ、人ノ上ノ事ニコソ
1
見ベキ者ノ事ヲ、身ノ上ニナシテ、肝心ヲ消スコソヨシナ
1 「ニナ」虫損。
Ｐ１２７７（三七オ）
ケレ」トオボサレケレバ、「イサトヨ。入道殿ノ鬱リナノメナラズ深
ゲニテ、教盛ニハ対面モシ給ハズ。叶マジキ由度々宣ツ
レドモ、季貞ヲ以テ、『出家入道ヲモセム』トマデ申タリツレバ
ヤラン、『暫ク宿所ニヲキ給』ト計リ宣ツレドモ、始終ヨカル
ベシトモ覚ヘズ」ト宣ケレバ、少将申サレケルハ、「成経御恩ニ
テ一日ノ命モ延候ケルニコソ。一日トテモヲロカノ儀ニテ
候ハズ。助リ候ハン事コソ然ベク候ヘ。是ニ付候テモ、大納言
ノユクヘ、イカヾ聞食サレ候ツル」ト宣バ、宰相、「イサトヨ。御
事ヲコソトカク申候ツレ。大納言殿ノ御事マデハ
心モ及バズ」ト宣ケレバ、ゲニモ理カナト思ドモ、「大納言今
Ｐ１２７８（三七ウ）
夜失レ候ハヾ、御恩ニテ成経今日計命生テモ、ナニヽカ
ハシ候べキ。死出山ヲモ諸共ニ越ヘ、片時モヲクレジトコソ
存候ヘ。同御恩ニテ候ハヾ、大納言ノイカニモ成候ハン所ニテ、
トモカクモ罷成候バヤ。同ハサヤウニ申行ハセオワシマス
ベクヤ候ラン」トテ、サメ＜”ト泣レケレバ、宰相又心苦ゲニテ、
「実ヤラン、大納言ノ事ヲバ、内ノヲトヾ殿トカク被申一ケ
レバ、今夜ハ延給ヌルヤラントコソ、ホノキヽツレ。心安ク思給ベ
シ」ト宣ケレバ、少将其時手ヲ合テ被喜ケリ。「責テ今
夜計ナリトモ延給ヘカシ」トテ、被悦一ケルヲ見給ケルニコ
ソ、宰相又、「無慚ヤナ。子ナラザラン者ハ、只今誰カハ是
Ｐ１２７９（三八オ）
1
程ニ、我身ノ上ヲサシヲイテ、穴倉モ思ヒ、延タルヲ聞テ、身ニシミ
テウレシク思ベキ。実ノ思ハ父子ノ志ニコソ留テケレ。
子ヲバ人ノ持べカリケル物ヲ」トゾ、ヤガテ思返サレケル。サテ
宰相ハ少将ヲ具テ帰リ給ヒケレバ、宰相ノ宿所ニハ、少将ノ出給
ツルヨリモ、北方ヲ始トシテ、母上、メノトノ六条臥沈テ、「何ナル
事ヲカ聞カムズラン」ト、肝心ヲ迷テ思召ケル程ニ、「宰相帰リ
給」ト云ケレバ、イトヾ胸セキ上テ、「打捨テオワスルニコソ。未命モ
オワセバ、何ニ弥心細クオボスラム」卜、悲ク思ハレケルニ、「少将殿モ
帰ラセ給」ト、先ニ人走向テ告申タリケレバ、車寄ニ出向
トヽノヘ
テ、実カヤトテ、又声ヲ整テ泣アヒ給ヘリ。実ニ宰
1 「テ」虫損。
Ｐ１２８０（三八ウ）
相、少将乗具テ、帰リ給ヘリ。後ハ不知一、帰リヲハシタレバ、死
タル人ノ蘇生シタル様ニ覚テ、悦ビ泣共シアハレケリ。
此ノ宰相ノ宿所ハ、門脇トテ、六波羅ノ惣門ノ内ナレバ、程隔
タラズ。入道当時ハ八条ニオワシケレドモ、世モ猶ツヽマシク
テ、門サシ蔀ノ上計アケテゾオハシケル。
十八〔重盛父教訓之事〕
入道ハカヤウニ人々アマタ警メヲカレタリケレドモ、猶心不
安一被思一ケレバ、「善悪法皇ヲ先迎へ取奉テ、此八条ニ押
籠マヒラセテ、イヅチヘモ御幸ナシ奉ラム」ト思心、被付一
ニケリ。赤地ノ錦ノ直垂ニ、白金物打タル黒糸威ノ腹巻
ノ胸板責テ、ソノカミ安芸守ニテ神拝セラレケ
Ｐ１２８１（三九オ）
ル時、厳嶋社ヨリ霊夢ヲ蒙テ儲ラレタリケル、白金ノ
蛭巻シタル秘蔵ノ手鉾ノ、常ニ枕ヲ放タザリケル、左脇ニ
挾ミテ、中門ノ廊ニツト出テ被立一タリ。其気色ユヽシ
クゾ見ヘラレケル。肥後守貞能ハ、木蘭地ノ直垂ニ、緋
ヒザマヅイ
威ノ鎧キテ、御前ニ跪テ候。入道宣ケルハ、「貞能、此事
イカヾ思フ。入道ガ存ズルハ僻事カ。一年保元ノ逆乱ノ
2
時、〔右〕馬助ヲ初トシテ、親者共ハ半バ過テ讃岐院ノ御方ヘ
参リニキ。一宮ノ御事ハ、故卿殿ノ養君ニテ渡ラセ給
シカバ、方々思放奉リガタカリシカドモ、故院ノ御遺誡ニ
任テ、御方ニテ先ヲカケタリキ。是一ノ奉公ナリキ。次ニ平
2 「右」底本になし。
Ｐ１２８２（三九ウ）
治ノ逆乱之時、信頼、義朝ガ振舞、入道命ヲ惜テハ叶
マジカリシヲ、命ヲ拾テヽ凶徒ヲ追落シテ、天下ヲ鎮ム。其
後経宗惟方ヲ誡シニ至マデ、君ノ御為ニ命ヲ捨ムトスル
事度々也。縦人イカニ申トモ、入道ガ子孫ヲバ争カ捨
サセ給ベキ。サレバ入道ガ事ヲ忽緒シ申ム者ヲバ、君モ
尤御誡モ有ベキニ、誡ラルヽマデコソナカラメ、大納言ガ
讒ニ付セ給テ、情ナク一門追討セラルベキ由ノ院中ノ
御結構コソ、遺恨ノ次第ナレ。此事行綱告知ラセズハ、
顕ルベシヤ。顕ズハ、入道安穏ニテ有ベシヤ。猶モ北面ノ下
臈共ガ諌申事ナムドアラバ、当家追討ノ院宣被
Ｐ１２８３（四○オ）
クヤム エキ
下一サヌト覚ゾ。朝敵ト成ナム後ハ、悔ニ益有マジ。世ヲ鎮メン
程、仙洞ヲ鳥羽ノ北殿ヘ移シ奉ルカ、不然一ハ御幸ヲ是ヘナ
シ奉バヤト思也。其儀ナラバ、北面ノ者共ノ中ニ、矢ヲモ一筋
射出ス者モアリヌトオボユルゾ。侍共ニ其用意セヨト触ルべシ。
大方ハ入道、院方ノ宮仕思切タリ。キセナガ共取出セ。馬ニ鞍
ヲカセヨ」トゾ下知セラレケル。鳥羽殿へノ御幸トハ聞ヘケレド
モ、内々ハ法皇ヲ西国ノ方ヘ流シ進スベキ由ヲゾ議セラレケル。
主馬判官盛国、此気色ヲ見奉テ、小松殿ニ馳参テ、大臣殿ニ
申ケルハ、「世ハ今ハカウト見ヘ候。入道殿、既ニ御キセナガヲ被
召一候。侍共皆打立候。法住寺殿ヘ被寄一候。鳥羽殿ヘノ御
Ｐ１２８４（四〇ウ）
幸トコソ聞ヘ候ヘドモ、内々ハ、西国ノ方ヘ御幸ナルべキニ
テ候ヤラントコソ、承リ候ツレ。イカニ此御所ヘハ今マデ
御使ハ候ハヌヤラン」ト、息モツキアヘズ申ケレバ、内大臣大ニ騒
レケリ。「争サシモノ事ハアルベキトハ思ヘドモ、今朝ノ入道殿ノ
御気色、サル物狂キ事モ有ラン」卜、オボサレケレバ、内府
怱ギ馳来給。其時モ同ク甲冑ヲヨロウニ及バズ。八葉ノ召
車ノケシカルニ、子息ノ惟盛車ノ尻ニノセテ、重代伝リタ
ル唐皮ト云鎧、小烏ト云大刀、車ノ内ニ内々用意シテ
1
持レタリ。引サガリテ鞍置馬引セタリ。衛府四五人、
随身二三人召具テ、深更ニ及テ、ケサノ躰ニテ、烏帽
1 「タリ」虫損。
Ｐ１２８５（四一オ）
1
子直衣ニテオハシタリケリ。西八条ニ指入テミラレケレ
バ、高燈台、侍中門坪々ニカキ立テ、一門ノ卿相雲客数
十人、各ノ思々ノ鎧直垂ニ、色々ノ鎧キテ、中門廊ニ二行ニ
着座セラレタリ。衛府、所司、諸国ノ受領ナムドハ〓［木+延］ニ
居コボレテ、壺ニモヒシト並居タリ。旗棹ドモ引ソ
バメ、馬ノ腹帯ヲシメテ、甲ヲ膝ノ上ニ置テ、只今カケ出ムズ
ル躰トミヘケルニ、内大臣直衣ニテ、大文ノ指貫ノソバ取テ、
ザヤメキ被入一ケリ。事外ニコソ見ヘラレケレ。入道此ヲ
遙ニ見付テ、少シ伏目ニコソナラレケレ。「例ノ内府ガ入道ヲ
表スル様ニ振舞ハ」トテ、心得ズゲニ被思一タリ。内大臣
1 「ミラ」虫損。
Ｐ１２８６（四一ウ）
聊モ憚ル気色ナク、ユラ／＼ト歩ミヨ（ッ）テ、中門ノ廊ニ被
着タリ。弟ノ右大将宗盛卿ヨリ上ナル一座ニ、ムズトツカレ
タリ。内府四方ヲ見マハシテ、「イシゲニサウ御気色共
カナ」トテ、ヘシ口セラレケリ。兵杖ヲ帯シタル人々モ、皆
ソヾロキテゾ見ヘラレケル。客殿ヲ見給へバ、大政入道ノ
躰惣テ軽々ナリ。赤地ノ錦ノ直垂ニ、黒糸威ノ腹巻キテ、
左ノ方ニハ黒糸威ノ鎧ニ、白星ノ甲重テ被置一タリ。右ノ
方ニハ白金ノ蛭巻シタル擲刀立テ、院ノ御所歟、臣家ノ許
ヘカ、只今打入ゲナル気色ナリケルガ、入道ハ是ヲ見給
テ、子ナガラモ、内ニハ五戒ヲ持テ慈悲ヲ先トシ、外ニハ五常ヲ
Ｐ１２８７（四二オ）
1
ミダラズ、礼義ヲ正クシ給フ臣ナリケレバ、腹巻ヲ着テ相
向ハン事ノ面ハユクヤ被思一ケン、障子ヲ少シ引立テ、腹
巻ノ上ニ素絹ノ衣ヲ引懸テ、胸板ノ金物ノハヅレテキラメ
キテミヘケルヲ隠サムト、頻ニ衣ノ胸ヲ引チガヘ／＼ゾセ
ラレケル。内大臣此ノ気色ヲ見給テ、「穴口惜。入道殿ニハ能ク天
狗付タリケリ」卜、ウトマシクゾ被思一ケル。入道宣ケルハ、
「抑此間ノ事ヲ西光法師ニ委ク相尋候ヘバ、 成親卿父子ガ
謀叛ノ企ハ枝葉ニテ候ケルゾ。真実ニハ法皇ノ御叡
慮ヨリ思食立セ給御事ニテ候ケリ。大方ハ近来ヨ
リイトシモナキ近習者共ガ、折ニフレ時ニ随テ、サマ＜”ノ
1 「ヲ」虫損。
Ｐ１２８８（四二ウ）
事ヲ勧申ナル間、御軽々ノ君ニテ渡ラセ給フ。一定天
下ノ煩、当家ノ大事引出サセ給ヌト覚ル時ニ、法皇ヲ
是ヘ迎へマヒラセテ、片辺ニ追籠マヒラセムト存ル
事ヲ、申合セ奉ラムトテ、度々使ヲ遣シツル也」ト宣ヘバ、
内府、「畏テ承候ヌ」ト計ニテ、双眼ヨリ涙ヲハラ＜ト
落給フ。入道浅猿トオボシテ、「コハイカニ」ト宣へバ、内府
暫ク物モ宣ハズ。良久有テ、直衣ノ袖ニテ涙ヲ拭ヒ鼻
打カミ宣ケルハ、「ナニカノ事ハ知候ハズ。先御躰ヲ見マ
ヒラセ候コソ、少モウツヽトモオボヘ候ハネ。サスガ吾朝ハ、
辺地粟散ノ境ト申ナガラ、天照大神ノ御子孫、国ノ
Ｐ１２８９（四三オ）
主トシテ、天児屋根ノ御末、朝政ヲ掌給シヨリ以来、大政
大臣ノ位ニ昇人、甲冑ヲヨロフ事、輙カルベシトモ覚候ハズ。
方々御憚有ベク候物ヲ。就中一御出家ノ御身也。夫三世
諸仏、解脱同相ノ法衣ヲ脱捨テ、忽ニ甲冑ヲ帯シ坐シマサ
ン事、既ニ内ニハ破戒無慚ノ罪ヲ招給ノミニ非ズ、外ニハ又仁
義礼智信ノ法ニモ背候ヌラントコソ覚候ヘ。能々御栄花
尽テ御世末ニ成テ候ト覚候間、余ニ悲ク覚候テ、不覚ノ
涙ノ先立候ゾヤ。方々恐アル申事ニテ候ヘドモ、暫ク御
心ヲシヅメサセオワシマシテ、重盛ガ申候ハン事ヲ具ニ
聞召レ候ベシ。且ハ最後ノ申状也。心底ニ存ン程ノ旨趣ヲ
Ｐ１２９０（四三ウ）
ノコスベキニ候ハズ。先ヅ世ニ四恩ト申事ハ、諸経ノ説相不
1
同ニシテ、内外ノ存知、各別ナリト云ドモ、且ク心地観経ノ
2
第八ノ巻ニヨラバ、一ニハ天地ノ恩、二ニハ国王ノ恩、三ハ師長ノ恩、
四ニハ衆生ノ恩、是也。是ヲ知ヲ以テ人倫トシ、不知ヲ以テ鬼畜
3 4
トス。其中ニ尤モ重ハ朝恩也。普天ノ下、莫非コト王土一ニ。卒土ノ浜、
莫非コト王臣一ニ。サレバ、彼ノ穎川ノ水ニ耳ヲ洗、首陽山ニ蕨ヲ折ケル
賢人モ、勅命ノ難背一礼義ヲバ存テコソ候ナレ。忝モ御先祖、桓
武天皇ノ御苗裔、葛原親王ノ御後胤ト申ナガラ、中比
ヨリ無下ニ官途モ打下テ、纔ニ下国ノ受領ヲダニモユルサレデ
コソ候ケルニ、故刑部卿殿、備前国々務ノ時、鳥羽院御願、
1 底本では「且」に「ハヤ」の仮名を付すが不審。
2 四恩のことは実は巻二「報恩品上」にあり、一父母恩、二衆生恩、、三国王恩、四三宝恩となっている。
3 『詩経』小雅、北山の「博天之下、莫レ非二王土一、率土之浜、莫非二王臣一。」によったもの。『運歩色葉集』にも「普天之下フ （テンノ）シタ、卒土之浜ソツトノヒン」とある。
4 「浜」、底本「償」。上声の声点がある。
Ｐ１２９１（四四オ）
得長寿院ヲ造進ノ勧賞ニヨ（ッ）テ、家ニ久絶タリシ内ノ昇殿ヲユルサ
レケル時ハ、万人唇ヲ飜シケルトコソ承リ伝テ候へ。何況、御身既ニ
先祖ニモ未ダ拝任ノ跡ヲ聞ザリシ、大政大臣ノ位ヲ極メサセ給。御末又
大臣ノ大将ニ至レリ。所謂ル重盛ナンドガ不才愚暗ノ身ヲ以テ、蓮府槐
1
門ノ位ニ至ル。加之一、国郡半ハ一門ノ所領也。田園悉ク家門ノ進止タリ。
是希代ノ朝恩ニ非乎。今是等ノ莫大ノ朝恩ヲ忘レテ、君ヲ傾進セ
マシマサム事、天照大神、正八幡宮、日月星宿、堅牢地神
マデモ御免レヤ候ベキ。『君ヲ背ク者ハ、近ハ百日、遠ハ三年ヲ不出一』トコ
ソ申伝タレ。若又院宣ニテ謀叛ノ御企有トモ僻事トモ存
候ハズ。倩ラ上古ヲ思候ニ、曩祖平将軍貞盛、相馬小二郎将門
1 「郡」、底本「群」。
Ｐ１２９２（四四ウ）
ヲ誅タリシモ、勧賞ヲ被行一候シ事、受領ニハ過ザリキ。伊与
入道頼義ガ貞任、宗任ヲ誅戮シ、陸奥守義家ガ武衡、
家衡ヲ滅タリシモ、イツカハ丞相ノ位ニ昇リ、不次ノ賞ニ預リタリ
シ。而ヲ此一門代々朝敵ヲ追討シテ、四海ノ逆浪ヲ鎮ル事ハ無
双ノ忠ナレドモ、面々ノ恩賞ニ於テハ、傍若無人トモ申ツベシ。サレ
1
バ、聖徳太子ノ十七ヶ条ノ憲法ニハ、『人皆有（レ）心。心各有（レ）執。彼是
我非、我是彼非。是非之理、誰能可（レ）定。相共ニ賢愚ナリ。如（レ）環
無（レ）端。是以、彼人雖（レ）嗔、還恐（二）我失一ヲ』トコソ候ヘ。依之一、君事ノ
次ヲ以テ、奇怪也ト思召ン事ハ、尤理ニテコソ候ヘ。然而御運尽
ザル歟ニ依テ、此事既ニ顕レテ、被仰合一候人々、加様ニ被召置一
1 第十条にある。以下の文は『日本書紀』に載せるものとは小異がある。
Ｐ１２９３（四五オ）
候ヌ。縦又君イカナル事ヲ思召立候トモ、且ク何ノ怖カハヲハシマ
スベキ。大納言以下ノ輩ニ、所当ノ罪科被行一候ナン上ハ、退テ事ノ
由ヲ陳ジ申サセ給テ、君ノ御為ニハ弥奉公ノ忠節ヲ尽、民ノ為ニハ増々
撫育ノ哀憐ヲ致サセ給ハヾ、神冥仏陀ノ擁護浅カラズ。冥衆
スナヲ
善神ノ加護頻シテ、君ノ御政引替テ直ニナルナラバ、逆臣忽ニ
ヱン
滅亡シ、凶徒即退散シテ、四海波静ニ八〓［土+延］嵐治ラン事、掌ヲ
返サンヨリモ猶速ナルべシ。猥ク法皇ヲ傾ケ進セマシマサン事、可然一ト
モ覚ヘ候ハズ。『不（下）以（二）父命（一）辞（中）王命（上）、以（二）王命（一）辞（二）父命（一）。不（下）以（二）家事（一）
辞（中）王事（上）、以（二）王事（一）辞（二）家事（一）』トモ侍リ。又君与臣ヲ准ルニ、親
疎ヲワカズ君ニ仕ヘ奉ルハ、忠臣ノ法也。道理与僻事ヲ准ンニ、争カ
Ｐ１２９４（四五ウ）
道理ニ付ザラン。於是一者、君ノ御道理ニテ候ヘバ、重盛ニヲキテハ、
御院参ノ御共ヲバ仕ルベシトモ存候ハズ。叶ハザラムマデモ、院
1
ジヨ
中ヲ守護シ奉ラバヤトコソ存候ヘ。重盛、初メ六位ニ叙セシ
ヨリ、今三公ノ末ニ列マデ、朝恩ヲ蒙ル事、身ニヲヒテ頗ル過
2
分也。其ノ重キ事ヲ論ズレバ、千顆万顆ノ玉ニモ越、其ノ深キ色ヲ
案ズルニ、一入再入ノ紅ニモ過タルラン。然者バ重盛君ノ御方
へ参候ハヾ、命ニ替リ身ニ代ラント、契深キ恥アル侍、二百余人
ハ相従ヘテ候。此者共ハヨモ捨候ハジ。遠ク例ヲバ求ルニ及バズ、
正ク御覧ジ見候シ事ゾカシ。保元逆乱之時、関白殿ハ
内裏ニ候ハセマシ＜、弟ノ左大臣殿ハ新院ノ御方ニ候給ニ、
1 底本「ヨ」の下に点を二つ付して濁音「ジヨ」を示している。
2 『本朝文枠』巻一〇、菅原文時「暮春侍二宴冷泉院池亭一同賦二花光水上浮一応レ製」、また 『和漢朗詠集』巻上、花「瑩レ日瑩レ風、高低千顆万顆之玉、染レ枝染レ浪、表裏一入再入之紅。」による。
Ｐ１２９５（四六オ）
陸奥判官為義ハ新院ノ御方ヘ参リ、子息下野守義朝ハ
内裏ニ候テ合戦ス。兵イクサ事終ヘテ後、大炊殿ハ戦場ノ
煙ノ底ニナリニシカバ、左府ハ流矢ニ中テ命ヲ失ヒ、新院ハ讃州ヘ
配流セラレサセ給ヌ。其後大将軍為義ハ出家入道シ
テ、義朝ヲ憑ミ顕レ、手ヲ合テ来リシカバ、勲功ノ賞ヲ進セ上テ、
イ
父ガ命ヲ平ニ申シヽカドモ、正ク君ヲ射奉ル罪、依テ難ニ遁一、死
罪ニ定リシヲ、人手ニカケジトテ、義朝ガ朱雀ノ大路ニ引出シ
テ、頸ヲ切候シヲコソ、同勅命ノ難背一サト申ナガラ、悪逆無
道之至、口惜キ事哉トコソ、昨日マデモ見聞候シニ、今日ハ重
盛ガ身ノ上ニナリヌトコソ覚候ヘ。『君打勝セ給候ハヾ、彼保元ノ
Ｐ１２９６（四六ウ）
例ニ任テ、重盛五逆罪ノ一分犯シ候ヌ』ト覚候コソ、兼テ心憂
ク覚候ヘ。悲哉、君ノ御為ニ忠ヲ致トスレバ、迷慮八万ノ頂猶
下レル、父ノ御恩ヲ忽ニ忘レナントス。痛哉、不孝ノ罪ヲ遁レントスレバ、
蒼海万里之底猶浅キ、君ノ御為ニ不忠ノ逆臣トナリヌべシ。是
ト申、彼ト云、思ニ無益ノ事ニテ候。只末代ニ生ヲ受テ、カヽル憂目
ヲ見ル、重盛ガ果報ノ程コソ口惜候ヘ。サレバ、所申請一猶御承
引ナクシテ、御院参可有一ニテ候ハヾ、先重盛ガ首ヲ被召候
ベシ。所詮院中ヲモ守護スベカラズ。又御共ヲモ仕ベカラズ。所ハ申
請一、只首ヲ可ニ被召一アリ。今思召シ合セサセ御ハシマシ候ヘ。御
運ハ一定末ニナリテ候ト覚候。人ノ運ノ末ニ臨ム時、加様ノ謀ハ思
Ｐ１２９７（四七オ）
立事ニテ候ナルゾ。老子ノ書ヲカレテ候詞コソ思合ラレ候ヘ。
1 2
『功名称遂テ、不二退レキ身一避レ位一ヲ、即遇二於害一ニ』ト云リ。彼勲蕭荷ハ
大功ヲ立ル事、傍輩ニ越タルニ依テ、官大相国ニ至リ、剣ヲ帯シ
沓ヲハキナガラ、殿上ニ昇ル事ヲユルサレタリキ。然而叡慮ニ
3
背事有シカバ、高祖重ク誡テ、庭尉ニオロサレテ罪セラル。
4 クニ
論語ト申ス文ニハ、『郊ニ無道時、富且貴恥』ト云文アリ。加様ノ
先蹤ヲ思合候ニモ、御福貴ト云、御栄花卜云、朝恩ト云、重職ト云、
一方ナラズ極メマシ＜テ、年久ナリヌレバ、御運ノ尽ントテモ
5
カタカルベキニ非ズ。『富貴ノ家、禄位重畳スルハ、猶（二）シ再実ノ之木一ノ。其
ゴトシ
根必傷』トモ云ヘリ。心細クコソ覚候ヘ。イツマデカ命生テ、乱レヌ
1 底本「避」に「ノカレ」と振り仮名。
2「勲」、盛衰記「漢ノ」。「蕭荷」は「蕭何」が正しい。
3「庭」は「廷」が正しい。
4『論語』「泰伯」に、「邦有レ道、貧且賤焉、恥也。邦無レ道、富且貴焉、恥也。」とある。
5「常観二富貴之家一、禄位重畳、猶二再実之木一、其根必傷。」（『後漢書』明徳馬皇后紀）。
Ｐ１２９８（四七ウ）
世ヲモ見候ベキ。只トク＜首ヲ刎ラレ候ベシ。侍一人ニ仰テ、只今御
壺ニ引出サセ給テ、首ヲ刎ラレム事、ヨニ安キ事ニテコソ
候ハンズレバ、是ハ殿原イカヾ思給」トテ、直衣ノ懐ヨリタヽウ
紙取出テ、鼻打力ミ、サメ＜”ト泣々宣フ。一門ノ人々ヨリ始テ、侍共ニ
致ルマデ、皆鎧ノ袖ヲゾヌラサレケル。「イカニ御用イナクトモ、叶
ザランマデモ、各ノ加様ノ事ヲバ可被申一ニテコソ候ニ、諌メ申サルヽ
マデコソ候ハズトモ、先与シガマシク御物具カタメラレ候事、
且ハ軽々異躰ノ物狂シキ有様、御振舞共哉。カクテハ世ヲ持チ、
子々孫々繁昌シテ、家門之栄花、末憑ミ無コソ覚候ヘ」
ト宣ケレバ、弟ノ右大将、赤面シテスクミ返テ、汗水ニナラレケリ。
Ｐ１２９９（四八オ）
事ノ外ニワロクゾ被見一ケル。入道モサスガ石木ナラネバ、道理ニ
ツマリテ返事モシ給ハズ。躰ノハヅカシサニ、障子ノ奥ヘスベリ
入テヲハシケルガ、内府ノ既ニ立給ケルヲ見テ、シラケヌ躰ニ、
「哀、キヽタル殿ノ口カナ。ワ殿モ説法シ給フ。暫クオハセヨカシ。
入道モ説法シテ聞セ申サム」トゾ宣ケル。内大臣ハ中門ノ
廊ニ立出テ、サモ可然一侍共ニアヒテ宣ケルハ、「重盛ガ申
ツル事ハ 各キカズヤ。サレバ院参ノ御共ニ於テハ、重盛ガ頸ノ
切レンヲ見テ後、仕ベシト覚ルハイカニ。今朝ヨリ是ニ候テ、叶
ハザランマデモ諌申バヤト存ツレドモ、是等ガ躰余リニヒタ
アハテニ見へツル時ニ、帰リタリツル也。今ハ不可有所憚一。首ヲ可被
Ｐ１３００（四八ウ）
召一卜申ツレバ、其旨ヲコソ存ゼメ。但シ未ダサモ仰ラレヌハイカ
ナルベキヤラン。サラバ人参レ」トテ、小松殿へゾ被帰一ケル。
十九〔重盛軍兵被集事付周幽王事〕
内大臣帰リハテラレケレバ、盛国ヲ使ニテ、「重盛別テ天下ノ大
事ヲ聞出シタル事アリ。我ヲ我ト思ハン者共ハ、怱ギ物具シ
テ参ルべシ。此ニテ重盛ニ志ノ有無ハ可見一」ト被催一ケレバ、是ヲ聞テ、
「少ノ事ニハサハギ給ハヌ人ノ、カヽル仰ノ有ルハ」トテ、侍共、入道ニハ「カ
ク」トダニモ申サデ、我先ニトゾ馳参ケル。夜アケニケレバ、
1
洛中ノ外、白川、西京、鳥羽、羽束志、醍醐、小栗巣、勧
2
修寺、小原、志津原、瀬料ノ郷ニアブレ居タリケル、侍、
郎等、古入道マデモ、次第ニ聞伝々々シテ、或ハ馬ニ乗モ
1 底本「酉酉」。「醍醐」の略字。
2 「瀬料」は「芹生」の当て字。
Ｐ１３０１（四九オ）
アリ、乗ヌモアリ、或ハ鎧キテ未ダ甲ヲキヌ者モアリ、或ハ
弓持テ矢負ヌ者モアリ、或ハ矢ヲ負テ弓ヲトラヌ者モアリ、加様
ニ我劣ラジト馳集ニケレバ、西八条ニハ青女房、古尼公、自ラ筆
取ナンドゾ少々残タリケル。弓馬ニ携ル程ノ者ハ一人モナカリケリ。
入道宣ケルハ、「内府ハナニト思テ是等ヲバ呼取ヤラン」トテ、ヨニ心得
1
ズゲニテ、腹巻ヌギ置テ、素絹ノ衣ニ袈裟打懸テ、〓［木+延］行道
シテ、心モ発ヌ念誦シテ、ウソ打吹テ、「内府ニ中達テモヨキ
大事ヤ」トゾ被思一ケル。小松殿ニハ盛国ガ奉ニテ、 侍ノ着到付
ケリ。侍三千余人、郎等、乗替トモナク、凡ノ勢二万七千
八百余騎トゾ注シケル。内大臣ハ着到披見ノ後、侍共ニ対
1 「〓［木+延］」は「緑」の当て字。
Ｐ１３０２（四九ウ）
面シテ宣ケルハ、「日来ノ契約不達、カヤウニ馳参リ合タル
コソ返々神妙ナレ。重盛不思議ノ事ヲ聞出タリツル程ニ、
俄ニカクハ催シタリツルナリ。サレドモ其事聞ナヲシツ。僻
事ニテ有ケリ。トク＜罷帰ラレヨ。自今以後モ是ヨリ催
ンニハ参ベシ。返々本意ナリ」トテ皆被返ケルガ、又宣ケルハ、
「是ニ事ナケレバトテ、後ニ遅参有ベカラズ。異国ニモサルタメシ
有ケリ。
1 2
昔唐国ニ周幽王ト云帝オハシケリ。后ヲバ褒氏トゾ申
ケル。此后生ヲ受給テヨリ以来、咲給ハズ。帝此后ヲ寵愛シ給
ケル余ニ、イカニシテエマセ奉ラント、種々ノ態ヲシ給ケレドモ、ツイニ
1 この改行は底本の通り。
2 「褒〓［女+以］」が正しい。
Ｐ１３０３（五〇オ）
エミ給ハズ。或時天下ニ事出テ、烽火ヲ上、時ヲ作テ、甲冑ヲヨロヘル
1
武者、宮城ニ充満セリ。是ヲ見給テ后初テエミ給ヘリ。烽
火トハ大国ノ習、都ニ騒事出来ヌレバ、諸国ヘ兵ヲ召ムトテ
ハ、烽火燈炉ト名テ火輪ヲ飛ス術ヲシテ王城ノ四方ノ高嶺
2
峯ニトボシテ諸国ノ兵ヲ召也。又ハ統天輪トモ名タリ。此蜂火出キ
3
ヌレバ、都ニ事出キタムナリトテ、国々ノ兵、城へ 綻参ル。是ヲ飛火ト
モ名タルニヤ。其後常ニ后ヲエマセ奉ラムトテ、烽火ヲ上、時ノ
声ヲ作シカバ、諸国ノ官軍馳参タリケレドモ、カヽル 謀ナリケレバ、
各本国ヘ帰ニケリ。東山ヘ行官軍ハ千里ノ道ニ小馬ヲハヤメ、
西国へ趣クセムダ羅ハ八重塩路ヲ陵ケリ。南北ノ国々モ又如此一。
1 「宮城クシヤウ」（黒川本色葉）。
2 「統」「天」上声。
3 「烽トブヒ」（名義抄）。「のろし」のこと。
Ｐ１３０４（五〇ウ）
或時、戎軍ヨセテ、幽王ヲ滅サントシケルニ、先々ノ如ク蜂火ヲ上、
時ノ声ヲ合セシカドモ、諸国ノ官兵等、例ノ后キエマセ奉ラン
科ニテゾ有ラントテ、一人モマヒラザリケレバ、幽王忽ニ
滅ビ給テケリ。褒氏ヲバ戎ノ軍取テ帰リヌ。其ヨリ美人ヲバ傾
城トゾ名ケタル。『城ヲ傾』ト云読アリ。此読ヲバ当初ハ 誡ラレケレ
ドモ、当世都ニハ猶傾城トゾヨバレケル。彼后、後ニハ尾三アル狐ニ
1
ナリテ、古キ塚ヘ逃去ニケリ。狐ノ女ニパケテ、人ノ心ヲタブラカスト
云事ハ、本説アル事ニヤ。思合スベシ」トゾ宣ケル。内大臣
実ニハサセル事モ聞出サレザリケレドモ、父ノ入道ヲ諌申
サレツル詞ニ随テ、我身ニ勢ノ付歟、付ヌ歟ノ程ヲモシリ、且ハ又
一「ハ」平声濁、「ケ」「テ」上声。
Ｐ１３０５（五一オ）
父卜軍ヲセムトニハ非ズ、父ノ謀叛ノ心ヲヤ思宥給トノ謀ナル
ベシ。内大臣ノ存知之旨、文宣公ノ宣ケルニ違ハズ。君ノ為ニハ忠アリ、
父ノ為ニハ孝アリ。哀、ユヽシカリケル人カナ。法皇此事ヲ聞召テ、「今ニ
アタ
始メヌ事ナレドモ、重盛ガ心ノ中コソ恥シケレ。『讎ヲバ以恩一ヲ報
ゼヨ』ト云文アリ。丸ハハヤ鵬ヲバ恩ニテ報ゼラレニケリ」ト仰
アリケルトゾ聞ヘシ。
左衛門入道西光ヲバ、其夜松浦太郎重俊ニ仰テ、朱雀ノ大
路ニ引出シテ首ヲ刎ラル。郎等三人同ク切ラレニケリ。西光ハ三位
中将知盛ノ乳母人、紀伊二郎兵衛為範ガ舅ナリケレバ、知盛、
二位殿ニ付奉テ、タリフシ被申ケリ。為範モ、「人手ニ懸候ハンヨリモ、
Ｐ１３０６（五一ウ）
申預候テ誡候ハン」ト、再三申ケレドモ、終叶ハズ、切レニケレバ、
三位中将モ為範モ世ヲ恨テ、サバカリノ騒動ナリケレドモ、指
モ出給ハザリケリ。
廿一〔成規卿流罪事付鳥羽殿ニテ御遊事成親備前国へ着事〕
二日、成親卿ヲバ、夜漸アクル程ニ、公卿座ニ出シ奉テ、物マヒラ
セタリケレドモ、胸モセキ喉モフサガリテ、聊モメサレズ。ヤガテ
追立ノ官人参テ車指寄、「トク＜」ト申ケレバ、心ナラズ乗給ヌ。
御車ノ簾ヲ逆ニ懸テ、後ロサマニ乗奉テ、門外ヘ追出ス。先ヅ
火丁一人ツトヨリテ、車ヨリ引落シ奉テ、祝ノシモトヲ三度
カド
アテ奉ル。次ニ看ノ督長一人ヨリテ、殺害ノ刀トテ、二刀
ツク
突マネヲシ奉ル。次ニ山城判官季助、宣命ヲ含奉ル。カヽル
Ｐ１３０７（五二オ）
事ハ人ノ上ニテモ未御覧ジ給ハジ。増テ御身ノ上ニハイツカハ習給
ベキト、御心ノ内、押ハカラレテ哀也。門外ヨリハ軍兵数百騎、
車ノ前後ニ打カコミテ、我方サマノ者ハ一人モナシ。イカナル所ヘ
行ヤランモ、知スル人モナシ。「内大臣ニ今一度遇申サデ」トヲポシケレ
ドモ、其モ叶ハズ。身ニソヘル物ハ尽セヌ涙計ナリ。朱雀ヲ南ヘ
行ケレバ、大内山ヲ顧ミテモ、オボシ出ル事多カリケル中ニモ、
カクゾ思ツヾケラレケル。
極楽ト思フ雲井ヲ振ステヽナラクノ底へイラン悲シサ
鳥羽殿ヲ過給へバ、年来仕奉リシ舎人、牛飼共ナミイツヽ、
涙ヲ流スメリ。「余所ノ者ダニモカクコソアルニ、増テ都ニ残留ル者
Ｐ１３０８（五二ウ）
共何計悲カルラン。我世ニ有シ時、従付タリシ者一二千人モ有
ケンニ、一人ダニモ身ニソフ者モナクテ、今日ヲ限テ都ヲ出ル
コソ悲シケレ。重キ罪ヲ蒙テ遠キ国ヘ行者モ、人一人具セヌ事
ヤハ有」ナンド、サマ＜”ニ独リ言ヲ宣テ、声モ惜マズ泣給へバ、車ノ
尻先ニ近キ兵ハ、鎧ノ袖ヲゾヌラシケル。鳥羽殿ヲ過給へバ、「此御
所へ御幸ノ成シニハ、一度モハヅレザリシ物ヲ」ナンド覚シテ、我内ノ前ヲ
通リ給へバ、ヨソモ見入デスギ給モ哀也。南門ヲ出ヌレバ河〓［魚+暑］ニ
テ、「御船ノ装束トク」トイソガス。「コハイヅクヘヤラム。失ハルベクハ
只此程ニテモアレカシ」トオボスモ、責テノ悲シサノ余ニヤ。
近ク打タル武士ヲ、「是ハタソ」ト問給へバ、「経遠」ト名乗リケリ。
Ｐ１３０９（五三オ）
難波二郎ト云者ナリケリ。「若此程ニ我ユカリノ者ヤアルト
尋テムヤ。船ニノラヌサキニ云置ベキ事ノ有ゾ」ト宣ケレバ、
「其ノ辺近キ当リヲ打廻テ尋ケレドモ、答ル者ナシ」ト申ケレバ、
「世ニ恐ヲナシタルニコソ。ナジカハユカリノ者ナカルベキ。命ニモ代ラ
ムト云契シ者、一二百人モ有ケム物ヲ。余所ニテモ我有様ヲミムト
思者ノナキコソ口惜シケレ」トテ、涙ヲ流シ給ヘバ、武キ物ノ武ナレドモ、
哀トゾ思ケル。大納言御船ニ乗給テ、鳥羽穀ヲ見渡シテ、守護ノ
武士ニ語リ給ケルハ、「去永万之比、法皇アノ鳥羽殿ヘ御幸
ア（ッ）テ、終日ニ御遊有キ。四条大政大臣師長、御琵琶ノ役ヲ勤
ラル。源少将正賢、御笛ノ役ニ参ゼラル。葉室ノ中納言俊
Ｐ１３１０（五三ウ）
賢、篳篥ノ役ニ参リ給ヰ、楊梅三位顕親、笙笛ヲ仕リ、盛定、
行実、打物ヲ勤ラル。カヽリシカバ、宮中澄渉リ、群集ノ
1
諸人、感涙ヲ催シキ。調子盤渉調ニテ、万秋楽ノ秘曲ヲ奏セ
2 3
ラレシニ、五六ノ帖ニナ（ッ）シカバ、天井ノ上ニ琵琶ノ音、風ニ聞ユ。絃
々掩抑トシテ声々ノ思アリ。閑関タル鶯語ハ花ノ下ニナ
メラカニ、幽咽タル泉流ハ氷ノ下ニナヅメリ。〓［口+曹］々タル大絃ハ村
雨トゾ覚ヘシ。竊々タル小絃ハ秘語ニ似タリシカバ、着座ノ人々ハ
各色ヲ失フ。君ハ少モ騒セ給ハズ。成親、其時四位少将ニテ
末座ニ祗候シタリシヲ被召一テ、何ナル人ゾト尋申ベキ
由被仰下一シカバ、成親畏テ、天井ニ向テ、『君ハ何ナル人ニテ
1 「盤渉調バンシキテフ」（前田本色葉）の読みが一般的。
2 「風ホノカナリ」（名義抄）。
3 以下『白氏文集』巻一二「琵琶引」（琵琶行）による。
Ｐ１３１１（五四オ）
渡ラセ給ゾ』ト、院宣ノ趣ヲ申タリシカバ、『我ハ住吉ノ辺ニ候拯
也』ト答テ、ヤガテ琵琶ノ音モセズ、答ル人モ失タリキ。住吉
大明神ノ御影嚮有ケルニヤ。諸人身ノ毛竪ケルホドニ、池ノ
汀ニ赤鬼青褓ヲカキテ、扇ヲ三本結ビ立タリ。御遊ノ楽ニ
メデ給テ、住吉ノ大明神ノカケラセ給ケルニコソ。其ヨリシテゾ、
スハマ殿ヲバ住吉殿トモ申ケル。彼ノ師長公ノ琵琶ハ、神慮ニ
モ相応ノ勝事多リケル中ニ、或年天下旱魃之間、諸寺
諸山ノ浄行持律ノ僧等ニ仰セテ、雨ノ御祈有ケレドモ、露ダ
ニモヲカズシテ、人々不覚シ給タリケルニ、此ノ大政大臣、日吉ノ
社ニ参籠セラレテ祈精アリ。種々ノ秘曲ヲ弾給ヒタリケレバ、
Ｐ１３１２（五四ウ）
忽ニ空書クモリ、国土ニ雨クダリテ、天下豊饒ナリキ。又源
少将正賢ノ吹ケル笛ハ、紅葉ト云名物也。彼ノ笛ハ昔シ住吉ノ大
明神、紅葉ノ比、大井河ニ御幸シテ、御遊有ケルニ、紅葉面
白クアリケルニ交リテ、空ヨリ降リケルヲ取セオワシマシテ、
還御之後、御身ヲ放レズシテ、御秘蔵有テ、モタセ給タリ
ケルホドニ、内裏守護シテ還御ナルトテ、落サセ給タリ
ケルヲ、彼ノ正賢ノ先祖ニ、一条ノ左大臣正親公ト申人、求テ
ケリ。或時正親公夢ニシメシテ云ク、『此笛ハ我シカ／＼シテ
設タリシヲ、内裏ニテ落シタリキ。秘蔵ノ物也。我ニ返セ』ト
仰ラレケレバ、正親公申ヤウ、『求得テ後ハ、此ニ過タル宝
Ｐ１３１３（五五オ）
ナシト存候時ニ、進スマジク候。ソレニ奇怪ニ被思召一候ハヾ、命ヲ
メセ』ト申タリケレバ、『サラバ其ノ笛ノカハリニ、汝ガ所持ノ唐本ノ
法花経ヲ進スべシ』ト被仰一ケレバ、又申ヤウ、『笛ハ今生一旦ノ翫
ビ物、経ハ当来世々ノ資縁ニテ候ヘバ、笛ヲコソ進セ候ハメ』ト申
ケルヲ、 明神アハレト思食テ、経ヲモ笛ヲモメサレザリキ。サテ
身ヲ放タズ、弥ヨ宝物ト思テ持タリケルホドニ、内裏焼亡ノ
時、イカヾシタリケム、落シテ失テケリ。只事ニアラズ。若ハ明
神ノ召返サレケルニヤ。其後設ラレタリケル笛ノ、少モタガ
ハザリケレバ、是ヲモ紅葉ト名付ク。今ノ笛ハ後ノ紅葉ニテゾ
有ケル。カヤウニ難有一人々御坐ケレバ、明神ノ御影嚮モ理ニコソ
Ｐ１３１４（五五ウ）
覚シカ。カヽリシ時モ人コソ多カリシカドモ、成親コソ召
ヌカレテ君ノ御使ヲバシタリシカ。蕭、笛、琴、箜喉、琵琶、
鐃、銅〓［金+ ］、其名区ナレドモ、 中道ノ方便ナリケレバ、皆是本有ノ
妙理也。惣テ生トシ生ル者、イヅレカ音ヲ離レタル。離鴻去雁
ノ囀リ、龍吟魚躍ノ鳴マデモ、或ハ絃ノ源、或ハ管ノ起也。声トヽノ
ヲリヌレバ、君ノ道直也。サレバ天子モ楽ヲ用ヒ給テ、雅楽ノ寮ヲ
シユンソ
被置一テ、朝庭ノ儀式ニ備ラル。淳素ニ返ル御世ナレバ、安楽ノ
音ゾ日出キ。余タノ調ノ中ニモ風香調コソスグレタレ。今ノ
盤渉調ヲバ琵琶ニハ風香調ト云。サレバ妙音大士モ三昧ノ
1
琵琶ヲ取り、四徳ノ形ヲ備テ、左ノ御手ノ印像ニ深キ故有トカヤ。
1 「印像」は「印相」が正しい。
Ｐ１３１５（五六オ）
抑万秋楽ハ希代ノ秘曲、楽家ノ妙調ナル故ニ、神明モコヽニ降
臨シ、仏陀モ是ニ納受ス。故ニ則其道ヲ重ジテ、輙ク是ヲ顕サズ。
次第相承ヲ訪ヘバ、日蔵上人渡唐之時、唱歌ヲ以テ本朝ニ帰テ
ゾ、管絃ニハ移サレシ。弥陀四十八願ノ荘厳ニモ菩薩是ヲ翫ビ、〓［小（りっしんべん）+刀］
利三十三天ノ快楽ニモ、釈提是ヲ舞カナヅ。実ニ希代ノ楽
也。サテモ今マ朝敵ニ非ズシテ、配所ヘ向フコソ悲ケレ。住吉ノ
大明神助サセ給ヘ」トテ、声モ惜マズ泣給ヘバ、経遠ヲ始トシテ、
多ノ武士共鎧ノ袖ヲゾヌラシケル。熊野詣、天王寺詣ナムド
ニハ、二瓦ノ三棟ニ造タル船ニ、次船二三十艘付テコソ有シニ、是ハ
ケシカルカキスヘ尾形ノ船ニ、大幕引マワシテ、我方サマノ
Ｐ１３１６（五六ウ）
者ハ一人モナクテ、見モシラヌ兵ニ乗具テ、イヅチトモシラズ
ヲハシケム心ノ内、サコソハ悲カリケメ。今夜ハ大物ト云所ニ着
給ヘリ。新大納言、死罪ヲ被宥一テ、流罪ニ定リニケリト聞
ヘケレバ、サモ可然一人々悦アハレケリ。是ハ内府ノ入道ニ強ニ
被申一タリケル故トゾ聞ヘシ。「国有諌臣、其国必安。家有
諌子、其家必正」ト云リ。誠ナルカナヤ。此大納言、宰相カ中
将カノ程ニテ、異国ヨリ来リタリケル相人ニ遇給タリケ
レバ、「官ハ正二位大納言ニ昇給ベシ。但シ獄ニ入ル相ノヲハスルコソ
糸惜シケレ」ト相シタリケルトカヤ。今被思合一テ不思議
也。又中納言ニテヲハシケル時、尾張国ヲ知給ケルニ、去ジ
Ｐ１３１７（五七オ）
嘉応元年ノ冬比、目代右衛門尉政朝、尾張国ヘ下ルトテ
杭瀬河ニ留タリケルニ、山門ノ領、美乃国平野庄住人ト、事
出ス事アリケリ。平野庄ノ住人、葛ヲ売ケルニ、彼ノ政
朝ガ宿ニテ直ノ高下ヲ論ジケルニ、後ニハ葛ニ墨ヲ付タリ
ケルヲトガメケル程ニ、互ニ云アガリテ、神人ヲ刄傷シタリ
ケル故トゾ聞ヘシ。依之一、 平野庄神人山門ニ訴ケレバ、同
年十二月廿四日、大衆起テ、日吉神輿ヲ陣頭ヘ捧テ参ズ。フセ
カセラレケレドモ叶ハズ。近衛ノ門ヨリ入テ、建礼門ノ前二神輿ヲ
1
比スヘ奉リテ、成親卿ヲ被流罪一、日代政朝ヲ禁獄セラルベキ
由訴申ケレバ、成親卿備中国へ流サレ、日代政朝ヲ獄舎へ入ラル
1 「比ナラブ」（名義抄）。
Ｐ１３１８（五七ウ）
べキ由ヲ宣下セラル。大納言既ニ西ノ朱雀ナル所マデ被出タリ
ケル程ニ、同廿八日、召返サルト聞へシカバ、大衆成親卿ヲオビタヽシ
ク呪咀スト聞へシカドモ、同廿九日、本位ニ復シテ、ヤガテ
中納言ニ成返り給。同二年正月五日、右衛門督ヲ兼ジテ、
検非違使別当ニナラル。其後モ目出ク時メキ栄給テ、去
承安二年七月廿一日、従二位シ給シ時モ、資賢、兼雅ヲ越
給テ、資賢ハ吉キ人、ヲトナニテヲハシキ、兼雅ハ清礼ノ人
ナリシニ、越ラレ給モ不便ナリシ事也。是ハ三条殿造進ノ賞
ナリ。御移徙ノ日ナリケリ。同三年四月十三日、又正二位シ給フ。
今度ハ中御門中納言宗家卿越ラレ給フ。去々年、承安
Ｐ１３１９（五八オ）
元年十一月廿八日、第二中納言ヲ越テ、左衛門督、検非違使
別当、権大納言ニ上リ給フ。加様ニ栄ラレケレバ、人嘲リテ、
「山門ノ大衆ニハノロハルべカリケル物ヲ」トゾ申ケル。サレドモ其積
ニヤ、今カヽル目ヲ見給フゾ怖シキ。神明ノ罰モ人ノ呪咀モ、
疾モアリ遅モアリ、不同ノ事ナリ。三日、未二ダ晩一レ、京ヨリ御使
1
アリトテ、ヒシメクメリ。既ニ失ヘトニヤト聞給ヘバ、備前国ヘト云テ
船ヲ可出一之由詈ル。内ノ大臣ノ許ヨリ御文アリ。「都近キ山里ナムド
ニ置奉ラント、再三申ツレドモ、叶ハヌ事コソ世ニ有甲斐モ
候ハネ。是ニ付テモ世中アヂキナク候ヘバ、親ニ先立テ後生ヲ
助給ヘトコソ、天道ニハ祈申候ヘ。心ニ叶ウ命ナラバ、御身ニ
1 底本では本行の「ク」を損じて、右に書き直す。
Ｐ１３２０（五八ウ）
モ替マホシク思候ヘドモ、叶ハズ。御命計ハ申請テ候フ。御心長
思召候ヘ。程経バ、入道聞ナヲサルヽ事モヤトコソ、思給候ヘ」トテ、
旅ノ御用意細々ト調テ奉リ給ヘリ。難波二郎ガ許ヘモ御文
アリ。「穴賢ヲロカニ当リ奉ルナ。宮仕ヨク＜スべシ。オロカニ当リ
申テ我ウラムナ」トゾ被仰一タリケル。「サバカリ不便ニ思召
レタリツル君ヲモ離レ奉リ給テ、少キ者共ヲ振捨テ、イヅチト
テ行ラン。今一度都ヘ帰テ、妻子ヲ見ン事有ガタシ。一年山ノ
大衆ノ訴ニテ、日吉七社ノ御輿ヲ振奉リテ、已ニ朝家ノ御大事
ニナリテ、ヲビタヽシカリシダニモ、西七条ニ五ヶ日コソ有シカ。
其モヤガテ御ユルサレアリキ。是ハ君ノ御誡ニモアラズ。大衆ノ
Ｐ１３２１（五九オ）
訴ニテモナシ。コハイカニシツル事ゾヤ」ト、天ニ仰ギ地ニ臥テ、
ヲメキ叫給ヘドモ甲斐ナシ。夜モ明レバ船ヲ指出ス。道スガラ
モ只涙ニノミ咽給テ、ハカ＜”シク湯水ヲダニモ喉ヘ入給ハネバ、
ナガラフベシトモ思給ネドモ、サスガ露ノ命モキヘハテ給ハズ。
日数経マヽニハ、都ノミ恋シク、跡ノ事ノミゾ穴倉思給ケ
ル程ニ、備前小嶋ト云所ニ落着給ヘリ。民ノ家ノアヤシゲナル
柴ノ編戸ノ内ヘゾ入給ニケル。後ニハ山、前ハ礒ナレバ、松ニ答フル
嵐ノ音、岩ニ摧ル波ノ声、浦ニ友呼浜千鳥、塩路ヲサ
渡ルカモメ鳥、適指入物トテハ、都ニテ詠シ月ノ光計ゾ、皃
ガハリモセズ澄渡リケル。新大納言父子ニモ不限一、誡ラルヽ
Ｐ１３２２（五九ウ）
人余アリキ。
廿二〔謀叛ノ人々被召薬事〕
近江入道蓮浄ヲバ土肥二郎実平預テ常陸国ヘ遣ハス。
新平判官資行ヲバ源大夫判官季定預テ佐土国ヘ遣
ハス。山城守基兼ヲバ進二郎宗政預テ淀ノ宿所ニ誡置。
平判官康頼、法勝寺執行俊寛僧都ヲバ、備中国住
人妹尾太郎兼康預テ福原ニ被召置一。丹波少将成経ヲバ
舅ノ平宰相ニ被預一。
廿三〔師高尾張国ニテ被誅事〕
西光ガ嫡子、前加賀守師高、同弟左衛門尉師親、其弟
右衛門尉師平等、追討スベキ由、大政入道下知シ給ケレバ、
武士尾張国ノ配所、井土田へ下テ、河狩ヲ初テ、遊君ヲ召集テ
Ｐ１３２３（六〇オ）
酒盛シテ、師高ヲヲビキ出テ、首ヲ刎ベキ由ヲ支度シタリ
ケル程ニ、五日、師高ガ母ノ許ヨリ使ヲ下テ申ケルハ、「入道殿、八条
殿ヨリ被召取一給ヌ。サリトモ院ノ御所ヨリ尋御沙汰アランズラム
1
ト待給シ程ニ、ヤガテ其晩ニ被打一給ヌ。尾張ノ公達トテモ不可
助給一。怱ギ下テ夢見セ奉レト宣ツル」ト云ケレバ、師高、井戸田ヲバ
逃出テ、当国鹿野ト云所ニ忍テ居タリケルヲ、小熊群司惟長聞
付テ、ヨセテ搦メムトシケルニ、師高ナカリケレバ、兵共返ラントシ
ケル所ニ、檀紙ニテ髪ノ垢ヲノゴヒテ捨タル有ケリ。是ヲ見付テ
2
アヤシミテ、猶能々穴グリ求ケル程ニ、民ノ家ニハツシト云所ア
リ、其ニ隠テ師高ガ居タリケルヲ求出テ、搦メムトシケレバ、
1 「晩ユフへ」（前田本色葉）。
2 「ツ」上声、「シ」平声。
Ｐ１３２４（六〇ウ）
自害シテケリ。郎等ニ近平四郎ナニガシトカヤ申ケル
者一人付タリケルモ、同自害シテケリ。師高首ヲバ小熊郡
司取テ、六波羅ヘ献ル。其骸ヲバ、師高ガ思ケル鳴海宿ノ君、
手ヅカラ自ラ焼ハブ（ッ）テ、取納ケルゾ無慚ナル。西光父子切者ニ
テ、世ヲ世トモ思ハズ、人ヲ人トモセザリシ余ニヤ、指モヤム事
ナクヲハスル人ノ、アヤマチ給ハヌヲサヘ、サマ＜”讒奏シ奉リ
ケレバ、山王大師ノ神罰冥罰立所ニ蒙テ、時尅ヲ廻サズカヽ
ル目ニアヘリ。「サミツル事ヨ／＼」トゾ、人々申アヘリシ。大方ハ
女ト下臈トハサカ＜”シキ様ナレドモ、思慮ナキ者也。西光モ
下臈ノ終ナリシガ、サバカリノ君ニ召仕レマヒラセテ、果報ヤ
Ｐ１３２５（六一オ）
尽タリケム、天下ノ大事引出シテ、我身モカク成ヌ。浅
猿カリケル事共也。
廿四〔丹波少将福原ヘ被召下事〕
廿日、福原ヨリ大政入道、平宰相ノ許ヘ、「丹波少将是ヘ渡シ給へ。
相計テイヅチヘモ遣スべシ。都内ニテハ猶アシカルベシ」ト宣タリ
ケレバ、宰相アキレテ、「コハイカナル事ニカ。人ヲバー度ニコソ
殺セ、二度ニ殺事ヤハアル。日数モ隔レバ、サリトモトコソ
思ツレ。サラバ中々有シ時トモカクモ成タラバ、再ビ物ハ思ハザ
ラマシ。惜トモ叶マジ」ト被思一ケレバ、「トク＜」ト宣テ、少将諸
共ニ出給フ。「今日マデモカク有ツルコソ不思議ナレ」ト少将
宣ケレバ、北方モ乳母ノ六条モ思儲タル事ナレドモ、今更ニ
Ｐ１３２６（六一ウ）
又モダヘコガル。「猶モ宰相ノ申給ヘカシ」トゾ思アヘル。「存ズル所ハ
委ク申テキ。其上加様ニ宣ハムハ不及力一。今ハ世ヲ捨ルヨリ
外ハナニトカ申ベキ」トゾ、宰相ハ宣ケル。「サリトモ御命ノ失ル
程ノ事ハ、ヨモトゾ覚ル。イヅクノ浦ニヲハストモ訪奉ムズル事
三ィ
ナレバ、タノモシク思給へ」ト宣ケルモ哀也。少将ハ今年四歳ニ
成給男子ヲ持給ヘリ。若キ人ニテ、日来ハ公達ノユクヘナムド細ニ
宣事モナカリケレドモ、ソモ恩愛ノ道ノ悲サハ、今ハノ期ニ
成ヌレバ、サスガ心ニヤカヽラレケム、「少者今一度ミム」トテ、呼
寄ラレタリ。若君少将ヲ見給テ、イトウレシゲニテ取付タ
レバ、少将カミヲカキナデヽ、「七歳ニナラバ男コニナシテ、御所ヘ進
Ｐ１３２７（六二オ）
セムトコソ思シカドモ、今ハ其事云甲斐ナシ。頭カタク生タ
チタラバ、法師ニナリテ我後世ヲ訪ヘヨ」ト、ヲトナニ物ヲ云ヤウニ、
涙モカキアヘズ宣ヘバ、若君ナニト聞ハキ給ハザルラメドモ、父ノ
御皃ヲ見上給テ、打ウナヅキ給ゾ糸惜キ。是ヲ見テ、北方
モ六条モ臥マロビテ、声モ惜マズヲメキ叫ピケレバ、若君浅猿
ゲニゾヲボシケル。今夜ハ鳥羽マデトテ怱ギ給。宰相ハ出立
給タリケレドモ、世ノ恨シケレバトテ、此度ハ伴給ハヌニ付テモ、
弥心細クゾ思ハレケル。 廿二日、小将福原ニオハシ付タレバ、妹
尾太郎預テ、ヤガテ彼ガ宿所ニスへ奉ル。我方サマノ人ハ
一人モ付ザリケリ。妹尾、宰相ノ返リ聞給ハン事ヲ思ケル
Ｐ１３２８（六二ウ）
ニヤ、サマ＜”ニ労リ、志アル様ニ振舞ケレドモ、ナグサム方
モナシ。サルニ付テモ悲ハ尽セズ。仏ノ御名ヲノミ唱テ、夜ル
昼泣ヨリ外ノ事ナシ。備中国妹尾ト云所ヘ流スベシト聞
ケレバ、少将打案ジテ、「大納言殿ハ備前国ヘト聞ユ。其ノ
アタリ近ニヤ。可奉相見一ニハナケレドモ、当ノ風モナツ
カシカリナム」ト宣ヒケルゾ哀ナル。責テハソナタトダニ
知ラントテ、妹尾太郎ニ、「我流サレテ有ムズル妹尾トカ
ヤヨリ、大納言ノオハスル備前国ノ児嶋へハ、イカ程ノ道ニ
テ有ラム」ト問レケレバ、片道僅ニ海上三里ノ道ヲカクシテ、
「十三日」トゾ申ケル。少将是ヲ聞テ被思一ケルハ、「日本
Ｐ１３２９（六三オ）
秋津嶋ハ昔ハ三十三ヶ国ニテ有ケルヲ、後ニ半国ヅヽニ
分テ、六十六ヶ国トス。サレバ僅ノ小嶋ゾカシ。中ニモ山陽道
ハラカ
ニサ程ノ大国有トハキカヌ物ヲ。宰府ヨリ〓［魚+宣］ノ使ノ年々ニ
参リシヲ聞シモ、廿日余ナムドコソ聞シカ。備前備中両国
ノ間イカニ遠クトモ、二三日ニハヨモスギジ。是ハ我父ノオ
ハシ所ヲ近シト聞物ナラバ、文ナムドヤ通ハンズラムトテ、知セ
ジトテ云ヨ」ト心得給テケレバ、其後ハユカシケレドモ問
給ハズ。哀也シ事也。
廿五〔迦留大臣之事〕
1
昔迦留大臣ト申ス人ヲハシキ。遣唐使ニシテ、異国ニ渡テ
御ワシケルヲ、何ナル事カ有ケン、物イハヌ薬ヲクハセテ、
1 以下『宝物集』にある説話。
Ｐ１３３０（六三ウ）
1
五躰ニ絵ヲ書テ、額ニ燈ガヒヲ打テ、燈台鬼ト名テ、火ヲ
トモス由聞ケレバ、其御子ニ弼宰相ト申ス人、万里ノ波ヲ
凌ギ、他州ノ雲ヲ尋テ見給ケレバ、燈鬼涙ヲ流シテ、
手ノ指ヲ食切テ、カクゾ書給ケル。
我是日本花京客 汝即同姓一宅人
2
為（レ）父為（レ）子前世契 隔（レ）山隔（レ）海恋情 辛
経（レ）年流（レ）涙蓬蒿宿 遂（レ）日馳（レ）思蘭菊親
3
形破他州成（二）燈鬼（一） 争帰（二）旧里（一）棄（二）斯身（一）
ト書タリ。是ヲ見給ケム宰相ノ心中何計ナリケム。
遂ニ御門ニ申請テ帰朝シテ、其悦ニ大和国迦留寺ヲ建
1 「額」、『宝物集』光長寺本「カシラ」、久遠寺本「頭ラ」。
2 底本、一度「情辛恋」と書いたのを「恋情辛」と正している。
3 「斯」、底本「期」とあるのを、宝物集久遠寺本、盛衰記により改める。
Ｐ１３３１（六四オ）
立スト見タリ。彼ハ父ヲ助ツレバ孝養ノ第一也。是ハ其詮モ
ナケレドモ、親子ノ中ノ哀サハ、只大納言ノ事ヲノミ悲テ、
アケクレ泣アカシ給ケリ。
廿六〔式部大夫章綱事〕
マサ
式部大夫章綱ハ幡磨ノ明石ヘ被流タリケルガ、増位寺ト
云フ薬師ノ霊地ニ百日参籠シテ、都帰ノ事ヲ肝胆
ヲ摧テ祈申ケル程ニ、百日ニ満ジケル夜ノ夢ノ内ニ、
昨日マデ岩間ヲ閉シ山川ノイツシカタヽク谷ノシタミヅ
ト、御帳ノ内ヨリ詠サセ給ト見テ、打驚テ聞バ、御堂ノ妻戸
ヲタヽク音シケリ。誰ナルラント聞程ニ、京ニテ召仕シ青侍ナリケリ。
「何ニ」ト問ヘバ、「大政入道殿ノ御免ノ文」トテ、持テ来レリケリ。ウレシナ
Ｐ１３３２（六四ウ）
ムドハ云計ナクテ、ヤガテ本尊ニ暇申テ出ニケリ。難有一カリケル
御利生也。
廿七〔成親卿出家事付彼北方備前ヘ使ヲ被遣事〕
廿三日、大納言ハ少シ窕グ事モヤ有ト覚シケレドモ、イトヾ重クノミ
ナリテ、少将モ福原ヘ召下サルト聞ヘケレバ、躰ヲヤツサデ、ツレ
ナク月日ヲスゴサムモ恐アリ。「何事ヲ待ゾ。猶世ニ有ムト思カ」ト、
人ノ思ハンモハヅカシケレバ、「出家ノ志有」ト、内大臣ノ許ヘ申合ラレタリ
ケル返事ニ、「サモシ給ヘカシ」ト宣タリケレバ、出家シ給ニケリ。
大納言ノ北方ノ北山ノスマヒ、又押ハカルベシ。住ナレヌ山里ハ、サラヌ
ダニ物ウカルべシ。イト忍テスマヒケレバ、過行月日モ晩シカネ、明シ
煩フサマナリ。女房侍共モ其数多カリシカドモ、身ノ捨ガタケレバ、
Ｐ１３３３（六五オ）
世ヲ恐レ人目ヲツヽム程ニ、聞問者モナカリケリ。源内左衛門信俊ト
云侍有ケリ。万ヅ情有ケル男ニテ、時々言問奉ル。或晩方ニ尋参
タリケレバ、北方スダレノキハ近ク召テ宣ケルハ、「哀、殿ハ備前児
嶋トカヤヘ流サレ給タリケルガ、過ヌル比ヨリ、有木別所ト云
所ニオワシマスト計ハ聞シカドモ、世ノツヽマシケレバ、是ヨリ人一人
ヲモ下シタル事モナシ。生テヤ御ハスラン、死テヤ御ワスラム、其
行ヘモ不知一。未命生テ御ワセバ、指ガ此当ノ事ヲモ何計カハ聞マ
ホシクオボサルラン。信俊何ナル有様ヲモシテ、尋参リナムヤ。
文一ヲモ遣シテ、返事ヲモ待見ナラバ、限ナキ心ノ内、少シナグ
サム事モヤト思ハ、イカヾスべキ」ト宣ケレバ、信俊涙ヲ押テ
Ｐ１３３４（六五ウ）
申ケルハ、「誠ニ年比近ク召仕レ奉シ身ニテ候シカバ、限ノ御共ヲモ仕ル
ベクコソ候シカドモ、御下ノ御有様、人一人モ付進ラセ候ベキ様ナ
シト承候シカバ、不力及一。罷留候テ、明テモ晩テモ、君ノ御事ヨリ
外ハ何事ヲカハ思候ベキ。被召候シ御声モ耳ニ留、諌ラレ進
セシ御詞モ肝ニ銘テ、忘ラレ候ハズ。今此仰ヲ承ル上ハ、身ハ何ニ成候
トテモ罷下候ベシ。御文ヲ給テ尋参ム」ト申ケレバ、北方大ニ
悦給テ、文細ニ書テ給テケリ。若君、姫君モ面々ニ、父ノ許ヘノ
御事ヅテトテ、書テ給テケリ。信俊是ヲ取テ児嶋へ尋
下テ、預守リ奉ル武士ニ合テ、「大納言殿ノ御ユクヘノ穴倉サニ、今
一度見奉ラントテ、年来ノ青侍ニ信俊ト申者、ハル＜”ト尋
Ｐ１３３５（六六オ）
進セテ参テ候」ト申タリケレバ、武士ドモ哀トヤ思ケン、ユルシテ
ケリ。参テ見奉レバ、土ヲ壁ニヌリマハシテ、アヤシゲナル柴ノ
庵ノ内ナリ。藁ノツカナミト云物ノ上ニ、僅ニ莚一枚敷テゾスヘ奉リ
タリケル。御スマヒノ心ウサモサル事ニテ、御躰サヘ替ニケリ。
墨染ノ袖ヲ見奉ルニ付テモ、目モクレ心モ消ハテニケリ。大納言
モ、今更悲ノ色ヲ増給フ。「多ノ者共ノ中ニ、ナニトシテ尋来ケルゾ」
ト宣モアヘズ、コボルヽ涙モ哀也。信俊泣々北方ノ被仰一之次第
細ニ申テ、御文取出テマヒラセケリ。大納言入道是ヲ見給テ、
涙ニクレツヽ、水クキノ跡、ソコハカトモミヘワカネドモ、若君姫君ノ
恋悲ミ給フ有様、我御身モ又月日ヲ過スべキ様モナク、心細ク
Ｐ１３３６（六六ウ）
幽ナル御有様ヲ書ツヾケ給ヘルヲ見給テハ、日来穴倉リツル
ヨリモケニ、イトヾモダヘコガレ給フ。ゲニ理ト覚テ哀也。信
俊二三日ハ候ケルガ、泣々申ケルハ、「カクテモ付ハテマヒラセ
テ、御有様ヲモ見ハテ進ラセ候バヤト存候ヘドモ、都モ
又見ユヅリ進セ候方モ候ハザリツル上、罪深ク御返事ヲ今
一度御覧ゼバヤト、覚シメサレテ候ツルニ、空ク程ヲ経候ハヾ、跡モ
ナク験モナクヤ被思召一候ハムズラント、心苦思遣進セ候。此度ハ
御返事ヲ給テ、持参仕候テ、又コソハヤガテ罷下候ハメ」ト申
ケレバ、大納言ハヨニ余波惜ゲニハ思給ナガラ、「誠ニサルベシ。トク／＼
帰リ上レ。但汝ガ今コム度ヲ待付ベキ心地モセヌゾ。イカニモナ
Ｐ１３３７（六七オ）
リヌト聞カバ、後ノ世ヲコソ訪ハメ」トテ、返事細ニ書給テ、御グシ
ノ有ケルヲ引ツヽミテ、「且ハ是ヲ形見トモ御覧ゼヨ。ナガラヘテ
シモ、ヨモ聞ハテラレ奉ラジ。コム世ヲコソハ」ト、心細ク書付給テ、
信俊ニ給テケリ。
行ヤラム事ノナケレバ黒カミヲ信物ニゾヤルミテモナグサメ
ト書止給ヘリ。若君姫君ノ御返事共モアリ。信俊是ヲ持テ
帰上ケルガ、出モヤラレズ。大納言モサシテ宣ベキ事ハ皆尽ニ
ケレドモ、シタハシサノ余ニ、度々是ヲ召返ス。互ノ心ノ内、サコソハ有
ケメト押ハカラル。サテモ有ベキナラネバ、信俊都ヘ上ニケリ。北
山へ参ジテ、北方ニ御返事奉リタリケレバ、北方ハ、「穴メヅラシ。イ
Ｐ１３３８（六七ウ）
カニ＜。サレバイマダ御命ハ生テオワシマシケルナ」トテ、怱ギ
御返事ヲ引ヒロゲテ見給ニ、御グシノ黒々トシテ有ケ
ルヲ、只一目ゾ見給ケル。「此人ハサマカヘラレニケリ」ト計ニテ、
又物モ宣ハズ。ヤガテ引カヅキテ臥給ヌ。御ウツリガモ未ダ尽一
ケレバ、指向奉リタル様ニハオボサレケレドモ、御主ハ只面影
計也。若君姫君モ、「イヅラ、父御前ノ御グシハ」トテ、面々ニ取渡
テ泣給モ無慚也。
1
信物コソ今ハアタナレ是ナクハカ計物ハオモハザラマシ
トゾ、詠ジ給ケル。大政入道此事ヲ聞給テ宣ケルハ、「誰ガユル
シニテ信俊ハ下り、大納言ハ本鳥ヲバ切ケルゾ。加様ノ事
1 『伊勢物語』一一九段、『古今集』巻一四、恋四にある、「かたみこそ今はあたなれこれなくは忘るる時もあらましものを」に近い
Ｐ１３３９（六八オ）
ヲコソ自由ノ事トハイヘ。流置タラバサテモアラデ、不思議
ナリ」トテ、小松ノ大臣ニハ隠シ給テ、経遠ガ許へ、「大納言怱ギ失
フベシ」トゾ、内々宣タリケル。
1
丹波少将ヲバ福臓ヘ召取テ、妹尾太郎ガ預テ、備中国ヘ遣シ
ケルヲ、法勝寺執行俊寛僧都、平判官康頼ヲ薩摩
国鬼海嶋ヘ遣シケルニ、此少将ヲ具テ遣シケリ。康頼ハ
元ヨリ出家ノ志アリケル上、流罪ノ儀ニ成ケレバ、内々小松殿ニ
付奉リテ、人シテ小松殿ノ許ヘ書ヲカキテ遣シケリ。其
状云、已ニ暁ハ、可キ趣ク配所一ニ之由承候。夫厭苦縁者、最モ出離生
死ノ之終リ、遇（二）コトハ災難一ニ、歎ノ中ノ悦ナルヲ乎。傾浄縁一者ハ、亦往生極楽
1 原本もここで改行する。
Ｐ１３４０（六八ウ）
之因、受タル人身一ヲ、悦ノ中ノ悦也。抑出家ハ自昔一本望ナリ。況ヤ於左遷
1ク
之今一ニ哉。願ハ侍テ途中梅岸松之下一ニ、欲レ払ント薩〓［土+垂］遇教
頭之霜一ヲ。其奈カソ。仍誠惶誠恐謹言。
謹上 小松内大臣殿御右下 平判官康頼状トゾ、
書タリケル。小松殿ノ御返事ニハ。
墨ゾメノ衣ノ色トキクカラニヨソノタモトモシボリカネツヽ
2
ヤサシノ御返事ヤトテ、康頼泣々薩摩国ヘゾ趣ケル。摂
津国狗林ト云所ニテ髪ヲ剃テケリ。戒ノ師ニハ聖音房阿
闍梨ト申ケル老僧也。領送使シキリニ怱ケル間、心静ニ
説戒ナムドモ聴聞セズ、如形一三帰戒ノ名字計ヲ受テ、法
1 「遇」に「ク」の振り仮名がある。
2 「摩」は底本「厂」
Ｐ１３４１（六九オ）
名聖照トゾ申ケル。萌黄ノ裏ツケタルウス香ノ直垂ヲ
ヌギヲキテ、コキ塁ゾメノ衣ノ色、落ル涙ニシボリアヘズ。
サテ出サマニ、カクゾ口ズサミケル。
遂ニカクソムキハテヌル世ノ中ヲトクステザリシ事ゾクヤシキ
此判官入道ノ子息ニ、左衛門尉基康トテ、殊ニ親ヲ思フ志シ
深キ者有ケリ。忍ビツヽ只一人ツキメグリテ、領送使ニ案内
ヲ経テ、狗ノ林マデ門送シタリケリ。泣々父ニ向テ申ケルハ、
「中々只遂ノ御別レトダニ思進セバ、一スヂニ思定ル方モ候ナム。
生ナガラカク別レ進スル御行末ノヲボツカナサ、一日片時モ
何ニシテ思忍ブべシトモ不存一候。定テサコソオボシメシ候
Ｐ１３４２（六九ウ）
ラメ。嶋マデコソ候ハズトモ、今一日モ御共申ベク候ニ、世ヲ恐レ
候程ニ、カヤウニ罷留候也。憑進タル父ノカヤウニ成セ給候ハン
上ハ、必ズシモ身ヲ全スべキニテ候ハネドモ、人ノ心ヲ背キ候テ
ハ、中々御為アシク候ヌト覚候へバ、暇申テ罷帰ラム」トテ、
カキモアヘズ、サメ＜”トゾ泣ケル。判官入道、基康ガ袖ヲ引
ヘテ、「人ノ身ニハ愛子トテ、同子ナレドモ殊ニ志シ深キ子アリ。汝ハ
入道ガ愛子ニテ、襁褓ノ時ヨリ成人ノ今ニ至マデ、恩愛
ノ志シ未ズダ尽一。一日モ見ザル時ハ恋慕ノ情トコメヅラシ。十日
廿日送タリトテモ、帰ム別ガ悲シカラザルベキ歟。人々ノ御
覧ズルモ恥シ。余所目モミグルシ。ウレシク此マデ送タリ。
Ｐ１３４３（七○オ）
1
早々帰リ給へ」トテ、各袖ヲ絞リツヽ、父ハ南ニ向テ行ケバ、子ハ
都ノ方ヘゾ行ケル。思切テハ行ケドモ、尚モナゴリヤ惜カリ
ケム、近キ程ハ互ニミカヘリツヽ、父ハ子ノ方ヲミ返リ、子ハ父ノ方ヲ
カヘリミケル処ニ、父詞ヲバ不出一サ、手アゲテ子ヲ招キケリ。
基康怱ギ打返リタリケレバ、父涙ヲ流シ、良久ク有テ申ケルハ、
「心得サスべキ事ノ有ツルヲ、余ノ思ノ深サニ、申ザリツルナリ。聖
照ガ母儀ノ尼公ノ八十有余ニ成給ガ、蓮台野ノ東ニ紫野ト云所ニ、
草ノ庵結テオハスルゾカシナ。念仏申テ、後世菩提ノ勤ヨリ
外ハ他念ナクシテ、朝ノ露、暮ノ風ヲマタズ、アサガホノ日景ヲ
待ザル如クシテ、今日明日トモ知給ハヌ人ノ、只一人憑給ヘルガ、
1 「ヽ」虫損。
Ｐ１３４４（七〇ウ）
タケゴロヒトシキ子ノ、イツカヘルべシトモ不知一、遠嶋ノ人モカヨ
ハヌ所ヘ流サレヌト聞給物ナラバ、又打憑ム方モナキ所ニ残
留リ給テ、泣悲ミ給ハン事、恩愛ノ習、サコソ思給ハムズラ
メ。サレバ山林ニ交リテ、ソヾロニ泣カナシミ給ハムホドニ、最
後ノ十念ニモ不及一シテ、日比ノ行業ヲ空クナシ給ハン事ノ悲
シサヨ。サレバカクトモ申サズ、暇ヲモ乞奉リ、今一度見モシ、
見ヘモシ奉リタカリツレドモ、見奉ル程ニテハ忍トモ叶マ
ジ。思フ心色ニアラハレテ問給ハヾ、又何ニトカクシトグべキ
ナラネバ、何ニモシテ知ラセ奉ラジト思テ、出ツル事ノ心ニ
係テ覚ユルゾ。汝モ何ニモシテ、隠シ遂ヌべクハ、知ラセ奉
Ｐ１３４５（七一オ）
ルナヨ。汝帰ナバ、紫野ニ参テ申ベキ事ハヨナ、『人ニ讒言セ
ラレテ、大政入道殿ヨリ御不審ヲ蒙テ候之間、シバラク双
1
林寺ニ籠居シ候也。折ヲ伺テ申披候ハンズレバ、大事ハヨモ
候ハジ。御心苦ク思召ベカラズ。サテモ御往生ノ安心ハ、先々
申ヲキテ候シカバ、夢幻ト思食テ、只ネテモサメテモ無為ノ
2
浄土ニ心ヲ懸マシ／＼、来迎ノ台ニアナウラヲ踏ミ（ ）
給ベシ。決定往生スベキ人ニハ、臨終ニハ必ズ境界愛ト申
3
魔縁来テ、或ハ親ト変ジ、夫婦鐘愛ノ形トモ変ジ、或ハ七珍
万宝トモ変テ、娑婆ニ心ヲ留ル事ノ候也。サレバ親ヲ見
3
バヤ、子ヲ見バヤト思フ心ヲバ、魔縁ノ所為ト思食テ、只一向ニ西
1 「披ヒラク」（名義抄）。
2 三字分空白。
3 「魔」、底本「广」。
Ｐ１３４６（七一ウ）
方ニ心ヲ懸サセ給ベシ。若尚シモ康頼ヲ恋シト思食レム時ハ、一年
書注シテ進セ候シ、往生ノ私記ヲ御覧候ベク候』ト、能々心得テ
申ベシ」トテ、袖モシボル計也。「此紫野ト申ハ、蓮台野ノ
東ニ蒼々タル小松原アリ。昔念仏ノ行者侍リキ。常ニ紫ノ
雲ノ聳ケルニヨ（ッ）テ、紫野ト名付タリ。今モ求願往生ノ
人多ク庵ヲ結テ住ケリ。康頼入道ガ母、若クシテ夫ニハ
後レニケリ。偏ニ往生ヲ求ル志深シテ、蓮台野ノ辺、
紫野ノ松ノ木隠ニ庵ヲ結テ、功徳池ノ流ニ心ヲスマシテゾ
侍ケル。少シテハ二親ニヲクレ、成人シテハ夫ニ後キ。又
三人ノ子アリ。二人ハ女子ニテ、花ヤカニウツクシカリシ
Ｐ１３４７（七二オ）
カドモ、無常ノ風ニサソハレテ、北亡ノ露ト消ニケリ。老少
不定ノ堺ヒナレバ、始テ驚ベキニハアラネドモ、恩愛別
離ノ歎ニハ、凡聖同ク袖ヲシボル習ニテ、此尼上懐旧ノ涙カハクマモ
ナシ。
ムラサキノ草ノイホリニムスブ露ノカハクマモナキ袖ノ上カナ
ト読テ、憑ム所ハ康頼計コソ有ツルニ、コレカクナ（ッ）テ再ビ会
期ヲ不知一。遠流ノ身卜聞ナバ、朝暮ノ行モ打捨レテ、往生ノ
障トナラム事コソ悲ケレ。相構カクシ奉ベシ。汝入道ヲ
哀レト思ハヾ、雪ノ中二 笋ヲ求ムル志ヲハゲマシテ、紫野ヘ
常ニ詣リ、入道ガ没後ヲ訪ト思ナシテ、紫野ニテ常随
Ｐ１３４８（七二ウ）
給仕ヲモ申ベシ。此事ヨリ外ニハ大事ト思フ歎ナシ」トテ、手
ヲ合テゾ泣ケル。基康申ケルハ、「御信物トテ、只一人残留ラ
セ給フ祖母ノ御事ナレバ、仰ヲ豪リ侍ラズトモ、争カ疎略候
ベキ。尤此御遺言、肝ニ銘ジテ難忘一候。罷帰候ナバ、ヤガテ
常随給仕申ベシ」トテ、各ノ行ワカレニケリ。基康道
スガラ落ル涙ニ目モクレテ、月日ノ光モナキガゴトシ。「有
為無常ノ堺ハ、父ニモヲクレ母ニモ後レテ、送リヲサメ
テ帰ル事ハ常ノ習ナレドモ、何ナル宿報ニテ、其康ハ
生タル父ヲ送ステヽ帰ラム」ト、独リゴトニクドキツヽ、流ルヽ
涙、道シバノツユ払モアヘズ。「道ニテ若失ハレ給ハヾ、屍
Ｐ１３４９（七三オ）
1
ヲモ誰カ隠スベキ。生ナガラ嶋ニステラレ給ハヾ、家モ無
シテ何カヾスベキ。飢テヤ死給ハムズラン。コヾヘテヤ失給
ハムズラン。霜雪フラバ何ガセム。霰フル夜ノ岩ハザマ、塩風ハ
ゲシキ露命ノキヘム事、四大ハ日々ニヲトロヘテ、今日ヤ明
日ヤト待給ハン事ノ心ウサ。只一度ニワカレナマシカバ、コレホ
ドニチクサニ歎ハヨモアラジ」ト思ツヾケテ、馬ニマカセテ
帰上リケリ。
廿八〔成経康頼俊寛等油黄嶋ヘ被流事〕
サテモ成経以下ノ人々、世ノ常ノ流罪ダニモ可悲一、増テ此嶋
ノ有様伝聞テハ、各ノモダヘコガレケルコソ無慚ナレ。道スガ
ラノ旅ノ空、サコソハ哀ヲ催ケメト、ヲシハカラレテ無慚ナリ。
1 「ニ」虫損。
Ｐ１３５０（七三ウ）
前途ニ眼ヲ先立レバ、トク行ム事ヲ悲ミ、旧里ニ心ヲ通スレバ、
早ク帰ラン事ヲノミ思キ。或ハ海辺水駅ノ幽ナル砌ニハ、
蒼波眇々トシテ恨ノ心綿々タリ。或ハ山館渓谷ノ暗キ
道ニハ、巌路峨々トシテ、悲ノ涙態々タリ。サラヌダニ旅ノ
ウキネハ悲キニ、深夜ノ月ノ朗ナルニ、夕告鳥幽ニ音信テ、
遊子残月ニ行ケム函谷ノ有様思出ラレテ、悲カラズ
ト云事ナシ。漸日数経ニケレバ、薩摩国ニモ着ニケリ。
是ヨリ彼ノ鬼海鴨へハ日ナミヲ待テ渡ラムトス。鬼界
1
嶋ハ異名也。惣名ヲバ流黄嶋トゾ申ケル。端五嶋、奥
七嶋トテ、嶋ノ数十二アムナル内、端五嶋ハ昔ヨリ日本ニ
1 「端五嶋」、長門本には「くち五島」とある。
Ｐ１３５１（七四オ）
随フ嶋ナリ。奥七嶋ト申ハ、未ダ此土ノ人ノ渡タル事ナシ。
1
端五嶋ノ中ニ流黄ノ出ル嶋々ヲバ、油黄ノ嶋ト名付タリ。サテ
セマリ
順風有ケレバ彼嶋ヘ押付テ、端五嶋ガ内、少将ヲバ三ノ迫ノ
北ノ油黄嶋、康頼ヲバアコシキノ嶋、俊寛ヲバ白石ノ嶋ニ
2
ゾ捨置ケル。彼嶋ニハ白路多シテ石白シ。水ノ流ニ至マデ、
浪白シテ潔シ。カヽリケレバニヤ、白石ノ嶋ト名付タリ。
責テ一嶋ニ捨置タラバ、ナグサム方モ有べキニ、ハルカナル
離レ嶋共ニ捨置ケレバ、悲ナムドハ愚也。サレドモ、後ニハ俊
寛モ康頼モトカクシテ、少将ノ有ケル油黄嶋ヘタド
3
リ付テ、互ニ血ノ涙ヲ流ケリ。彼嶋ハ嶋ノマハリ西国廿里ノ
1 「油黄嶋」は、総名の「流黄嶋」と区別した表記になっていることに注意。
2 「白路」底本のまま。
3 「西国」底本のまま。
Ｐ１３５２（七四ウ）
嶋也。其地乾地ニシテ、田畠モナケレバ米穀モナシ。自ラ
渚ニ打ヨセラレタル荒和布ナムドヲ取テ、僅ニ命ヲ続
計也。嶋ノ中ニ高キ山アリ。嶺ニハ火モヘ麓ニハ雨降テ、
雷鳴事隙ナケレバ、神ヲケスヨリ外ノ事ナシ。冥途ニ
カンシヨ
ツヾキタムナレバ、日月星宿ノ下ナリト云ドモ、寒－暑理
ニモ過タリ。薩摩潟ヨリ遙々ト海ヲ渡テ行ク道ナレバ、
オボロケニテハ人ノ通事モナシ。自ラ有ル者モ此世ノ人ニハ不
似一、色黒テ牛ノ如シ。身ニハ毛長ク生タリ。絹布ノ類ナケレバ、
着タル物モナシ。男ト覚シキ者ハ、木ノ皮ヲハギテ、ハネ
カヅラト云物ヲシ、褒ニカキ腰ニ巻タレバ、男女ノ形モミ
Ｐ１３５３（七五オ）
ヘワカズ。髪ハ空サマヘ生上テ、天婆夜叉ニ異ナラズ。云詞ヲ
モサダカニ聞へズ。偏ニ鬼ノ如シ。何事ニ付テモ、一日片時命生
ベキ様モナカリケレバ、心憂悲キ事限ナシ。カヽル所へ流
遣サレタレバ、少将ハ、「只中々頸ヲ切ラレタラバイカヾハセム。
生ナガラ憂目ヲミル事ノ心憂、此世一ノ事ニアラジ」トゾ
被思一ケル。加様ニ心憂所へ被放一タル各ガ身ノ悲ハサル事ニ
テ、旧里ニ残留ル父母妻子、此有様ヲ伝聞テ、モダヘコガル
ラム心ノ内、思ヤラレテ無慚也。人ノ思ノ積コソ怖シケレ。「彼ノ
カウ
海漫々トシテ、風皓々タル、雲ノ浪、煙ノ濤ニ咽タル、蓬莱、方
丈、瀛州ノ三ノ神山ニハ、不死ノ薬モアムナレバ、末モ憑ミアル
Ｐ１３５４（七五ウ）
ベシ。此薩摩方、白石、アコシキ、油黄嶋ニハ、何事ニカハ
ナグサムベキ」ト被思遣一テ哀ナリ。眼ニ遮ル物トテハ、
山ノ峯ニ燃上ル焔ヲ、耳ニ満ル物トテハ、百千万ノ雷ノ音、
生ナガラ地獄ヘ堕タル心地シテ、聞ニ付テモ只身毛計ゾ
竪ケル。少将、判官入道ハ、思ニモ沈ハテズ、常ニハ捕々
嶋々ヲ見廻テ、都ノ方ヲモ詠メヤル。僧都ハ余リニ悲ニ
疲レテ、岩ノ迫ニ沈居タリ。ナグサム事トテハ、常ニ一
所ニ指ツドヒテ、尽セヌ昔物語ヲノミゾシケル。サレバトテ
一月ニモサスガ消ウセヌ身ナレバ、木ノ葉ヲカキアツメ、
モクヅヲ拾テ、形ノ様ナル庵ヲ結テゾ明シ晩シケル。サ
Ｐ１３５５（七六オ）
レドモ、少将ノ舅平宰相ノ領、肥前国加世庄ト云所アリ。
彼コヨリ折節ニ付テ、如形一ノ衣食ヲ被訪ケレバ、康頼
モ俊寛モソレニカヽリテゾ日ヲ送リケル。此人々露
命消ヤラヌヲ惜ベシトニハナケレドモ、朝ナ夕ナヲ訪ベキ
人、一人モ従付ヌ身共ナレバ、イツナラハネドモ、薪ヲ拾
ハムトテ山路ニ迷フ時モアリ、水ヲ結バムトテ沢辺ニ
疲ルヽヲリモアリ。サコソ便ナク悲シカリケメ。押ハカ
ラレテ無慚也。康頼入道ハ日ニソヘテ、都ノ恋サモナノ
メナラズ。中ニモ母ノ事ヲ思遣ニ、イトヾ無為方一。「被流一シ時
モカクト知セマホシカリシカドモ、聞テハ老ノナミニ
Ｐ１３５６（七六ウ）
歎カン事ノ労シサニ、乍思一告ザリシカバ、今一度ミ
モシミヘザリシニ、我有様伝聞テハ、今マデナガラ
ヘテ有ン事モ有ガタシ」ナムド、来方向後ノ事マデモ
ツク＜”ト思ツヾケラレテ、只泣ヨリ外ノ事ゾナカリケル。
〔廿九〕〔康頼油黄嶋ニ熊野ヲ祝奉事〕
判官入道ハ、ソノカミ熊野権現ヲ信ジ奉リ、卅三度参
詣ノ志シ有ケルガ、今十五度ヲハタサズシテ此嶋へ流
サレタリ。宿願ヲハタサヌ事ヲ口惜ク思ハレケリ。身ハ
能ク朝庭ノ月ニアソムデ、心ハ偏ニ仏教ノ玉ヲミガク。
レイ 1ゴ
叡山天台ノ法嶺ニ登テハ、十界互具ノ花ヲ翫ビ、高
野密教ノ道場二臨テハ、三密瑜伽ノ燈ヲ挑グ。況ヤ外典
1 「互」平声濁。
Ｐ１３５７（七七オ）
ニヲイテハ、九経三史ノ光ニクモリナク、五百余巻ノ
読書ノ花、亭樹ノ枝ニ開タリ。詩歌管絃ニ心ヲスマシテ、
風月文道明々タリ。カヽル名人智徳ノ人タリト云ヘドモ、
人間ノ八苦未ズダ免一レ。過去ノ宿因恥シク、今生ノ歎、遣ルセ
ヲシラズ。「抑人身ヲ受ル事ハ、五戒ノ中ノ修因也。五戒ニ何ナル
誤リ有テカ、此レ程ノ大苦難ニアヘルラム」ト、不審殊ニ不
少一ラ。現報トヤセム、宿報トヤセム、不覚ノ涙ツキカネタ
リ。丹波少将宣ケルハ、「誠ニ宿善イミジクオハシケレバ
コソ、雲上ノ月ニ隣ヲシメ、鳳闕ノ花ヲ翫ビ、松門ノ風ニタハ
ブレテ、法水ノ流ヲモ汲給ケメ。其上熊野参詣ダニモ
十余度ト承キ。御利生コソナカラメ。カヽル歎ノ塵ト
ナラセ給ヌル事、仏神ノ御加護疑ヒ実ニ多シ」。康頼
入道、「実ニ如仰一ノ熊野山ニ頭ヲカタブケ奉ル志シ深ク
シテ、卅三度参ベキ宿願ヲミテズ、三度ノ御幸ニ三
度ナガラ望申テ供奉仕リシ事モ、内心ハ只宿願ノ
度数ト存候キ。私ノ参詣十五度也。合テ十八度。今
十五度参候ハデ此難ニアヘル事、今生ノ妄念、神明
ノ御利生空キニ似タリ」トテ、遺恨ノ涙カキアヘズ。
法勝寺ノ執行、此ヲ聞テ、「少将殿モ御参詣候ケルヤラム」
ト問ヘバ、少将、「成経ハ未ダ一度モ参候ハズ」ト宣へバ、僧都、
Ｐ１３５９（七八オ）
「俊寛モ未参候ハズ。サレバ神ノ名ダテニテハ候ヘドモ、度
々ノ参詣空クシテ、一度モ参ラザル輩ニ同罪同所ノ
身トナラセ給事、何ノシルシカ候ベキ。御恨尤モ理ナリ」
ト宣へバ、康頼入道申ケルハ、「シカモ卅三度ノ宿願ハ後
生菩提トハ存ズ候。只併ラ今生ノ栄花、息災延命ト存
候キ。身ハ貧道ノ身ニテ、心ハ大〓慢ノ心也。然間、仏法ヲ
聞ト申モ、只名聞ノタメ、外典ヲ学ルト申モ、若シ人ノ御
師徳ニモヤ被召一、才人ノ聞アラバ、官位加階ヤ進ト
ノミ思侍シ故也。雖然一師徳ニモ不被召一、官爵ニモ
進マズ。奉公ノ忠ヲ抽ヅト云ドモ、不次ノ賞ニモアヅカ
Ｐ１３６０（七八ウ）
ラズ。事ニフレ折ニ随テハ、恨ノミ多シテ、心ニ快事
一モナシ。依之、一向ニ神明ヲ憑奉リテ、栄花ヲ開候
ハムトテ、卅三度ノ大願ヲモ発シ、十八度ノ参詣ヲモ
遂デ候キ。何ニ権現ノニクシト思食ケン。後悔サキニ
タヽズ」トテ、暫ク案テ申ケルハ、「太原ノ白居易、文
集七十巻ヲ二部書テ、一部ヲバ鉢塔院ノ宝蔵ニ
納メ、一部ヲバ南禅院ノ千仏堂ニ送奉リテ、其後件ノ
文集ノ箱ヨリ光明ヲ現ル事度々也。両院ノ寺僧
怪ヲ成テ、文集ノ箱ヲ開テ見所ニ、第六十ノ巻ニ発願ノ
一「太」去声、「原」平声濁。
Ｐ１３６１（七九オ）
朗詠ノ仏事ノ詩ニ、『願以（二）今生世俗文字之業、狂言
綺語之誤（一）、飜為（二）当来世々、讃仏乗之因、転法輪之
縁（一）』ト者此也。此ノ発願ノ心ハ、今生世俗ノ業、狂言綺
語之誤ナレドモ、飜テ当来ニハ仏ヲ讃嘆シ法輪ヲ
転ジテ、衆生済度ノ身タラント、改悔懺悔シタル発
願也。所以ニ懺悔ハ吉ク滅罪ノ法ナレバ、生死ノ長夜ニ
ジ
迷ベカラズト云表示ニ、発願ノ文ヨリ光明カクヤク
タリ。サレバ聖照モ今日ヨリ昔ノ安心ヲ飜シテ、一向ニ
後生菩提ノ行業ニ廻向シ侍ベシ」トゾ申ケル。サテ
此ノ人々ノ住所ヨリ南ノ方ニ五十余町ヲ去テ、一ノ離山
二「香山寺白氏洛中集記」（『白氏文集』巻七〇）、『和漢朗詠集』巻下、仏事にある句。
三「所以ユヘ」（名義抄）。
四「示」去声濁。
Ｐ１３６２（七九ウ）
バンガク
アリ。蛮岳トゾ申ケル。鬼界嶋ノ住人等、「アノ蛮ガ
岳ニハ、エビス三郎殿ト申神ヲ祝テ、岩殿ト名付タリ。
此嶋ニ猛火俄ニモヘ出テ、住人更ニ難キ堪一時、 種々ノ供物
ヲ捧テ祭候へバ、猛火モ定リ大風モノドカニ吹テ、
ヲ ラ
嶋ノ住人自安堵仕」トゾ申ケル。少将此ヲ聞テ、「カヽル
サレバ猛火ノ中、鬼ノ住所ニモ神ト申事ノ侍ルラム
ヨ」ト宣ヘバ、康頼入道、「申ニヤ及候。炎广王界ト
申ハ、鬼ノ栖、猛火ノ中ニテ侍ゾカシ。其ダニモ十王ト
モ申シ、十神トモ名付テ、十躰ノ神、床ヲ並テスミ
給ヘリ。マシテ此嶋ト申ハ扶桑神国ノ類嶋ナレバ、
五「蛮」の左肩に濁点。
六「カヽルサレバ」は底本のまま。「サレバカヽル」とあるべきか。
七「炎广」は「閻魔」の当て字。
Ｐ１３６３（八〇オ）
エビス三郎殿モ栖給べシ。サテモ＜聖照熊野参
詣ノ宿願安心コソ不浄ニ候シカドモ、十八度ハ参テ侍
キ。残十五度ヲ、後生善所ノ為ニ、岩殿ニテハタシ候
バヤト存候。大神モ小神モ〓［口＋屈］請ノ砌ニ影嚮シ給事
ニテ候ヘバ、権現定テ御納受候べシ。各ハ何ガ思食」ト申セバ、
少将ハ取アヘズ、「成経モヤガテ先達ニシ進テ参詣仕ベシ」
ト宣フ。俊寛ハ能々ヲカシゲニ思テ、遙ニ返事モセズ。
良久アリテ申ケルハ、「日本ハ神国ト申テ、守屋ノ大
臣、神名帳ヲ注シタリケルニ、上一万三千ト云ヘリ。其神
名帳ノ中ニ、鬼海ノ嶋ノ岩殿ト申神、未ズダ見一。
其上エビス
Ｐ１３６４（八〇ウ）
ブ
三郎殿ト申ハ、巫女ニ付タル、有サマ云甲斐ナキ者トコ
ソミヘテ候ヘ。ヤハヤ尋常ハカ＜”シキ利生モ候ハン
ズル。熊野権現ダニモ十八度ノ参詣空テ、カヽル災難ニ
当リ給テ侍ゾカシ。且ハ古郷ニ聞候ハム事恥ク候。『法勝寺ノ
執行程ノ者ノ、セメテノ事カナ、夷三郎ヲ尊重シテ、
コリヲカキ、歩ヲ運ケン事ヨ』ト、親キ疎ニ申サレン事、
イトケギタナク覚候。次ニ後生菩提ヲバ必ズシモ神明ニ申
サズトテモ、念仏読経セバ、何ノ不足カ候ベキ。『神ヲ神ト信
ズレバ、邪道ノ報ヲ受テ、永ク出離ノ期ヲ不知一』ト申タリ。
『只本地阿弥陀如来ヲ念ズレバ、十悪玉逆ノ窓ノ前ニモ
八「巫」平声濁。
Ｐ１３６５（八一オ）
来迎シ給』トコソ、観経ニハ説テ候メレ。抑浄土宗ノ事ハ俊寛
未ズダ心得一侍リ。只鈍根無智ノ者ノ為ニ、皆心ヲ一境ニヲク事也。
サレバ方便ニシテ実儀ニハアラズ。夫仏法ノ大綱ハ、顕教モ
密教モ凡聖不二ト談ジテ、自心ノ外ニ仏法モナク神祇モ
ナシ。三界唯一心ト悟レバ、欲界モ色界モ外ニハナク、地獄モ傍
生モ我心ヨリ生ズ。人中モ天上モ我心ナリ。声聞モ縁
覚モ菩提薩〓［土+垂］ト申モ、心ヲ離テ外ニハナシ。凡一切衆生、真
俗二諦、森羅ノ万法、我性一心ノ法ニ非ト云事ナシ。随
縁真如ノ前ニハ、迷ノ心ヲ神ト名ケ、悟ル心ヲ仏トス。迷悟本
ヨリ外ニナシ。邪正一如ノ妙埋ナルヲヤ。サテハ禅ノ法門
Ｐ１３６６（八一ウ）
コソ教外ノ別伝ト申テ、言語道断ノ妙理ニテ候ヘ。
一代聖教ニ超過シテ、八宗九宗ノ禅頂タリ。当時法
勝寺ニ卿律師本空トテ、入唐ノ禅僧アリ。入唐
セザリシ昔ハ真言天台ノ学匠ニテ、四種三昧ノ行
者、入壇灌頂ノ聖ニテ候シガ、禅ノ法門ニ移候テ、無
行第一ノ僧ニ成テ候也。神ヲモ不敬一、仏ヲモ不敬、乞
者非人ナレバトテ賤シム事ナシ。真言、天台、浄土宗
ノ法門ヲバ、〓［十十（くさかんむり）+瓜］ノ皮法門ト云テ、大ニ咲候也。恵能禅師ノ
頌トテ、常ニ口ズサミ侍ル言ニハ、
1
菩提無樹、明鏡非台一ニ。元ヨリ無一－物一、何ゾ有塵－垢一。
1 慧能の言行録である 「六祖壇経」に、「慧能偈日、菩提本無樹、明鏡亦台、本来無一物、何処惹塵埃」とある。
Ｐ１３６７（八二オ）
ト詠ジテ、ズヾケサモカケズ。仏ニ花香ヲモ供セズ。念
仏モ申サズ。経ヲモヨマズ。『何ニ坐禅ヲバ、シ給ハヌゾ』ト申
セバ、大ニ咲テ、『何事ゾ、坐禅ト申事ハ。諸教ノ中ニ、初心
ノ行者ノ修行スル法也。天台宗ニハ止観ノ坐禅、真言教
ニハ阿字観ノ坐禅、浄土宗ニハ日想観ノ坐禅等也。禅宗ト
タデイ
申行法有ベカラズ。沙金能淤泥ニ埋トモ金也。錦ノ袋
ニ裏タルモ金也。禅ノ法門ヲ一向ニ証ゼズ。初心ノ行者、日夜
旦暮ニ座禅スト云ヘドモ、全ク禅頂ノ位ニ登ル事ナシ。達
1
磨ノ頌云、
座禅得（レ）仏者バ、誰不レ卜二セ閑床一ヲ。白浪何幾浄、帰（二）依床禅主（一）。
1 「磨」、底本「广」。
Ｐ１３６８（八二ウ）
1
トテ、達磨ハ座禅スル事ナカリキ。
六ノ根ニ六ノ花サクヲホゾラヲハル＜”ミレバ我身ナリケリ
此コソ大座禅ノ聖ヨ』トテ、五辛酒肉檀ニ服シ、懈怠
無慚ノ高枕打シテ、臥ヌヲキヌシ侍ル也。ゲニ恵能禅
師ノ頌ノ文ハ、俊寛モ領解シテ覚候。菩提無樹一ハ、仏ニ
ナルト云事モナシ。明鏡非ハ台一ニ、浄土ト云事モ有ベカラ
ズ。元一物ナキ法ナレバ、万法皆虚空也。何ゾ有塵垢ト観
レバ、見思塵沙ノ罪業モ夢幻ニ似タリ。マサニ知べシ、
熊野権現ト申モ、夷三郎殿ト申モ、妄心虚妄ノ
2
幻花、亀毛兎角ノ縄〓［虫+也］」ト云テ、同心同道モセズ、俊寛
1 「磨」、底本「广」。
2 「縄」去声濁。
Ｐ１３６９（八三オ）
ハヒトリ留タリ。俊寛一人岩ノハザマ、松ノ木陰ニ留居テ、
諸法ノ相ヲ観ゼシ処ニ、風俄ニ吹テ、地震忽ニキビシクシテ、
一山皆動揺シケレバ、石岸崩テ大海ニ入ル。其時禅門ニ古キ
歌アリ。思出テ詠ズ。
「岸崩レテ殺ス魚一ヲ。其ノ岸未レダ受レ苦一ヲ。風発テ供ス花一ヲ。其ノ風豈ニ成仏ンヤ。」
ト申テ居タリ。 康頼入道云、「御法門ノ趣ハ、花厳宗ノ法界
唯一心カト覚候。サレバ不変真如ノ妙理、真妄同空ノ所
談也。コトアタラシク中々申ニ不及一。次ニ禅ノ法門ハ、仏
1
遂ニ口音ニ陳給ハズ。唯迦葉一人ノ所証ト承ル。因果ヲ撥
撫スルガ故ニ、仏教ニハ非ズ。仏教ニアラザルガ故ニ、外道ノ法門也。
1 「陳」、底本「陣」。底本には「陳」とあるべきところを「陣」と書き、また反対に「陣」を「陳」と書く例が多い。
Ｐ１３７０（八三ウ）
底下ノ凡夫、全以信用ニタラズ。仏ヲモ不敬一、神ヲモ不信、
善根ヲモ不修一、悪業ヲモ不ト憚一ラ談ゼバ、一代聖教ヲ
皆破滅スル大外道ト聞タリ。努々顕露ニ御披露
有ベカラズ。一切衆生ヲ皆地獄ニ落サン事、末世ノ提
婆達多、是ナルベシ。悲哉、釈迦善逝ノ遺弟ニ非ズハ、誰カ
善神護法ノ加護ヲカブラムヤ。聖照ハ鈍根無智ノ者ニ
テ候間、真言教ニハ加持ノ即身成仏、浄土宗ニハ他力ノ往
生、此ヲ信テ候也。依之十方ノ浄土モ外ニアリ、八大地獄モ外ニ
アリ、三世諸仏モ外ニマシマス、三所権現モ外ニマシマ
スト、信テ候ヘバ、イザヽセ給へ、少将殿」トテ、二人ツレテ
Ｐ１３７１（八四オ）
岩殿ヘゾ参リケル。彼ノ岩殿ノ地形ヲ見ルニ、谷々峯々
ヲ遙ニ分入テ、人跡絶テ鳥声ダニモセヌ処ニ、河
流レ出タリ。音無川ニ相似タリ。其水上ヲ尋ヌレバ、少シ
打晴タル所アリ。大ナル岩屋アリ。其上ニ椙一叢生タ
リ。是ヲバ本宮ト名テ、草打払ヒ、シメ引マハシタリ。
ムラ
又山ヲ越テ、渚近キ椙叢アリ。是ヲ新宮ト号ス。其
ヨリ奥ヘ猶尋入テミレバ、碧巌高ク峙テ、白浪
嶺ヨリ流下タリ。滝ノ音、松ノ風、神サビタル景気、南
山飛滝権現ノ渡セ給フ、那智ノ御山ニ似リケレバ、又
苔ヲ打払ヒ、シメ引マハシテ、此ノ岩カドヲバ、米持金
Ｐ１３７２（八四ウ）
剛、五躰王子ト名付奉リ、彼ノ木ノ本ヲバ、一万十万、
禅子、聖、児、子守ナムド名付ツヽ帰ニケリ。僧都ニ
又「熊野詣ノ事ハイカニ」ト云ケレドモ、僧都猶伴ハ
ザリケレバ、「サラバ二人詣デム」トテ、可裁替一浄衣モ
ナケレバ、麻ノ衣ヲ身ニマトヒテ、ケガラハシキ躰ナレ
ドモ、沢辺ノ水ヲコリニカキテ、精進潔済シテ
ゾ詣ケル。藤ノワラウヅヲダニモハカザレバ、ヒタスラノ
ハダシニテ、人モカヨハヌ海岸、鳥ダニモヲトセヌ深山
ヲ、泣々ツレテオハシケム心ノ内ゾ哀ナル。手ニタラヒ、
身ニコタヘタル事トテハ、入江ノシホ、沢辺ノ水ニカク
Ｐ１３７３（八五オ）
コリ計也。朝夕ハ南無慚愧懺悔六根罪障ト懺悔シ、心ニ
心ヲ警テ、僅ニ半日ニ行帰ル路ナレド、同所ヲ行帰リ＜、白
浪サヾナミ凌ギツヽ、慢々タル蒼海ニタヾヨヒ、塩風波間ノ
コリノ水、何度ト云数ヲ不知一。浦路浜路ヲ行時ハ、鹿ノ瀬、藤
代、カブラ坂、十条、高原、滝ノ尻トモ観念シ、石岸イハホ
高クシテ、青苔アツクムシ、万木枝ヲマジヘテ、旧草道
ヲフサゲル谷川モアリ。東岸西岸ヲ渡ル時ハ、岩田川ヲ
1 ミツ
思出テ、煩悩ノアカヲスヽギ、近ツヒ、湯ノ河、三ノ河、思遣レテ
哀也。冷キ木陰ヲ行時ハ、九品ノ鳥居ヲ只今トヲルト思ナ
シ、大ナル木ノ本ニ立寄テハ、上品上生ノ心地発心門トモ観
1 「煩悩」、底本「炎（火火）」。
Ｐ１３７４（八五ウ）
念ス。此山路、海岸ノ間ニ、波間ニミユル石モアリ。青黄
赤白ノ石モアリ。男女僧形ノ石モアリ。岩ノハザマ、苔ノ
莚、椙ノ村立、常葉木目ニカヽリ、心ノ及ブ所ヲバ、摂津窪
津ノ王子ヨリ始テ、八十余所ノ王子々々トゾ伏拝ミ給
ケル。奉幣御神楽ナムドノ事コソ叶ハズトモ、王子々々ノ
御前ニテ、ナレコ舞計ハ、心ノ及ブ程ニ 仕ベシトテ、少将ハ天
性無骨ノ仁ニテ、如形一ノカヰナザシ、康頼入道ハ洛中無双ノ
上手ナリ、魍魎鬼神モトラケテ、慈悲納受ヲ垂ラ
ムトゾ舞ケル。少将モ毎度ニハラ／＼トゾ泣給ケル。如此
1
シテ、彼ノ本宮証誠殿ノ御前ニ詣ツヽ、本地アミダ如来
一「本地アミダ如来ニテ御座」は「証誠殿」についての説明になっている。
Ｐ１３７５（八六オ）
ニテ御坐、十悪五逆ヲモ捨給ハヌ御誓アムナレバ、遠
近ニハヨルマジ、心ノ至誠ナルヲコソ、権現金剛童子モ哀
トハ思食ムズラメト思テ、「南無日本第一大震験熊野
三所権現、和光ノ恵ヲ施テ、今一度都ヘ帰サセ給ヘ」ト、肝
胆ヲ摧テゾ被申一ケル。康頼ハ子息左衛門尉基康ガ
示シ知セケル夢想ノ事ナムド思出テ、大江ノ匡房ガ
無常ノ筆ヲゾ思ツヾケヽル。「生死之嶮路難定一メ、可期老
少何時一ヲカ。亡魂徒ニ避テ、野外之崇廟幽々トシテ、
ジヨウ
彼ノ感陽宮之煙リ〓々タリ。作テ雲一ト何ノ方ヘ去シゾヤ。
思ヘバ皆如夢一ナリ」ト観ジテ、二人本宮ヲ出デヽ、新
Ｐ１３７６（八六ウ）
宮ヘ伝テ、那智山ヘ詣ケリ。遙ニ浜路ヲ詠ムレバ、前路
キハマリ
眇々トシテ、眼コ窮（二）渇仰之虚一ニ、海上茫々トシテ、
涙浮（二）ブ悲願之月一ニ。揚（二）一心称名之音声於風浪之
インキヤウ
韻響一ニ、仰（二）グ多所饒益之本誓於水月之感応一ニ。心中ニ
心澄ミ、信心誠ニ起リ、波上思静ニシテ、哀傷暗ニ催ス。
兼テ思（二）へバ彼ノ景気（一）ヲ、涙連々トシテ不留一。遮テ計（二）レバ
其ノ慈悲一ヲ、心念々ニ有勇一ミ。従（二）幼－稚若少之昔一シ、至（二）マデ盛
年長大之今一ニ、抽（二）テ丹誠於権現之宝前一ニ、凝（二）ス懇志
キ力ン
於垂跡之霊堀一ニ。星霜多ク重レリ。機感何ゾ疑ハム。三ノ
山ノ奉幣遂ニケレバ、悦ノ道ニ成ツヽ、切目ノ王子ノナギノ
Ｐ１３７７（八七オ）
葉ヲ、稲荷ノ椙ニ取替テ、今ハクロメニ着ヌト思テ、下向シ
給ケリ。カク詣ル事、其年ノ八月ヨリ不ル怠一程ニ、次ノ
年ノ九月中旬ニモ成ニケリ。
〔卅〕〔康頼本宮ニテ祭文読事〕
或日二人伴テ彼ノ本宮ニ詣テ、法施ヲツク＜”トタムケ奉
リテ、「和光利益本誓タガハズ、我等ガ勤念ノ信ノ実ヲ
照見シ給テ、清盛入道ノ無道ノ悪心ヲ和ゲテ、必ズ
都ヘ帰シ入レ、再ビ妻子ヲ相見セ給ヘ。已ニ参詣十五度
ニ満ジヌ」ト、肝胆ヲクダヒテ、一心ニ丹誠ヲ抽タリ。殊
更ニ神ノ御ナゴリヲシク、御前ニテ常葉木ノ枝ヲ
三折リ立テヽ、三所権現ノ御影向トゾ敬給ケル。其御
Ｐ１３７８（八七ウ）
前ニテ、「卅三度ノ結願ナレバ、身ノ能ヲ仕候ベシ。聖照ガ第
一ノ能ニハ今様コソ候シカ」トテ、神祇ノ巻ノ今様ノ内ニ、一ハ、
仏ノ方便ナリケレバ、神祇ノ威光タノモシヤ。叩バ
必ズヒヾキアリ、アフゲバサダメテ花ゾサク。
1
ト歌テ、「此ハ本宮証誠殿ニ進セ候。今一ハ両所権所権現ニ廻
向シ進セ候ベシ」
トテ、
2ヲルヲ
白露ハ月ノ光ニ黄ヲ沾ス化シアリ。権現舟ニ棹シテ、
ムカヘノキシニヨスル白波。
トゾ歌タリケル。「権現舟ニ棹テ、ムカヘノ岸ニヨスル白浪」ト、
未ダウタヒモハテヌ時、ヨモノ山ニハ吹カザルニ、スヾシキ
1 「所権」の二字衍。
2 「ヲルヲス」は「ウルヲス」の誤りか。「〓ウルホス」（名義抄）。
Ｐ１３７９（八八オ）
風俄ニ吹出テ、三所権現ノ常葉木ノ枝〓［風+必］々トシテ、
動揺スル事良久シ。聖照感涙ヲオサヘテ、一首ノ
歌ヲゾ読タリケル。
神風ヤ祈ル誠ノキヨケレバ心ノ雲ヲフキヤハラハム
少将モ泣々。
ナガレヨルイワウノ嶋ノモシヲ草イツカクマノニメグミ出ベキ
其時又不思議ノ瑞相出来タル。比ハ秋ノ末ツカタノ事ナレバ、
タノムノ雁ノマレナルベキニハナケレドモ、東ノ方ヨリ雁三
飛来テ、一ハ俄ニ谷ノ底ヘ飛入テ、又モミヘズ。今二ハ此人々ノ
上ヨリ取返シテ、東ノ方ヘゾ飛帰ケル。康頼入道此ヲミテ、
Ｐ１３８０（八八ウ）
白波ヤタツタノ山ヲケフコヘテ花ノ都ニカヘルカリガネ
ト読テ、各立テ帰雁ヲ七度ヅヽ礼拝シタリケリ。其
上少将ハ、判官入道ヲモ七度礼シ給タリケレバ、入道、「此ハ
何ニ」ト問奉ルニ、少将、「入道殿ノ御計ニテ、十五度ノ参詣モ
遂ヌ。神ノ御利生ニテ再ビ都ニ帰ラム事、併ラ入道殿ノ
御恩ナルベシ」トテ泣給ヘバ、入道モ「穴哀ヤ」トテ泣ク。サテ
入道、捕ノハマユフ御幣ニハサミ、山スゲト云草ヲシデニ
タレテ、滑キ砂ヲ金ノ散供トシ、御前ニスヽミ出テ、左ノ
1
膝ヲタテ、右ノ足ヲ片敷テ、思フ意趣ヲツヾケツヽ読之一ヲ。
其詞云、
1 「ケ」、底本「ネ」とあるのを改める。
Ｐ１３８１（八九オ）
1
「謹請再拝々々。維当レル年次ハ、治承二年歳次戊戌、月ノ并
十月二月、日数ハ三百五十余ヶ日、八月廿八日己未、撰ビ＿定テ吉
日良辰一ヲ、掛モ忝ク坐ス、日本第一大霊験、熊野三所権現、并
王子眷属等ノ宇津広前ニ、信心ノ大施主、羽林藤原ノ成経、
2シウ
并沙弥聖照等、各ノ合（二）定恵ノ掌一ヲ、捧（二）信心ノ礼黙一ヲ、傾ケ
キン
竭仰ノ頭一ヲ、献二観念清謹ノ砂金一ヲ。其懇志之至、発願之
ユヘ ハ
趣キ、故－何ト者、夫レ、
3
神明者奉レル顕（二）本地一ヲ之時、威光弥増進ス。感応之光厳
重也。依（レ）之今忝ク欲レ奉（レ）讃（二）－嘆三所権現ノ本地本誓一ヲ耳。竊＿
サンダイ ジ
惟レバ、本宮証誠殿者、昔シ珊提嵐国之主、申（二）シ時無上念王一ト、発（二）給シ
1 底本もここで改行する。
2 「照」に「シウ」の振り仮名。
3 底本もここで改行している．
Ｐ１３８２（八九ウ）
菩提心一ヲ以後、五劫思惟ノ大顕已成就シ坐シテ、今安養浄土ノ
教主、来迎引摂之妙躰也。所以ニ、摂取不捨ノ光明ハ、能ク照（二）シ
一念称名ノ行者一ヲ、済度群崩ノ船筏ハ、必ズ寄（二）九品蓮台ノ宝
ソヽキ ソヨガス
池一ニ。剰ヘ広大慈悲ノ水、如雨一灑、如鳳一戦。将＿又垂跡応化ノ榊
ツタヘ キク
葉ニ、宿（二）玉ヘリ和光利物之影一。風＿香、奉レコト名（二）ケ証誠殿－ト者、本地清涼
之風冷シテ、三尊来迎之雲聳キ、極重最下之水渇ヌレバ、九品
正覚之花新也。不取正覚之秋ノ夕ニハ、結（二）十劫成道之菓一ヲ、
諸仏証誠之暁月ハ、謝（二）一切迷凡之疑一ヲ。此則釈尊ノ金言也。
権現為レニ示（二）ガ此ノ勝利一ヲ、 忝ク御名ヲ号（二）ス証誠大権現一ト耳。名詮自
性也。何レノ衆生カ奉レ疑（二）権現本誓一ヲ哉。願ハ権現本誓重
Ｐ１３８３（九〇オ）
願不虚、聖照等ガ臨－終寿－焉之時、必ズ応（レ）ベシ開（二）玉フ引－摂之
蓮（一）耳。次新宮者、是本地東方之教主、浄瑠璃浄土
之主也。十二大願成就之如来、衆病悉除之願越（二）玉へリ世一ニ。
憑哉、伊王善逝、人間八苦ノ中ニハ、病苦尤勝タリ。何レノ衆生カ不（レ）受（二）
病患一ヲ。誰ガ家ニカ不レ傾（二）渇仰之頭一ヲ哉。悲哉、聖照等当時心
中ノ躰、更ニ過（二）タリ身上ノ病患一ニモ。願ハ和光同塵之光、速ニ照（二）左遷
1
流罪之闇一ヲ坐テ、将レニ助（二）玉フ古郷恋慕之胸ノ病一ヲ。次那智飛
シ
滝権現者、千手千眼ノ霊地、弥陀左脇ノ補属、大悲
闡提ノ噂容也。仰願ハ聖照等、拙クモ被レ放（二）衆生有苦之
嶋一ニ、所レハ奉レ憑一、三称我名之権現也。早ク棹（二）シテ不往救者之
1 「慕」は底本「暮」。
Ｐ１３８４（九〇ウ）
船一ニ、将シニ（レ）引（二）－導玉フ不取正覚之都一ニ。抑三五夜中ノ新月色ハ、能ク
雖レ照（二）ト二千里ノ外一ヲ、未ズダレ宿（二）ラ深－泥濁－河之水一ニハ、設ヒ雖レモ為（二）草葉之
露野守之鏡一、清ク澄ル時ハ、必ズ明月無（レ）不（レ）云コト宿レ影一。依之一、今忝ク
モハラ
奉（レ）ニ推（二）－察権現ノ本誓一ヲ、熊野三所ノ光ハ、純日本紀州ノ霊－
アケノ
地、無漏ノ郡音無里ニ、社壇列ネ甍一ヲ、纓玉－垣雖レモ曝ト錦一、聖照
コヽニ コイネガハクハ
等ガ崛請之水潔シ。和光同塵之影、何ゾ此不浮一乎。〓［竹+庶］＿幾
三所権現、若一王子、一万ノ眷属、十万金剛童子、四所明神、
五躰王子、満山ノ護法天等、禅師聖児子守、勧請十
五所飛行夜叉、八大金剛童子、新宮飛鳥神倉等
部類眷属、廻シ（二）急難之中ニ能施無畏之方便一ヲ、為（二）ニ入道大相
Ｐ１３８５（九一オ）
国一ノ、令（レ）メ給ヘト発（二）サ免除慈悲之心一ヲ也。若シ聖照等ガ今度ノ所願、不（二）円
満成就一セ者、敢テ以（二）神－明ノ威光‥、誰カ奉レ仰之ヲ一。一度参詣之徳スラ尚
以離（二）悪趣一ヲ。何ニ況ヤ於（二）卅三度ノ参詣一ニ乎。返々モ現世安穏ノ利益、
後生善処ノ発願、成就円満々々々々、再拝々々」トゾ読ミ
1
タリケル。〔卅一〕〔康頼ガ歌都ヘ伝ル事〕 祭文読畢リニケレバ、イツヨリモ信心肝ニ銘ジ、
五躰ニ汗イヨダチテ、権現金剛童子ノ御影嚮、忽ニ
アル心地シテ、山風スゴク吹ヲロシ、木々ノ梢モサダ
カナラズ、木葉カツチリケルニ、ナラノ葉ノ二、康頼
入道ガ膝ニ散リカヽリタリケルガ、虫ノクヒタル姿
ニテ、アヤシカリケレバ、入道是ヲ取テ打返シ／＼ヨク／＼
1 底本は章段番号の記載がなく、前文から改行せずに続けている。
Ｐ１３８６（九一ウ）
ミルニ、文字ノスガタニゾ見ナヒタル。一ニハ 「帰雁二」ト虫食
ヒタリ。「アラフシギノ事ヤ」ト思テ、少将ニミセ奉リ
ケルニ、「ゲニ不思議ノ事哉」トテ居タルニ、今一ヲ
取テミルニ、是モ又文字ノ躰トミ成テ、「是御覧
候ヘ」トテ少将ニ奉ルニ、一首ノ歌ニテゾ有ケル。
チハヤブル神ニ祈ノシゲヽレバナドカ都ヘ帰ラザルべキ
康頼入道、「是御覧候ヘ」トテ、少将ニ奉リタレバ、少将
取テ見テ、「アラ不思議ヤ。今ハ権現ノ御利生ニ預
テ、都ヘ帰ラム事ハ一定ナリ」トテ、弥祈念セラレ
ケルニ、康頼入道申ケルハ、「入道ガ家ニハ蜘蛛ダニモ
一「ニハ」虫損。
Ｐ１３８７（九二オ）
サガリ候ヌレバ、昔ヨリ必ズ悦ヲ仕候ガ、今朝ノ道ニクモノ
落カヽリテ候ツル間、権現ノ御利生ニテ、少将殿ノ
召帰サレサセ給ハン次ニ、入道モ都へ帰リ候ハンズルニヤト、
思テ候ツルナリ。但『帰雁二』トヨマレテ候コソアヤシク
候ヘ。イカサマニモ残リ留ル人ノ候ハンズルト覚候」トテ、涙
ヲ流シケレバ、少将モ「誠ニ」トテ、涙ヲ流テゾ下向セラレケル。
康頼ハアヤシゲナル草堂ノマネカタヲ造リテ、浦人
嶋人ノ集リタル時ハ、念仏ヲ勧テ同音ニ申サセテ、念仏ヲ
拍子ニテ、乱拍子ヲ舞ケリ。阿弥陀ノ三字ノイミジキ
害ヲバ知ネドモ、此ノ舞ノ面白サニ、是ヲハヤストテ、心
Ｐ１３８８（九二ウ）
ナラズ念仏ヲゾ申ケル。彼ノ草堂ハ嶋人共ガヨリアヒ
所ニテ、今ニ有トカヤ。以狂言綺語之誤一ヲ、唱（二）西方六
字之名一ヲ。飜テ当来世々、讃仏乗之因、転法輪之縁
トスルコソ哀ナレ。
1
思遣レシバシト思フ旅ダニモナヲ旧里ハ恋シキ物ヲ
2
薩摩方ヲキノ小嶋ニ我有ト親ニハツゲヨ八重ノシホ風
此二首ノ歌ノ下ニ、平判官康頬法師、「心アラム人ハ、是ヲ
御覧ジテハ、康頼ガ旧里へ送給へ」トゾ、卒都婆
ゴトニ書タリケル。書終テ後ニ、天ニ仰誓ケルハ、「願ハ上
梵天帝釈四大天王、下閻羅王界堅牢地神、別シテハ
1 『玉葉集』巻八、旅に「遠き国に侍りける時、都の人に首ひ遣しける。平康頼」として載る。
2 『千載集』巻八、羈旅。『宝物集』にも載る。
Ｐ１３８９（九三オ）
日本第一大霊験熊野証誠一所両所権現、一万十万金
剛童子、日吉山王厳嶋大明神、哀ミヲ垂思食テ、
我書捨ル言ノ葉、必ズ日本ノ地ヘ付サセ給へ」ト祈念シテ、
西風ノ吹度ニハ、此卒都娑ヲ八重ノ塩ニゾ投入ケル。其祈
念ヤ答ケム、其思ヤ波風ト成ケム、慢々タル海上ナレ
ドモ、同流ノ末ナレバ、浪ニ引レ風ニサソハレテ、遙ノ日数ヲ
経テ、卒都婆一本、熊野新宮ノ湊ヘ寄リタリケリ。
捕人取テ、熊野別当ノ許ヘ持テ行タリケレドモ、見ト
ガムル人モナクテヤミニケリ。又卒都婆一本、安芸
国巌嶋ノ大明神ノ御前ニゾヨリタリケル。哀ナリケル
Ｐ１３９０（九三ウ）
事ハ、康頼ガユカリナリケル僧ノ、康頼西海ノ波ニ流レヌト
聞ケレバ、余ノ無慚サニ、ナニトナク都ヲアクガレ出テ、
西国ノ方ヘ修行シケル程ニ、便ノ風モアラバ、彼嶋ヘモ渡
テ、死生ヲモ聞バヤト思ケレドモ、オボロケニテハ舟モ
人モ通事ナシ。自ラ商人ナムドノ渡モ、「遙ニ順風ヲ待
テコソ渡」ナムド申ケレバ、輙ク尋渡ルベキ心地モセズ。
「サナクハ何ニモシテ其音信ヲダニモ聞バヤ。死生モ穴
倉シ。イカヾハスベキ」ナムド思煩テ、安芸国マデハ下リ
ケリ。便宜ナリケレバ、巌嶋社ヘゾ詣ニケル。明神ノ渡セ
マシマス所ハ、昼ハ塩干テ嶋トナリ、夜ハ塩満テ海トナル。
Ｐ１３９１（九四オ）
夫和光同塵之利生サマ＜”ナリト云ドモ、何ナリケル因縁
ニテカ、此明神ハ海畔ノ鱗ニ縁ヲ結ビ給覧ト思モ哀ニテ、
其日ハ此社ニ候ケリ。抑此御神ヲバ平家ノ入道大臣、殊ニ崇
敬シ奉リ給ゾカシ。サレバ平家ノ憤リ深キ人ヲ加様ニ思へバ、神モ
イカヾ思食覧ト、神慮モ怖シクテ、又サモ取敢ヘヌ程ナ
レバ、終日ニ法施ヲゾ奉リケル。「嶋ヘ渡ム事コソカタカ
ラメ。康頼ガユクヘ聞セ給へ」ナムド祈申ケル程ニ、日モ晩
方ニナリニケレバ、月出テ塩ノ満ケルニ、ソコハカトモナキモ
クヅ共ノ流レヨリケル中ニ、小キソトバノ様ナル物ノ見ケ
レバ、「アヤシヤ。ナニヤラム」トテ取テ見レバ、彼ノ二首ノ
Ｐ１３９２（九四ウ）
歌ヲゾ書タリケル。是ヲ見テ、哀ノ事ヤト思テ、悦ノ
法施ヲ奉リ、ヲイノ肩ニ指テ、都へ持登テ、康頼ガ
母ノ、一条ヨリ上、紫野ト云所ニ有ケルニ、トラセタリケレ
バ、妻子集テ、各アチトリコチトリ是ヲ見テ、悲ノ
涙ヲ流ケル程ニ、新宮ノ湊ニヨリタリケル卒都婆モ、熊
野ヨリ出ケル山臥ニ付テ、同日都ヘ伝タリケルコソ不思
議ナレ。縦一丈二丈ノ木ナリトモ、油黄嶋ニテ漫々タル
海ニ入レタラムガ、新羅、高麗、百済、鶏旦ヘモユラレ
ユカデ、安芸国、又新宮マデヨルベシヤハ。マシテ渚ニ
打寄ラレタルモヅクノ中ニ交リタル、コケラト云物ヲ
Ｐ１３９３（九五オ）
1
捨集テ、千本マデ造タリケルソトバナレバ、イカニ大ナリ
トモ、一尺二尺ニハヨモスギジ。文字ハエリ入、キザミ付タリケレ
2
バ、波ニモアラハレズ。アザ＜トシテ、油黄嶋ヨリ都マデ
伝リケルコソ不思議ナレ。余ニ思事ハ、カク程ナク叶ケル
モ哀也。康頼三年ノ命キヘヤラデ、都ヘ文ヲ伝タリトテ、
此二首ノ歌ヲ都ニ披露シケレバ、彼卒都婆ヲ召出テ叡
覧アリ。「誠ニ康頼法師ガ文ナリケリ。少モマガフベクモ
ナシ。露命消ヤラデ未彼嶋ニ有ケル事ノ無慚サヨ」ト
テ、法皇龍顔ヨリ御涙ヲ流サセ給ケルゾカタジケナキ。
昔大江定基ガ出家之後、彼ノ大唐国ニシテ、仏生国ノ阿
1「捨」は「拾」とあるべきもの。
2「サ」平声濁。
Ｐ１３９４（九五ウ）
育大王ノ造給ヘル八万四千基ノ石ノ塔ノ内、日本江州ノ石
塔寺ニ一基留ル事ヲ、彼振旦国ニシテ書顕タリケル
事ノ、幡磨国増位寺トカヤヘ流ヨリタリケルタメシニモ、
此有ガタサハ劣ラザリケル物ヲヤト哀也。
三十二〔漢王ノ使ニ蘇武ヲ胡国ヘ被遣事〕
昔唐国ニ漢武帝ト申帝マシ／＼ケリ。王城守護ノ為ニ、
数万ノ栴陀羅ヲ被召一タリケルニ、其期スギケルニ、胡
1 ケイ
国ノ狄申ケルハ、「我等胡国ノ狄ト申ナガラ、〓田ノ
ウネ ウケ
畝ニ生ヲ稟テ、朝夕聞ユル物トテハ、旅雁哀猿之夜ノ
2
声、憂ナガラスゴキ庵ノ軒バニナルヽ物トテハ、
黄蘆苦竹之風ノ音。適賢王ノ聖主ニ合奉テ、
1「〓」去声。
2「ニナ」虫損。
Ｐ１３９５（九六オ）
1
帰国ノ思出ナニカセム。願ハ、君三千ノ后ヲ持給ヘリ、一人
ヲ給テ胡城ニ帰ラム」ト申ケレバ、武帝是ヲ聞給テ、
「イカヾスベキ」ト歎給フ。「所詮三千ノ后ノ其形ヲ絵ニ書
テ、顔ヨキヲ留テ、アシキヲタバム」ト定リヌ。王照
君卜申ハ朝夕寵愛甚ク、容顔美麗ノ人ナリキ。鏡ノ
影ヲ憑テ黄金ヲ不送一故ニ、アラヌ形ニ被移一テ、九重ノ
都ヲ立離レ、万里ノ越地ニ趣キシ、別ノ未ダ悲キ玄城
2ツヾミ 3
クトザセリ。シバ＜胡門ノ暮ノ堤ニ驚ク。胡国イヅ
クムカ有ル。早ク両京ノ暁ノ夢ヲ破ル。羅雲忽ニ絶テ、
旅ノ思ツナガレズ。漢月漸ク傾テ、愁眉モ開カザリケ
1「ノ」虫損。
2「堤」は「鼓」とあるべきか。
3「イヅクムカ」は「イヅクニカ」の転。
Ｐ１３９６（九六ウ）
レバ、習ハヌ旅ノ奥マデモ、絞リカネタル袖ノ上ニ、尽セヌ
涙計コソ、袂ヲシタヒケルカナ。遠山ノ緑ノ黛モ、胡国
サイ
ノ雪ニ埋レ、蘭ジヤノ昔ノ匂モ、左斉ノ風ニ跡ヲ消ス。
タク
帝京ヲ離テ謫居シテ、徒ニ胡城ニ臥セル夜ハ、昔ノ
事ヲ夢ニ見ル。夢ニナケル涙ハ、欄干トシテ色深シ。
楓葉荻花ノ風ノ音、索々トシテ身ニシミ、遠波曲
江ノ月ノ影、茫々トシテ心澄ム。五陵ノ時ヨリ翫ビ、手
1トン
ナレシ琵琶ニタヅサヒテ、泣ヨリ外ノ事ナシ。家留テハ
空ク漢ノ荒門トナリ、身ハ化シテ徒ニ胡ノ朽骨トナラム
事ヲ、朝夕歎給キ。
1「トン」の振り仮名は不審。
Ｐ１３９７（九七オ）
見ル度ニ鏡ノカゲノツラキカナカヽラザリセバカヽラマシヤハ
リレウ
武帝此事ヲヤスカラズ思給テ、李陵ト云兵ヲ大将軍
トシテ、胡国ヲ責ニツカハス。其勢僅ニシテ、千騎ニスギ
ザリケリ。李陵胡国ニ行テ、微力ヲ励テ責戦ト
云ドモ、
キ
魚驪鶴翼之陣、官軍不得利一コトヲ。皇－旗
ヒ
1キ
電－戦之威、逆－類似レリ乗レニ勝一ニ。而ル間ダ官軍滅テ、終ニ狄ノ為ニ
2セン
李陵被取一テ、胡国ノ王単宇ニ仕ハル。武帝是ヲ聞給テ、
「年来ハカクハ思ハザリシカバコソ、大将軍ニ撰遣シツル
ニ、サテハ二心アリケル物ヲ。ヤスカラズ」トテ、季陵ガ母ヲ
責殺シ、 父ガ墓ヲ掘テ、其死骸ヲ打ツ。是ノミナラズ、
1「類」字の「キ」の振仮名不審。「逆」（ゲキ）の韻尾キの表記か。
2「単」「宇」平声。
Ｐ１３９８（九七ウ）
親類兄弟皆武帝ノ為ニ罪セラル。李陵是ヲ伝聞テ、
悲ヲノベテ云、「我思キ。胡国追討ノ使ニ被撰之時ハ、彼国
ヲ亡シテ君ノ為ニ忠ヲ致サムトコソ思シカ。サレドモ
軍敗テ、胡王ガ為ニトラハレテ仕ワルト云ドモ、朝夕隙ヲ
伺テ、胡王ヲ滅テ、日来ノ怨ヲ報ゼムトコソ思シニ、今カヽ
ル身ニナリヌル上ハ」トテ、胡王ヲ憑テ年月ヲ送ル。武帝
是ヲ聞給テ、李陵ヲ呼給ヘドモ不来。サテモ漢王軍ニ
負給ヌル事ヲ不安一思食テ、漢ノ天漢元年ニ、又李
将軍ト云者ト、蘇子荊ト云兵トヲ差遣ス。蘇子荊
ト申ハ今ノ蘇武是也。蘇武ガ十六歳ニ成ケルヲ、右大
Ｐ１３９９（九八オ）
臣ニ成シテ、二人ヲ大将軍トシテ、又胡国ヲ責ニ遣シケル
ニ、蘇武ヲ近ク召寄セテ、軍ノ旗ヲ賜トテ武帝
宣ケルハ、「此ノ旗ヲバ、汝ガ命共ニ持ベシ。汝若戦場ニシテ
死セバ、相構テ此ノ旗ヲバ我許ヘ返スベシ」ト、宣命ヲ含ラレ
ケリ。サテ蘇武胡国ヘ行テ狄ヲ責ケレドモ、胡城ニ
イク
戦フ師サ、狄ノ勢強シテ、官軍又被落一ヌ。大将軍ヲ始ト
シテ、宗トノ者卅余人被生取一ヌ。蘇武其内ナリケレバ、皆
片足ヲゾ折ラレケル。即死スル者モアリ。又二三日、四五日ニ
死スル者モアリ。或ハ甲斐ナキ命生テ、年月ヲ送ル
者モアリ。古京ノ妻子ノ恋キ事、日夜旦暮ニワスレズ。
Ｐ１４００（九八ウ）
1
瓢箪屡バ空シ、草滋シ顔淵之巷一ニ。藜〓深鎖、雨
2
湿原憲之枢一ヲケムモ、是ニハ過ジトゾ覚シ。彼ハ僅ニ
ハニフノ小屋モアリケレバコソ、雨モ枢ヲ湿シ、草モ巷ニ
滋カリケメ。此ハ草葉ヲ引結ブ、アヤシノ柴ノヤ
3
ドリモナケレバ、只野沢田中ニハイ行テ、春ハク
4
ワイヲ堀リ、秋ハ落穂ヲ捨テゾ、アケクレハスグシケ
5
ル。禽獣鳥類ノミ朋トナレリケレバ、常ニハ羊ノ乳ヲ飲
テ、明シ晩シケリ。秋ノタノムノ雁モ、他国ニ飛行ドモ、
春ハ越地ニ帰ル習アリ。是ハイツヲ期スルトシナケレバ、
只泣ヨリ外ノ事ナシ。
1『本朝文粋』巻六、橘直幹の申文の一節。『和漢朗詠集』巻下、草にも載る。
2「枢トボソ」（名義抄）。
3「行アリク」（前田本色葉）。
4「拾」とあるべきところ。
5「禽」は底本「貪」。
帰ル雁リ隔ル雲ノ余波マデ同ジ跡ヲゾ思ツラネシ K036
サテモ生死無常ノ悲サハ、刹利ヲモキラハヌ山風ニ、日ノ
色薄クナリハテヽ、思ハヌ外ノ浮雲ニ、武帝隠レ給ヌ。龍
楼、竹苑、後宮、卿相、侍臣、雲客、誰モ思ハ深草ノ、露ヨリ
滋キ涙ニテ、同煙ノ内ニモト、モユル思ハ切ナレド、照帝位ヲ
受給テ、蘇武ヲ尋ニ遣ス。「早失ニキ」ト偽リ答ケル
間、「未ダ有ト計ダニ、古里人ニ聞レバヤ」トハ思ヘドモ、〓田ノ
畝ニ住ム身ナレバ、甲斐ナク是ニモ合ザリケリ。牡羊ニ
乳ヲ期シテ、歳化空ク重テ、僅ニイケルニ似レドモ、漢ノ
節ヲ失ハズ。
Ｐ１４０２（九九ウ）
1 ヲコシケス トグサス
言ノ下ニハ暗ニ生下滑骨一ヲ火上ヲ、咲ノ中ニハ偸ニ鋭下刺人一ヲ刀上ヲ。 K037
セン
イカニモシテ胡王単于ヲ滅シテ、古京ヘ帰ラムト思
ヘドモ、力及バズ過シケリ。朝暮ニ見馴シ雁ノ、春ノ空ヲ迎テ、
都ノ方へ飛行ケルニ、蘇武右ノ指ヲクヒ切テ、其血ヲ
以テ柏葉ニ一詞ヲ書テ、雁ノ足ニ結付テ云ケルハ、「一樹
ノ影ニ宿リ、一河ノ流ヲ渡、皆是先世ノ契リナリ。何況
ヤ己ハ肩ヲ並テ年久シ。争カ此ノ愁ヲ訪ハザラム」トテ、
雁ニ是ヲコトヅケヌ。折節御門上林園ニ御幸シテ、
霞メル四方ヲ打詠、千草ノ花ヲ見給ニ、雁一行
飛来テ、遙ノ雲ノ上ニハツネノ聞ユルカト覚ルニ、一ノ雁無
1 以下、「ことばのしたには、やみにほねをけすひをおこし、わらひのなかには、ひそかにひとをさすかたなをとぐ。」と訓む。
Ｐ１４０３（一〇〇オ）
程一飛下ル。アヤシト叡覧ヲ経ルニ、結付タル書ヲクヒホド
キテ、落シタリケルヲ、官人是ヲ取テ、照帝ニ献ル。帝
自ラ叡覧ヲ経給ニ、其詞云、
「昔ハ籠（二）レテ巌穴ノ洞一ニ、徒ニ送リ三春之愁－歎一ヲ、今ハ放レテ〓－田ノ畝一ニ、
1 テキ
空ク聞ク（二）胡－狄之一－足一ヲ。設ヒ身ハ留テ而朽（二）トモ胡地一ニ、魂ハ還テ而再ビ仕ム
漢君一ニ」トゾ書タリケル。 K038
ハム
是ヲ御覧ジケルニ、帝無限一哀ト思食テ、歎ノ御涙ヲ
サヘガタシ。蘇武未生テ有ケル物ヲトテ、永律ト云賢キ
兵ヲ大将軍トシテ、百万騎ノ勇士ヲ卒テ、胡国ヲ責給ニ、
今度ハ胡国敗ラレテ、単于モ既ニ失ニケリ。永律、
1 「聞ク」底本のまま。
Ｐ１４０４（一〇〇ウ）
照君ヲ取返シ、蘇子荊ヲ尋得タリ。蘇武ハ片足ハ
折レタレドモ、十九年ノ星霜ヲ経テ、古郷ヘ帰リ上シニ、
李陵余波ヲ惜テ云ク、「我身年来君ノ御為ニ二心ナ
シ。就中一、胡国追討ノ大将軍ニ撰レ奉シ事、面目ノ一也。
然ドモ宿運ノシカラシムル事ニヤ、御方ノ軍敗テ
胡国ノ王ニトラハレヌ。サレドモ如何ニモシテ胡王ヲ滅シテ、
漢帝ノ御為ニ忠ヲ致サムトコソ思シニ、今母ヲ罪セラ
レ奉リ、父ガ死骸ヲ堀ヲコシテ、打セタメ給ケム。亡魂
イカヾ思ケム。悲トモ愚也。又親類兄弟ニ至マデ、一
人モ残ラズ皆罪セラルヽ事、歎ノ中ノ歎也。故郷ヲ
Ｐ１４０５（一〇一オ）
隔テ、只異類ヲノミ見ル事ノ悲キ」トテ、李陵、蘇武
ガ許ヘ五言ノ詩ヲ送レリ。其詞云、「携レヘテ手ヲ上ル河－梁一ニ。遊－
クンカユク フ カケル ワレ ヲ
ラ コノ
子暮何之。二鳧倶ニ北飛、一鳧独南ニ翔。余自留二ル斯館一ニ。
子今帰（二）ル故郷一ニ」。是レ五言ノ詩ノ始也。此心ヲヨメルニヤ。
同ジ江ニムレヰル鳧ノ哀ニモ返ル波路ヲ飛ヲクレヌル
蘇武十九年之間、胡国北海之辺ニ栖シカバ、万里
リヤウ
遼海ノ波ノ音ヲ聞テハ、遺愛寺ノ暁ノ鐘ニナゾラヘ、四
五朶山ノ冬ノ梢ヲ見テハ、香炉峯ノ雪カト誤タル。飛
花落葉ノ転反ヲ見テハ、春秋ノ遷り替ル事ヲ知ト
1 ト
云ドモ、博士陰陽ノ仁ニモ近付ザレバ、日月ノ行－途ヲ不知一。
1 「博」は底本「転」とある。
Ｐ１４０６（一〇一ウ）
故郷ニ帰リ旧宅ニ行タレバ、蘇武去ジ年ヨリ帰京ノ
1
今ノ年マデ、旧妻愁ノ余ニヤ、毎年一ノ衾ヲ
調テ、棹ニ並テ懸ヲケリ。細ニ是ヲ算レバ、十九ニ
テゾ有ケル。是ヨリシテゾ、蘇武去テ十九年
トハ知ニケル。怱ギ御門ニ参リテ、李陵ガ詩ヲ
奉ル。帝是ヲ御覧ジテ、哀トオボシケレド、甲
斐モナシ。先帝ノ御時給ハリシ旗ヲ懐ヨリ取出
シテ、御方ノ軍敗レテ、胡王単于ニトラワレテ、
〓田ノ畝ニ放レテ、年月悲リツル事、又李陵ガ
愁歎セシ事、カキクドキ細ニ語申セバ、御門悲涙セ
1 「衾フスマ」（名義抄）。
Ｐ１４０７（一〇二オ）
キアヘ給ハズ。蘇武生年十六歳ニシテ胡国ヘ越キ、卅四ニ
シテ旧都ヘ帰リタリシニ、白髪ノ老翁ニテゾ有ケル。
テンシヨク シヤク
後ニハ典属国ト云官ヲ給ハ（ッ）テ、君ニ仕ヘ奉リ、遂ニ神爵
元年ニ、年八十余マデ有テ死ニケリ。サレバニヤ、是
ヨリシテ文ヲバ雁書トモ云、雁札トモ名付タリ。使ヲバ雁
使トモイヘルトカヤ。又雁ノ足ニ結付タリケルガ、玉ノ様ニ
円カリケレバ、玉ヅサトモ申也。
1
ヘダテコシ昔ノ秋ニアハマシヤコシヂノ雁ノシルベナラズハ
ト、源ノ光行ガ詠ゼシモ、理トゾ覚ル。蘇武ハ入（二）テ胡国一ニ、繋（二）ゲテ
賓雁ニ於書一ヲ而、再ビ翫（二）ビ林苑之花一ヲ、康頼ハ栖（二）テ小嶋一ニ、流（二）テ蒼
1 源光行『蒙求和歌』第三秋部二十首中の「蘇武持節雁」。
Ｐ１４０８（一〇二ウ）
波ニ放歌一ヲ而、遂ニ見（二）ル故郷之月一ヲ。彼ハ漢明ノ胡国、是ハ
我国ノ油黄、彼ハ唐国ノ風儀ニテ思ヲ述ル詩ヲアヤ
ツリ、是ハ本朝ノ源流ニテ、心ヲ養フ歌ヲ詠ズ。彼ハ雁ノ
翅ノ一筆ノ跡、是ハ卒都婆ノ銘ノ二首ノ歌。彼ハ雲路
ヲ通ヒ、是ハ浪ノ上ヲ伝フ。彼ハ十九年ノ春秋ヲ送リ
迎ヘ、是ハ三ヶ年ノ夢路ノ眠リ覚タリ。李陵ハ胡
国ニ留リ、俊寛ハ小嶋ニ朽ヌ。上古末代ハカハリ、
境ヒ遼遠ハ隔レドモ、思心ハ一ニシテ、哀ハ同ジ哀也。
卅三〔基康ガ清水寺ニ籠事付康頼ガ夢ノ事〕
康頼ガ嫡子、平左衛門尉基康ハ、摂津小馬林マデ、
父ガ共シテ見送リタリケルガ、康頼出家シテケレ
Ｐ１４０９（一〇三オ）
バ、基康泣々小馬林ヨリ都ヘ還上テ、ヤガテ精進潔
済シテ、百ヶ日清水寺ヘ参詣ス。法花経ノ廿八品ノ其
キヤクヤ
中ニ、信解品ヲ毎日ニ読奉テ、百日ガ間、隔－夜スル折モ
1
アリ、夙夜スル時モアリ。「願ハ大慈大悲ノ千手千眼、
枯タル木草モ花サキ菓ナルベシト御誓アムナリ。
サレバ此身ヲ替ズシテ、二度父ニ合ワセサセ給へ」ト、三千
三百三十三度ノ礼拝ヲマヒラセケリ。既ニ八十余日
モ積リケルニ、油黄嶋ニ被流一タル判官入道ノ或夜ノ夢ニ、
海上ヲ遙ニ詠メヤレバ、白キ帆懸タル船ノ奥ノ方ヨリ
漕来ルトミル程ニ、次第ニ近ク漕寄ルヲミレバ、我子ノ
1 「夙夜シクヤ」（前田本色葉）。
Ｐ１４１０（一○三ウ）
左衛門尉基康其船ニ乗タリケリ。其白帆ニ文字
アリ。「妙法蓮花経信解品」トゾ書タリケル。猶次
第ニ近クヨルヲヨク／＼ミレバ、船ニハアラズシテ、白
馬ニゾ基康ハ乗タリケルト見テ打驚、ナニト
有ル妄想ヤラムト怪クテ、汗ヲシノゴヒテ、人ニモ
語ラザリケリ。康頼都帰ノ後ニコソ、子息基康
ニ初テ語リケル。観音ノ御変化ハ白馬ニ現ゼサ
セ給トカヤ、偏ニ是基康ガ祈念感応シテ、観
音ノ御利生ニテ都ヘハ帰リ上リニケリ。又小
嶋ニ崇メ奉リシ権現ノ御本地モ、観音ノ本師、
Ｐ１４１１（一○四オ）
弥陀如来也。師弟哀ヲ施シテ今都ヘ上リヌト、
父子共ニ感涙ヲゾ流シケル。
三十四〔成親卿被レ失ハ給事〕
大納言入道ハ、少将モ油黄嶋ヘ被流一、其ノ弟共ノ少ク御
ワスルモ安堵セズ、コヽ彼コニ逃隠給ナムド聞給テ、イトヾ
心憂ク悲クテ、日ニ随テハ思沈テ、身モ既ニヨハリ
テミヘ給ケル上、怱ギ可奉失之由承リニケレバ、
或時経遠ガ許ニ、大納言入道ノ呵嘖ニ付タリケ
ル智明ト申ケル僧、大納言ニ申ケルハ、「是ハ海中ノ
嶋ニテ候之間、何事ニ付テモスミウク候ニ、此ヨリ
北ニ、経遠ガ所領近ク候所ニ、吉備中山、細谷川ナムド
Ｐ１４１２（一〇四ウ）
申テ、名アル所候。彼所ニ有木別所ト云、イタヒケシ
タル山寺ノ候コソ、山水木立優ナル所ニテ候ヘ。其ヘ
渡ラセ給候ヘカシ。渡シ進セ候ハン」ト申ケレバ、大納
言入道、ゲニモトオボシテ、「トモカクモ計ニコソ
随ハメ」ト宣ケレバ、彼山寺ニ難波太郎俊定ガ作
置タリケル僧房ノ有ケルヲ借テ、渡シスへ奉
テケリ。初ハトカク労リ奉ル由ニテ、同七月十九日
ニ、坊ノ後ニ穴ヲ深ク堀ラセテ、穴ノ底ニヒシヲ植テ、
上ニ仮橋ヲ渡テ、其上ニ土ヲハネカケテ、年来
フミ付タル道ノ様ニコシラヘテ置タリケルヲ、
Ｐ１４１３（一〇五オ）
大納言入道知給ハデ、通リサマニ其上ヲ歩給
トテ、落入給タリケルヲ、用意シタリケル事ナレ
バ、ヤガテ土ヲ上ニハネカケテ、埋奉リニケリ。隠シケレドモ世ニ披露シケリ。
三十五〔成親卿ノ北方君達等出家事〕
北方此由ヲ聞給ケム心ノ内コソ悲シケレ。「『黄泉何ナル
所ゾ、一ビ往テ不ズ還一ラ。其台何ノ方ゾ、再ビ会ニ無シ期一。懸テ書一ヲ
欲レバ訪一ト、則存－没路チ隔テ兮、飛－雁不通一ゼ、擣テ衣一ヲ欲レバ
1
寄一ト、生死界異ニシテ兮、意馬徒ニ疲レヌ』ト云ヘリ。替ラヌ
躰ヲ今一度ミユルコトモヤトテコソ、憂キ身ナガラ
髪ヲ付テ有ツレドモ、今ハ云ニ甲斐ナシ」トテ、自ラ
1 「兮」ほ不読。
Ｐ１４１４（一○五ウ）
御グシヲ切給テケリ。雲林院ト申テ、寺ノ有ケルニ、
忍テ参給テゾ、戒ヲモ持給ケル。又其寺ニテゾ、
如形一ノ追善ナムドモ 営テ、彼ノ菩提ヲ訪奉リ給ケル。
若君閼伽ノ水ヲ結ビ給ケル日ハ、姫君ハ樒ヲツミ、姫君
水ヲ取給日ハ、若君花ヲタヲリナムドシテ、父ノ後世
ヲ訪給モ哀也。時移リ事定テ、楽尽キ悲来ル。
只天人ノ五衰トゾミヘシ。サレドモ大納言ノ妹、内大
ヲクリモノ
臣ノ北方ヨリ、折ニ触レテサマ／＼”ノ贈リアリケリ。
是ヲ見ル人涙ヲ流サヌハナシ。ナキ跡マデモ内大
臣ノ御志ノ深サコソヤサシケレ。成親卿ハ若ヨリ
Ｐ１４１５（一〇六オ）
次第ノ昇進カヽワラズ、家ニ未ダナカリシ大納言ニ至リ、
栄花先祖ニコヘ給ヘリ。目出カリシ人ノ、イカナル
宿業ニテ、カヽルウキ目ヲ見給テ、再ビ故郷ヘモ
帰リ給ハズ、終ニ配所ニテ失給ニケム。其最後ノ有
様モ都ニハサマ／＼”ニ聞ケリ。歎ノ日数積テ、ヤ
セ衰テ思死ニ死給タリトモ聞ユ。又酒ニ毒ヲ入
テスヽメ奉リタリトモ沙沈シ、又ヲキニ漕出テ
海ヘ入奉リタリトモ申ケリ。トカク云サヽヤキ
ケル程ニ、不思議ナリケル事ハ、経遠ガ最愛ノ娘二
人アリ。七月下旬ノ比ヨリ一度ニ病付テ、ハテニハ
Ｐ１４１６（一〇六ウ）
物ニ狂テ、竹ノ中ヘ走入テ、竹ノ切クヒニタウレ懸
リテ、ツラヌカレテ、二人ナガラ一度ニ死ニケリ。
忽ニ報ニケルコソオソロシケレ。
三十六〔讃岐院之御事〕
1
廿九日、讃岐院御追号アリ。崇徳院ト申ス。
此院ト申ハ、去ヌル保元々年ニ、悪左府頼長公ノ
勧ニ依テ、世ヲ乱リマシ＜シ御事也。其合戦ノ
庭ヲ逃出サセ御シマシテ、仁和寺ノ寛遍法務ノ
御坊ヘ御幸ナリタリケルガ、讃岐国ヘ被移一マ
シマス由ヲ聞テ、其比西行ト聞ヘシ者、カクゾ思ツヾケシ。
2
コトノハノ情絶ヌル折節ニ有合身コソ悲シカリケレ
1 以下、崇徳院関係の説話は「保元物語」と関連する。
2 『山家集』巻下、雑にある。第二句「なさけたえにし」。
Ｐ１４１７（一〇七オ）
1
シキ嶋ヤ絶ヌル道ニナク＜モ君トノミコソ跡ヲシノバメ
新院讃岐ヘ御下向アリ。当国々司参行朝臣ノ沙
汰トシテ、鳥羽ノ草津ヨリ御船ニ召シ、四方打ツケ
タル御屋形ノ内ニ、月卿雲客ノ御身近ク随奉ル一
人モナシ。只女房二三人ゾ泣悲ナガラ仕ヘ奉リケル。
御屋形ハ開事モナケレバ月日ノ光モヘダヽリヌ。
道スガラ浦々嶋々由アル所々ヲモ御覧ゼズ、空ク
過サセマシマセバ、御心ノナグサム方モナシ。取广ノ
浦ト聞食テハ、行平中納言モシヲタレツヽ歎ケム
心ノ中ヲ思食ヤラレ、淡路嶋ト聞召テハ、昔大炊ノ
1 同じく『山家集』巻下、雑。「コトノハノ」の歌に対する寂然の返歌。
Ｐ１４１８（一〇七ウ）
廃帝ノ彼ノ嶋ニ被遷ツヽ、思ニタヘズ失給ケムモ、
今ハ我身ノ御上ト思食ス。日数ノ経ルマヽニハ都ノ
達ザカリ行モ心細ク、況一宮ノ御事思食出ルニ
付テハ、イトヾ消入御心地ナリ。「ナニシニ今マデナ
ガラヘテカヽル思ニ咽ラム。只水ノ沫トモキエ、底
ノミクヅトモタグヒナバヤ」トゾ思食ス。昔河辺
1
りうとうけきしゆう
ノ逍遙ノアリシニハ、龍頭鷁首ノ御船ヲ浮テ
ツナ
錦ノ纜ヲ解キ、王公卿相前後ニ囲遶シテ、詩歌管
2
カヒビセン トマ
絃ノ興ヲ催シキ。今ハ海＿尾＿船ノ笘屋形ノ下ニウヅモレツヽ、
南海ノ外ヘ趣カセマシマス、生死苦海ノ有様コソ返々
1 「りうとうけきしゆう」底本のまま。
2 「海尾船」は訓合に従えば「あまをぶね」と訓める。
Ｐ１４１９（一〇八オ）
1
モ哀ナレ。遠ク異朝ヲ検レハ、正邑王賀ハ故国ヘ帰リ、
シヨク
玄宗皇帝ハ蜀山ニ遷サレキ。近ク吾朝ヲ尋レバ、安
孝天皇ハ継子ニ殺レ、崇峻天皇ハ逆臣ニ犯レ給キ。
十善ノ君万乗ノ主ジ、先世ノ宿業ハ力及バヌ事ゾ
カシト思食ナゾラヘケルコソ、責テノ事トハ覚シ
カ。サレドモツナガヌ月日ナレバ、泣々讃岐ヘツキ給ヌ。
当国志度郡直嶋ニ御所ヲ立テスへ奉ル。彼嶋ハ国ノ
地ニハアラズシテ、海ノ面ヲ渡事二時計ヲ隔タリ。
田畠モナシ、住民モナシ。実ニ浅猿キ御スマヒトゾ
見シ。長キ一宇ノ屋ヲ立テ方一丁ノ築垣アリ。
1 「検カムガフ」（名義抄）。
Ｐ１４２０（一〇八ウ）
南ニ門ヲ一ツ立テ外ヨリ鎖ヲ指タリケリ。国司ヲ
始トシテアヤシノ民ニ至マデ、恐ヲ成シテ、言問
参ル人モナシ。浦路ヲ渡ルサヨ千鳥、松ヲ払フ風ノ
1
音、磯辺ニヨスル波ノ音、叢ニスダク虫ノ音、何モ哀ヲ
シヤ
催シ、涙ヲ流サズト云事ナシ。紫－蓋－峯ノ嵐疎、雲
タキシキテ
収七百里之外。曝布二泉－浪ヲ一冷ク、 月澄二四十尺之
コウ チヤウ
余一ニ。幽－思不レ窮一マラ。深－巷ニ無人一ト之処、愁－腸欲断一ヘナムト。閑
窓ニ有レ月一ノ之時トカヤ。是ヨリ又当国ノ在庁、一ノ
2 ヤ タイウ
庁－官、野－大－夫高遠ガ堂ニ移リ給タリケルガ、後ニハ
鼓ノ岡ニ御所立テゾ渡ラセ給ケル。カクテ年
1 「叢クサムラ」（黒川本色葉）。
2 「野」「大」上声、「夫」平声。
Ｐ１４２１（一○九オ）
月ヲスゴサセマシマスニ、御身ニハ何事モ先世ノ事
ト思食ドモ、女房達ハ何ノ顧ニモ不及一、都ヲ恋ル心
ナノメナラズ。落ル涙ハ紅ニ変ジ、押フル袖ハ朽ヌ
計也。是ヲ御覧ズルニ付テハ、何事モ御心弱ク
ナリテ、相構テ可被申宥一之由、御人ワロク関白
殿ヘ度々仰事有ケレドモ、返事ニモオヨバズ。
責ノ御事ニ思召レケルハ、「我受テ天照大神之
苗裔一ヲ、沓（二）天子之位一ヲ、忝ク蒙（二）テ大上天皇之
シメ
尊号一ヲ、卜（二）キ紛陽之居一ヲ。春ハ随（二）ヒ眷ノ遊一ニ、秋ハ催（二）シ
秋ノ興一ヲ、翫（二）ビ韶陽之花一ヲ、詠（二）ジ長秋之月一ヲ、久ク
Ｐ１４２２（一〇九ウ）
誇（二）テ仙洞之楽一ニ、又非（レ）ズ無（二）ニ思出一。如何ナル罪ノ報ニテ、遙ノ
嶋ニ放レテ、カヽル悲ヲ含ラム。境ヒ不（レ）レバ有（二）南北一ニ、旅
トナラ
雁縁書ノ之便リヲ難得一。政ゴト不レ別（二）陰陽一ヲ、烏
バ エ
頭馬－角之変難シ有一リ。懐土之思ヒ最深シ。
望郷之鬼トコソナラムズラメ。自天竺振旦一
至日本吾朝一ニ、位ヲ争ヒ国ヲ論ジテ、叔父甥
合戦ヲ致シ、兄弟闘諍ヲ起セドモ、果報ノ勝
劣ニ随テ、叔父モ負、兄モマク。雖然一卜時移リ事
去テ、罪ヲ鮒シ讎ヲ飜スハ、王道ノ恵ミ、無偏ノ情
也。サレバ奈良ノ先帝、内侍督ノ勧ニ依テ世ヲ
Ｐ１４２３（一一○オ）
乱リ給シカドモ、出家セラレニシカバ、流罪ニハ及バザ
リキ。況ヤ是ハ可被責一之由聞シカバ、其難ヲ遁
ルヽ方モヤト防シ計ナリ。サシモ罪深カルべシトモ
不覚一。是程ノ有様ニテハ、帰リ上テモナニカセム。今
ハ生テモ又何ノ益カアラム」トテ、御グシモメサズ、
御爪ヲモ切ラセ給ハズ。柿ノ頭巾、柿ノ御衣ヲ召ツヽ、
御指ヨリ血ヲアヤシ、五部ノ大乗経ヲアソバシテ、
御室ヘ申サセ給ケルハ、「形ノ如ク墨付ニ、五部ノ大
乗経ヲ三ヶ年間書奉テ候ヲ、貝鐘ノ声モ聞
1
エヌ国ニ棄置奉ラム事、ウタテク候。此御
1 「棄」、底本「奇」。
Ｐ１４２４（一一○ウ）